
怪我を経て、走り方の改善に向き合う。
2017年、二度目の前十字靭帯断裂の手術から復帰した頃から、宮市は走り方を改善すべくトレーニングを行うようになった。元日本代表の岡崎慎司や吉田麻也のコーチを務めた杉本龍勇には、以来、現在まで指導を仰いでいる。
陸上競技の元オリンピック選手で、現在は法政大学経済学部の教授である杉本のメソッドによって、初めて効率的な走り方を知った。いわば野生の状態から、サッカー選手としての走り方への改善は、怪我を生んでしまう爆発的なエネルギーをコントロールするためのプロセスでもあった。
「陸上競技の世界はコンマ何秒を突き詰めていくので、足のつき方、膝の角度、姿勢、細かなところを作り上げていくんですね。とても地味な作業ですが、走り方の概念が変わりましたし、そのおかげで肉離れは減りました。昔の僕は、姿勢を低くして突っ込んでいくドリブルだった。そのために足で地面を掻くような動作が多くなってしまって、ハムストリングの力だけで走っていた。今の方が姿勢高くドリブルしていると思うんですが、それは走り方を変えて反発を受けて走れるようになったから」
その成果は現在まで宮市のスピードが衰えていないことからもよくわかる。走り方の改善、そして「現在の自分を受け入れる」というメンタル・トレーニングの成果によって、宮市は出場時間を伸ばしていった。

他の選手が練習を終えた後、ピッチに現れて、足首の感触を確かめるようにジョグで周回をしていた。三度目の膝前十字靭帯断裂のリハビリ後に、初めて走ったのもこのピッチだった。

とても楽しそうにピッチで走る姿が印象的だった。ピッチは常に、自分を表現する場所。
日本への帰国を決断した痛み。
だが、身体はそう簡単に変わらないのかもしれない。日本への帰国を決意したのは、人工靭帯によって足首の柔軟性が失われ、膝同様に負担がかかっていた股関節に、グロインペイン症候群が発症したからだった。
明確な原因は特定できないが、咳をしたり笑ったりするだけでも鼠蹊部に痛みが走り、肛門の中まで痛くなっていたという。そのため2020〜2021年シーズンは、ほとんど試合に出場していない。治療の過程でマッサージや鍼灸など、日々のケアの重要性を認識していく。
キャリアをスタートしたヨーロッパで引退したいと思っていたが、ケアやトレーナーのレベルの高い日本に帰ることを考え始めたタイミングで、横浜F・マリノスからのオファーが届いた。
「グロインペインに導かれたのかもしれません」と言った。2021年7月に移籍を果たし、宮市は28歳でJリーガーになった。だが、グロインペイン症候群の長期離脱のために、思うようにパフォーマンスは上がってこない。自著に、当時の心境を綴っている。
「『地道にできることからやる』『一歩ずつ、少しずつ積み重ねるんだ』と言い聞かせながら、期待値との差を埋めようと自分と向き合った」(『それでも前を向く』(朝日新聞出版))


