騎手・武豊の肩甲骨、股関節

馬と一体になり、激しいレースを戦い抜く騎手。彼らに求められる最たることが“いかに馬に負担をかけず、動きを妨げないか”ということ。日本競馬界のレジェンドである武豊さんに騎手ならではのカラダづくりやトレーニングについて教えてもらった。

取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文

初出『Tarzan』No.833・2022年5月12日発売

武豊 騎手

モンキー乗りという騎乗スタイル

「競馬のジョッキーの騎乗スタイルは、日常生活のなかではあまりない姿勢、動きなんです。いわゆる“モンキー乗り”。馬術競技では尻を鞍につけて、上体は起こしますが、モンキー乗りでは鞍に乗らず、上体を地面と平行にします。立位では馬をコントロールしやすいのですが、スピードという点で劣る。競馬の騎手に求められるのは、とにかく速さなので、馬の負担にならない、馬の動きを妨げないことが一番重要になってくる。

カラダを起こすと、風を受けてしまうから、馬に制限をかけてしまいます。だから、あんな乗り方になったんですね。ただ、馬は直進するだけではないので、ジョッキーもコントロールはしなくてはならない。速さと制御、2つを求められるので、難しい乗り方だと思います。騎乗には正解はない。ただ、股関節と肩甲骨の使い方は重要です。僕も現在進行形で、よりよいスタイルを探っています」

股関節と膝を深く曲げ、さらに踵を浮かせた姿勢

股関節と膝を深く曲げ、上体を地面と平行にする。踵を浮かせて拇趾球だけでバランスを取る。この姿勢できるかな?

馬を速く走らせる理想の騎乗

「馬の走りでは、後ろ脚が原動力になります。蹴った脚が(前に)返ってくるときが重要なポイント。このときに、馬の負担にならないようにしないといけないし、速く走れるように促さなくてはならない。これは、ラストの追い込みをかける場面の話です。蹴った脚が返ってくるときに、馬の首は自然に下がります。が上がりますからね。そこで騎手は、肩甲骨からを動かすようにして手綱を操り、さらにを押し下げる。

すると、相対的に尻の位置は一段と高くなり、それに合わせるように馬の脚はより前へと返ってくる。こうすることで、騎手は馬のストライドを1cmでも2cmでも伸ばしていこうと考えているんです。

ストライドが伸びれば、スピードも乗ってきます。また、手綱を使って馬の首を押すことは、もっと速く走らなければならないと馬に思わせる、合図にもなっている。最後の直線を争うときには、ムチだけでなく手綱も重要なんです」

股関節と足首、筋力と柔軟性

「騎手が騎乗するときに馬と接するのは、鐙に乗せた親指の付け根(拇趾球)だけなんです。この一点で体重を支えて、足首、膝、股関節を深く曲げ、上体を地面と平行に保持します。とても不安定な状態ですが、そんななかでも騎手は、できるだけ馬に負担をかけないようにしないといけない。

たとえば、人間がリュックを背負って走るとき、それが前後左右に揺れたら走りにくい。馬も一緒で、騎手が揺れては思うように走れない。だから、騎手は馬に合わせることが一番重要になります。ただ、馬の動きは一定でないので、瞬時に対応することが大切です。

騎乗しているときは、膝は馬につけないし、固定してほとんど動かしません。骨盤を安定させて股関節と足首を動かす。馬に合わせて2つの関節の屈曲をすばやく、微妙にあるいは大胆に変えることが大切。そのために、股関節まわりの筋力と柔軟性は、なくてはならないんですよ」

馬に負けない強い肩甲骨

「追い込みをかけるときは、手綱で馬の首を押し下げるのですが、それは終盤に限ったことで、それまでは、手綱を引く動作のほうが多いんです。馬は前へ前へと行きたがるので、それを抑えないといけない。そのままにしておくと、馬の体力が持ちませんからね。

ただ、競馬馬の体重は500kgもある。それを手綱だけでコントロールしなくてはならないんです。大きな力がいるし、あるときには細かな動きも必要になってくる。だから、手綱と言っても手だけを使っていては馬に負けてしまう。

まずは、カラダ全体を柔軟に動かすことが重要です。そして、手綱は肩甲骨から肩、腕、手を使って操るようにする。たとえば、手綱を押し下げるとき肩甲骨は開くし、逆に引くときは閉じる。カラダの中心から動かすことで、馬に応じられる力が生まれるんです。もちろん、そのためには股関節と同じように、騎手の肩甲骨まわりも柔軟性と筋力が求められます」

ケガに勝つ、タフなハート

「騎手にケガはつきものです。2001年には骨盤の5か所、両恥骨、両坐骨、片側の仙腸関節を骨折しました。ところが、このときは50日と少しでレースに復帰することができたんです。1か月はベッドから起きられなかったけど、そこから3週間で復帰。骨盤は騎乗の要でまだ痛かったですが、自分で走るわけではないので(笑)、どうにかレースができたんです。

アスリートはケガの治りが早いといわれますが、僕もそう。騎手なので馬に乗れないと何も残らない。だから、ケガした直後からベッドの上で足先、指先だけでも刺激を入れるようなトレーニングはしていました。治ってきたら木馬(騎乗のシミュレーションマシン)で股関節や骨盤の状態を探ったり、実際に乗れるのかを試したり。結局、馬に乗りたいという一念で、治ったことにしてしまったというのが本当のところなんです」

トレーニング、そして明確な目標

「トレーニングはやっています。1日でも休んでしまうと、現状を維持できないと思うし、馬券を買ってくれる人に対して責任もありますから。さぼりたい気持ちは当然湧きますよ。でも、20分でもいいからマシンでランニングという感じで、動くようにしています。ただ、競馬では斤量(馬がレースで背負う重量)が決まっているので、筋肉を増やすようなパワー系のトレーニングは一切やりません。

ケアも重要。これもトレーナーさんに頼んだり、自分でも行っています。土・日が競馬開催日で、1日10鞍(10レース)乗るときもある。そうすると、脚は延々と“うさぎ跳び”をやったような状態になる。とくに股関節は常に使うので、カラダの内側にある腸腰筋が硬くなる。重点的にストレッチで伸ばします。とにかく、トップレベルでレースに出場し続けることが、今の明確な目標なんです」

難しすぎる馬、ディープインパクト

「一番思い出のある馬はディープインパクトです。デビュー戦から引退するまで全レースに乗りましたが、最後のレース・有馬記念でやっと馬と一体になれたと思った。それまでは、この馬を乗りこなせているという感触というか、手応えを覚えることがなかったです。

それぐらい難しい馬でした。ディープインパクトは全力で走ることが好きすぎて、それに待ったをかけるのが大変だった。抑えるために、体力的な部分だけではなく、騎乗テクニックなども含めて考えさせられることが多かったです。

ディープインパクトと騎乗する武豊

2006年12月24日、引退試合の有馬記念で疾走するディープインパクトと騎乗する武豊。「飛んでいるような感じ」と武。 報知新聞/アフロ

それが、有馬記念では一体になれた。3コーナーから4コーナーにかけては、本当に飛んでいるような感じで、すごく気持ちよかった。ああいう感覚は、なかなか味わえない。最後の最後に完璧だと思いましたね。うれしかったです」