
早熟のスピードスターの怪我遍歴。
2024年シーズン、J1リーグ最終節の前々日、神奈川県横須賀市にある「横浜F・マリノス」の練習場で行われた公開練習に、宮市亮はチームメイトが引き上げるタイミングでピッチに現れた。3日前の試合で左足首を痛めて負傷退場しており、調整のために室内でトレーニングをしていたのだろう。
怪我の程度が心配されたが、ピッチを数周ゆっくりとジョグで回り、ボールを蹴る姿を見て、それほど重篤なものではないとわかった。それでもスパイクを脱ぐと、左足にはガッチリとテーピングが施されている。「最終節には出場できそうですか?」と声をかけると、「明日の調子次第ですね」と笑顔で答えて去っていった。

「怪我こそ、私。」というタイトルの連載に、宮市ほどふさわしい取材対象者は他にいないだろう。
右足首靭帯損傷を契機に、左太腿裏筋断裂、左膝前十字靭帯断裂、右膝前十字靭帯断裂、グロインペイン症候群、さらに右膝前十字靭帯断裂。怪我の履歴を並べただけで、そのキャリアがいかに苦闘に満ちたものか、想像に難くない。
一度だけでも選手生命を脅かすような膝前十字靭帯の断裂を左右合わせて三回。その度に最低でも8ヶ月かかるリハビリに取り組み、復活してきた男。怪我をする度に物語が生まれ、宮市はドラマチックな人生を歩んできた。
走って、ボールを追う姿を見るだけで胸が熱くなる。私たちはサッカーの試合を見ながら、同時に選手の物語を読んでいる。
それほど多くの怪我に見舞われながら、今なお注目を集めるのは、彼にそれだけの価値があるからだ。2010年当時、高校生がJリーグを経ずに海外でプレーする事例がほとんどない時代に、宮市は世界最高峰と称されるイングランドのプレミアリーグ、中でも毎年トップ4に必ず名を連ねる名門アーセナルFCへの加入を果たす。
圧倒的なスピードは世界でも通用し、期限付き移籍先のボルトン・ワンダラーズFCでの、左サイドで対戦相手をぶち抜く動画は、今でも再生され続けている。
多くのサッカーファンが「このまま行ったら、どれほどの選手に成長するのだろう」と大きな期待を寄せていたが、怪我によって思い描いていた未来は阻まれた。期待が落胆を生むが、誰よりも落胆していたのは、宮市本人ではなかったか。
結局、出場のなかった2024年シーズン、J1リーグ最終節の翌日、年内最後のミーティングを終えて私服に着替えてやって来た宮市は、想像以上に爽やかな印象だった。
怪我の程度も「久しぶりに軽い捻挫をしたなっていう感じです。怪我には入らないくらい」と笑った。悲壮感はなく、和やかなムードでインタビューは始まった。最初の大怪我は、2013年。当時、宮市は20歳だった。
初めての手術、のちの怪我の元凶。
「大きな野望を持ってアーセナルへ加入して、レンタル先で自分の価値を証明しなければいけない。またアーセナルに戻って自分を証明したいという中で、ああいう怪我になってしまって。なんで今なんだろうとか、イラつきとか、何日も何日もその気持ちに支配されていました。当時は受け止めるのが、本当に難しかった」
ビッククラブは世界中からスカウトした若手選手を中堅以下のチームに「期限付き移籍」し、活躍できると判断すると自チームに呼び戻す。期限付き移籍期間中はいわば武者修行の身であり、「価値を証明」する必要がある。
宮市は、自身にとっての3シーズン目をウィガン・アスレティックFCで過ごしていた。2013年3月9日対エバートンFC戦、悪質なタックルを受けて、ピッチ脇に崩れ落ちる。4ヶ月前に同じ箇所を損傷しており、その怪我からの復帰戦だった。右足首前距腓靭帯を損傷してしまい、宮市のキャリアにおいて初めての手術を行う。
「今、思えばあの手術の判断が正しかったのかどうか。振り返ってみたら、後の怪我に繋がってしまう大きな決断でした。メスを入れることにすごく抵抗がありましたね。どうなってしまうんだろうという恐怖はありましたが、自分で手術を選びました。アーセナルのドクターをはじめ、色々な専門家と話して、強度を高めた方がいいんじゃないかと人工靭帯を入れてボルトで留めて、今も入ってます。足首は、地面からの反発を受けるところだから可動域がすごく大事なんですね。足首がうまく動かないと反発を吸収するのが股関節と膝だけになってしまう。そして、股関節と足首が連動しないと、間にある膝がダメージを食らってしまうんです。今になって思えば、あの手術がのちの前十字に繋がっていたのかなと思いますが、当時はそんなことわからなかったから」