翌2022年、Jリーグに馴染み始めた宮市は、3月に初先発を果たすと、続けて試合に出場し、チームの勝利に貢献する。日本のサッカーファンは、そのスピードが衰えていないことを知り、7月には10年ぶりとなる日本代表に選出される。
海外組が招集されない、Jリーガーのみで構成された日本代表とは言え、カタール・ワールドカップを控えた選考の場であり、結果を残せばそのまま代表に定着する可能性もある状況だった。日本を含めた4カ国で行われた東アジア選手権の第3戦、韓国との試合の後半14分に交代出場を果たす。
地元・豊田スタジアムの場内には、宮市の帰還を祝福するように、大きな声援が響き渡った。度重なる怪我を乗り越え、ようやく、本当にようやく辿り着いた場所だった。だが、わずか19分後に相手選手と交錯して、負傷交代。天を仰ぐ宮市には、致命的な怪我であることはわかっていた。だが、試合終了後もチームから去らず、メンバーと共に優勝を祝ってから病院に行き、MRI検査を受けた。そして、三度目の膝前十字靭帯断裂と診断された。
「もしかしたらワールドカップに出場できる道もあるんじゃないかって、そのつもりでプレーしていました。でも怪我をした瞬間に、『ここまでだったか』って……。二度目の前十字の時に、三度目をやったらやめようと決めていたので、ついに来たかと」
診断を受けた後、妻に「本当に切れていたよ」と電話をかけた。マネージャーには「もう引退します」と告げ、世話になっていた香川真司と吉田麻也にも報告をした。
最後にスタジアムに観戦に来ていた父に電話をすると「ようやった、よう頑張った」と声をかけられた。その電話を切って、深呼吸をしてからもう一度スマホの画面を見ると、SNSには宮市を励ますメッセージが大量に届いていた。
「あの出来事が、自分のサッカー観を覆してくれました。これだけ怪我をしても、自分のプレーを待っていてくれる人たちがいてくれることを知って、もう一度、立ち上がれたから。プロのサッカー選手で良かったと心底思いました。代表戦で(靭帯を)切って、現役を引退しようと考えた時に、今、僕がいる環境がいかに幸せなのかを感じました。その辺りからかな、色々なことが俯瞰で見られるようになったと思います。相手を抜くんだ、負けないという闘争心はあるけれど、エゴはもう全くないんです。例えば『俺がゴールを決めてチームを勝たせる』と言った時に、そのゴールが決まるまでの前提があるじゃないですか。アシストがあって、その前には守ってくれたディフェンス、ゴールキーパーがいて、さらに言えば運営スタッフがいて、Jリーグを支えているファン・サポーターがいて。そのおかげで僕らはピッチに立たせてもらっている。自分がゴールを決めた喜びよりも、みんなで作り上げたゴールという喜びですよね。様々な人のおかげで、プロサッカー選手として、宮市亮としていさせてもらっているんだなって、周りを見られるようになったと思います」

横浜F・マリノスのホームスタジアム「日産スタジアム」。2002年FIFAワールドカップの決勝戦が行われた場所でもある。
感謝を知って、自己を見つめ、本物のスーパースターに。
三度目に切ったら引退という決意を翻してサッカーを続けることに決め、10ヶ月に及ぶリハビリの日々を送った。術後にパンパンに腫れた膝。それでも少しずつ足を動かし、筋肉をほぐし、負荷をかけ、その強度を上げていく。何百、何千、何万回と同じ動作を繰り返しながら、少しずつ恐怖心を取り除いていく。
同時に、怪我の元凶であった右足首の柔軟性を取り戻すことにも注力していった。痛みを我慢しながら、心から信頼しているトレーナーに足首を曲げてもらう。日々の変化は、ほとんど感じられない僅かなもの。だが、その繰り返しが、少しずつ身体を作り上げていくことを宮市は嫌というほど知っている。
ドイツ時代のリハビリは、「意地とプライド」で乗り切ったが、三度目のリハビリを支えたのは、「ありがたい」という感謝の気持ちだった。再びピッチを走った時の喜びは、今も忘れていない。
「あれ以来、人と比較することは全然ないですね。自分のやるべきことをやって、チャンスが来たら全力で取り組む。それだけだから。ライバル心を剥き出しにしたところで、どうにもならないんですよ。結局、変えられるのは自分だけなので。プロの世界において、エゴがないことが、いいのか悪いのかわからないですが、自分にはしっくりと来ています。実際、そういうマインドの時の方がいいプレーができていると思います。心が安定していれば、身体的にも技術的にも自信に繋がりますからね。心技体のバランスが整っていれば怪我もしづらいはず。性格は明るい方だと思いますが、打ちのめされすぎて、より現実的になったと言うか(笑)。やはり18歳の僕は、プレミアリーグに行って世界一を獲るぞって思っていた。でも、今はあんまり先を見ていないんです。一日一日がすごく大事で、その積み重ねが未来を作っていくと実体験で知っているので。高校三年生の僕は漠然と未来を夢見て、毎日に目を向けられていなかったんだと思います。今は日々、現役でいられることに感謝していますし、そう言う意味ではすごく考え方は変わったのかも。自分がいるのは、自分だけの力ではない。この考えに辿り着いたのは、怪我のおかげなのは間違いないです。怪我をしていなかったらスター街道まっしぐらで、他人が自分のために働いてくれることが当たり前になっていたと思う。実際、そういう世界にいたから。でも、振り返ってみると、アーセナルの選手はみんなすごくいい人なんですよ。スーパースターは、みんないい人。それはいろんな経験をして辿り着いていたからですよね。その内面まで想像できるようになったと思う。ようやく、自分というものを見つけ出せたのかな。僕は、今の自分の方が、ずっと好きですね」
その経歴から、ストイックなキャラクターを想像していたが、「本当はめちゃくちゃ派手好きなんですよ。地味なことは嫌いです」と、愛嬌のある笑顔を見せる。
続けて「でも、その地味な作業に全てが詰まっているから。やるしかないんですよね」と言った。宮市の心の強さは、まさにスーパースターのそれだった。今でもプレーがうまくいかなかった時に、あのリハビリの日々を思い出している。
「あんなにベッドの上で膝の曲げ伸ばしをしていた男が、何万人もの前でユニフォームを着て走っているって、すごいことじゃないですか? そうやって気持ちが戻れる場所があると、またスッと背筋が伸びるんです。落ち込むことは、大事なプロセスではあると思うんですが、短いほどいい。いずれにせよ明日は必ず来て、日々は進んでいく中で、どこかで受け入れて前を向いていかないと好転していかないですから。うまくいかないことを受け入れる作業をいかに早くできるか。だから落ち込む時間は、昔に比べてあんまりなくなりましたね。意味ないなって。できなくなってしまったプレーとか、狭くなってしまった自分の可動域とか、なかなか自分を受け入れられなかった。でも、今の自分はこうだから」
今、ここ、自分。その一体感は、マインドフルネスと言われる状態に近いものだろうか。かつてはメンタルトレーナーにカウンセリングをしてもらっていたが、今では自分との対話によって、答えにたどり着けるようになった。
ドリブルで相手を抜き去るべく、果敢に仕掛けるプレースタイルは、31歳になった今も変わらない。「それを変えることは、僕にとっては競技を変えるようなもの」と美学を語る。
ただし、背筋を伸ばした高い視線の走り方と堂々とした振る舞い、献身的な守備は、苦闘の中、トレーニングによって体得してきたものだ。スタジアムに観戦に行けば、宮市が全力でボールを追いかける姿に胸が熱くなり、相手と接触して倒れたら心配になる。その全身から、サッカーができる喜びが滲み出ているから。
2025年シーズンの目標は「毎試合、圧倒すること」。結果を求め過ぎない、日々を生きる宮市らしい表現だろう。それでも引退については頭の片隅で少しずつ考えているという。類い稀な自身のサッカーライフを未来に還元できる道を歩むつもりだ。
「怪我をしないに越したことはないけれど、怪我をしない人はいないし、実際に苦しんでいる人はいるから。僕なら、その助けになれるかもしれないと思うんです」

Profile
宮市亮(プロサッカー選手)
1992年生まれ愛知県出身。中京大学附属中京高等学校に進学し、2年、3年時に全国高校サッカー選手権大会に出場。2010年イングランド、プレミアリーグの名門「アーセナルFC」と契約を結ぶ。2015年にドイツ、ブンデスリーガ二部「FCザンクトパウリ」に完全移籍し、6年間在籍。2021年にJ1リーグ「横浜F・マリノス」に完全移籍し、現在も所属している。著書に『それでも前を向く』(朝日新聞出版)がある。