手術によって失われたものは、右足首の柔軟性だった。手術をしてしばらくは「自分の足首ではないみたいな感覚」だったという。まるで猫のように体を小さく前傾姿勢にして、爆発的なエネルギーで走っていた宮市にとって、柔軟性こそが生命線だった。そうわかるのは、皮肉にも怪我を頻発するようになったからだ。
改めて20歳での決断を後悔しているかと訊くと、「正直、保存治療で治せたのかなとは思います」と真っ直ぐに目を見て答えた。セカンドオピニオン、サード、フォースといろんな選択肢をテーブルに乗せて考えるべきだった、と。だが、それはあくまで結果論に過ぎず、「最後に決断したのは自分なので」と強調した。

「スピードを売りにした選手である僕が、実は一番辛かったのは、その翌年にアーセナルに戻ってリザーブリーグでの肉離れかもしれない。筋断裂に近い、肉離れの最上級と言うか。右足首のことがあったので、メスは入れずに保存治療を選びました。でも自分のパフォーマンスが戻るまでがめちゃくちゃ大変でした。スピードが全然戻ってこないんです。アスリートの怪我って、全治5ヶ月だとしたら、元のパフォーマンスに戻るのに、同じ期間かかると思う。都合10ヶ月の離脱になるわけですよね。『治りました、はい、プレーしてください』って言われてもできないんです。そんなこともわかっていなかった。復帰後にオランダのトゥエンテからオファーをもらってレンタル移籍したのに、実は体が戻っていなかった。気持ちが先行して、パフォーマンスが合わない。心技体が重要だということをわからせてくれた2014年だったと思います」
宮市は、この頃からメンタル・トレーニングを行うようになっていく。すがるものを探すように本を読み漁って出会ったのが、現在はプロゴルファー・横峯さくらの夫でメンタル・トレーナーの森川陽太郎だった。
著書に感銘を受けて自らアクセスした森川とは、カウンセリングのように日々の不安を話し、そこから抜け出すためにはどうすればいいのか、心の処し方についてのアドバイスをもらうようになった。
「理想が高くなりすぎていて、自分がいいプレーをしたときにも満足できなかったんです。もっともっと、常にそう考えてしまう。高くなっている理想を下げて、頑張ればクリアできるくらいの目標設定をして、そこで自分のプレーが安定するように擦り合わせていきました。とにかく結果を出さなきゃいけない、アーセナルに戻らなきゃいけない。結果、結果、結果で頭の中がいっぱいだったから」
まるで水中にいるような重苦しいドイツでの日々。
理想と現実のギャップを認めることは、どんなプレーヤーにとっても難しいことだが、宮市はその差が極端に開いてしまった。トップ・オブ・トップの選手たちがプレーするイングランド、プレミアリーグのアーセナルから、ドイツ、ブンデスリーガ二部のFCザンクトパウリへと移籍する。
思い描いていた未来とはほど遠い失意の中、心機一転、再スタートという最初の1ヶ月目で、左膝前十字靭帯を断裂してしまう。シーズン直前の練習試合で相手と競り合いながらジャンプし、着地でバランスを崩した。
左膝で全体重を受け止めた感覚があり、「ギリッ」という嫌な音がした。膝の権威である外科医がいるミュンヘンへ飛び、診断を仰ぐと、「切れている」と告げられた。診察室にひとりになったときに、宮市は思わず涙が溢れてきたという。
「当時、結婚したばかりで『本当にどうなっちゃうんだろうな、俺』って思ってました。先が見えなくて、水の中に入れられたように息苦しくて。あれは、鬱じゃないと言ったら嘘になる。ドイツは天候も悪くてどんよりしているし。でも、このままでは終われない、それだけでした。絶対に、もう一度戻ってやるぞっていう強い思いだけでリハビリをしていました。二度目に、前十字靭帯を切った時も同じです。僕のキャリアは、その繰り返し。落ち込むけれど、でも明日はやってきて、生活しなければいけないから、落ち込んでもいられない。家族もいますからね。2017年の二度目の前十字は、長男が産まれたタイミングだったから。ちょうど結婚と出産のタイミングで、切れてしまった」

数日前の試合で負った足首の捻挫も軽症だったためか、悲壮感はなく、和やかな雰囲気でトレーニングを行っていた。宮市はとても朗らかな選手で、周囲を明るくさせる。
2014年の左膝よりも、2017年の右膝の方が、怪我の程度は重かった。シーズン開幕に向けた準備期間での練習中、相手を抜こうとボールをまたぐフェイント、シザースをしたときに右足が芝に引っかかってしまう。前回同様に自分の体重が右膝にかかり、目視でわかるほど外側に曲がった。
再びミュンヘンに向かい、同じドクターから診断を受けると、前十字靭帯断裂、外側側副靭帯断裂、半月板損傷と言われた。自著『それでも前を向く』(朝日新聞出版)に当時の心境が記されている。
「この1年はプレーできないだろうし、契約も終わる。『やめるかも』という感情が脳裏をよぎった。まだ24歳だったが、『引退』の2文字が初めて心に浮かんだ」
全治8ヶ月の診断だった。
「二度目の時にもまだ、自分の中で受け入れられていなかったんだと思います。『なんで俺なんだろう、俺のキャリアはこんなはずじゃなかったのに』ってどうしても思っていましたね。でも現実を見て、『お前のキャリアはこうなんだ』って少しずつ受け入れるしかない。次に大怪我をしてしまったら、もう引退するしかないなと腹も括ったし、そういう覚悟でプレーするようになりました。そう思わなかったら、リハビリを乗り切れなかったと思います。8ヶ月離脱したら、自分の感覚を取り戻すまでにもう8ヶ月かかる。その作業が本当に辛かったから。リハビリで頑張ってきて、ピッチに戻ったら、それまでと全く感覚が違うんです。俺、プロとしてやっていけるのかな? という絶望感。怪我って、マイナスになって、リハビリでゼロに戻すまでに時間がかかって、なかなかプラスが積み上がっていかない。怪我をしない選手はその分だけ練習して、試合に出て、選手として成長していくのに、俺はずっとゼロで、先に進むプロセスを踏めていない。ジグソーパズルのピースをようやく埋められたかなと思ったら、またバーンとひっくり返してやり直し。ジェンガをどれだけ高く積み上げても、全部ひっくり返されて、また一から積み上げるしかない。
自分を支えていたのは、意地とかプライドですよね。絶対にこのままでは日本に帰れない、終われないぞっていう思いだけでした」
意地とプライドは、諸刃の剣のようなものなのかもしれない。これまで宮市を追い込んできた高卒プレミアリーガーという肩書きが、術後のリハビリでは彼を支えるものに変わった。
自身を奮い立たせてリハビリをこなし、復帰後にはザンクトパウリでの出場時間を伸ばしていく。2018〜2019年シーズンは公式戦25試合、翌2019~2020年シーズンでは30試合と、共に年間を通じて初めて怪我なくシーズンを完走することができた。
ようやくプラスへと積み重なりそうなキャリアも、翌年にはグロインペイン症候群という、鼠蹊部の痛みに悩まされてしまう。サッカー選手に比較的多いこの症状を治療するために、鍼灸やカイロプラクティスさまざまな治療を試す中で、身体にまつわるマネージメントのレベルが高い日本復帰を考えるようになっていった。

Profile
宮市亮(プロサッカー選手)
1992年生まれ愛知県出身。中京大学附属中京高等学校に進学し、2年、3年時に全国高校サッカー選手権大会に出場。2010年イングランド、プレミアリーグの名門「アーセナルFC」と契約を結ぶ。2015年にドイツ、ブンデスリーガ二部「FCザンクトパウリ」に完全移籍し、6年間在籍。2021年にJ1リーグ「横浜F・マリノス」に完全移籍し、現在も所属している。著書に『それでも前を向く』(朝日新聞出版)がある。