丹沢まですぐ近くの住宅街にあるトレイルランナー石川弘樹の自宅には、彼が歩んできた足跡がそのまま展示されていた。学生時代にハマっていたレゲエの7inchレコードが山と積まれ、窓辺には100マイルレース完走の証である盾やバックルが無数に並べられている。
壁には自身を主役としたムービーのポスターや、メキシコ、ネパールなど世界各地の大会の記録。そして、リハビリのためのエアロバイク。日本にトレイルランニングを伝えた紛れもないパイオニアは、2022年10月に人工股関節の手術を受けた。全盛期のように走ることはできないが、それでも少しずつ距離を伸ばし、日常にトレイルランニングを取り戻している最中だった。
走ることにほとんどすべてを費やしてきた人生で、思うように走ることができなくなった時、何を感じ、考え、いかにして足を踏み出そうとしているのか。現在に至る遍歴を、怪我によって振り返ってもらいたい。そう頼むと石川は、どこか達観したような、落ち着いたトーンで話し始めた。
少年時代はサッカーに夢中だった。中学時代に鎖骨を2回骨折、それから体育の柔道で畳にひっかけて足の小指を骨折した程度で、それほど大きな怪我を経験することなく、大学時代には現在のキャリアの基礎となるアドベンチャーレースにのめり込んで行った。
山を走ることは最初から得意で、クライミングやカヤックなどの新しく出会ったアクティビティが世界を広げてくれた。レース中にマウンテンバイクで転倒し、パックリと開いた傷口をホチキスで留めたまま完走したり、マレーシアのレースで日本に入っていない珍しい熱病をもって帰ってきたり、極限的な体験がいくつもあったという。
「血液検査の数値を見ても、医師も何に感染しているかわからなかったんですね。しばらく放置されて、WHO(世界保健機構)から厚生省に連絡が入って、レースに出た選手が多く病気になっているけど大丈夫か? と。それでまんまと石川が入院しているとなって、薬を届けていただいた。レプトスピラという熱病に罹っていたんですが、文献に載ってますよ。25歳男性の症例として」
10日間以上ぶっ通しで動き続けるアドベンチャーレースでは、マウンテンバイクやカヤックなど、さまざまな種目をこなすために動きが変わり、同じ部位に強度の負荷をかけ続けることはない。
初めて慢性的な怪我と向き合ったのは2000年台初頭、アドベンチャーレースを卒業してトレイルランナーとなり、長距離バスのグレイハウンドを乗り継ぎながら全米各地のレースに参戦する、いわば武者修行の時代だった。
「腸脛靭帯炎になってしまったんですね。当時は20代でどれだけ動いても大丈夫という感覚でいたから、鍛えてやろうと思って毎週50キロ、50キロ、80キロみたいに続けてレースに出ていたんです。3つ目の80キロのレースに出た時に、40〜50キロ過ぎから痛みが出て、ゴールまで無理して走ってしまったら、普通に歩くだけでも痛くなってしまった。そこで初めて怪我を知った気がします」
腸脛靭帯炎はランナー膝と呼ばれるほどよくある症状で、膝の上の大腿骨と靭帯が擦れることによって痛みを発症する。炎症を治めるために休養し、柔軟性を高めながら回復させるのが一般的な治療法で、石川も2ヶ月近く走ることができなかった。そのため、ほとんどぶっつけ本番で、『ウェスタンステイツ・エンデュランスラン』に出場する。
1977年に始まったこのレースは、カリフォルニアの山岳地帯を走る。世界最古のもっとも権威ある100マイルレースと呼ばれ、タイムが24時間を切ると名誉の証としてシルバー・バックルを獲得できるため、「大変な思いをして、どうにか」23時間半でゴールする。
「ぶつけたり、切ったりした怪我なら、そこが治れば以前と変わらず走れます。でも腸脛靭帯炎に関しては、痛みが起こるプロセスっていうのかな、理由がありますよね。ある程度走っている人間に痛みが出るということは、負荷がかかる走り方、体の動かし方をしているから。振り返ってみると、僕はサッカーをしていたせいで足がO脚なんですよ。だから足の動きがちょっと外側になってしまっていた。その後の3ヶ月間はひたすら外側に負荷がかからないように、膝とつま先が真っ直ぐになる足運びを練習しました。怪我に教えてもらったことを自分の体で習得するという感覚かな」
ほとんど睡眠を取らずに一昼夜走り続ける100マイルレースにおいては「痛みが出るかもしれない」という不安も、脳疲労の原因になる。レース前にできるだけ不安要素を取り除く必要があり、石川はどうしたら怪我をしないか常に考えるようになった。怪我の原因は、体だけでなく、心の準備不足によっても起こることも学んだという。
「実は柔軟性がなくて、まあ、ひどい体なんです。特に足首はめちゃくちゃ固い。最初の捻挫は、テレビの撮影の時でした。『この斜面を駆け降りてください』と言われて、本来ガレた岩場を走るなら、きちんと体を温めて、上り下りも走ってみて、イメージに近づける作業をする。それなのに、撮影で『はい、行ってください』と言われてすぐに走ったもんだから、バキッとやってしまって。ソフトボールみたいに足首が腫れあがった。それは本当に教訓になりましたね」
捻挫自体は、痛みが引いた後に整体院でズレていた骨を戻してもらい、スッキリと治ったはずだった。だが、恐怖心が芽生えてしまう。それまではカモシカのような獣の走りをイメージしながら、軽くステップを踏むように下り、「どこでも走れるような感覚でいた」のに、恐怖心が拭えなくなってしまった。
「その年(2005年)に、コロラドで行われる『Hardrock100』に出たんですね。3000〜4000メートルの高所で、もう本当にガレた岩稜地帯を行くんです。しかも日本では絶対にないような10キロ登った後に20キロ下りが続くようなタフなレース。ある程度トップ争いをしている中で、得意な下りで差をつけなければダメだと思って、とにかくガレッガレの岩場だから怖いんですけど、あと少しでゴールだから行かなきゃいけない。捻挫するかもしれないっていう恐怖心に対して、『そんなこと言っていたらダメだ』って自分をものすごくプッシュして、レース中に吹っ切ったんです」
吹っ切れたのではなく、石川は「吹っ切った」と言った。その後には大小の岩が延々と続くガレ場で徐々にスピードを上げていく中で「これ、行けるかも」という手応えを体から感じ、足が出るようになった。自分の意志で頭の中のネジを外し、恐怖心を克服したという。
「今でもあの岩場を走っている映像というか、足を踏み出したシーンが頭の中に残っています。もう19年も前のことなのに、いまだに覚えてますね。新しい自分というよりも、もともとの自分を体が思い出せてくれたっていう感じかな」
二度目の捻挫は、イベントで他のランナーを引き連れ、石と雪が混ざる雪渓を走っていて滑ってしまった。それほど重いものではなく、過去の捻挫によって怪我をしやすいタイミングを知っていたからこそ、軽く済んだという。
30年のトレラン人生において、腸脛靭帯炎と軽い肉離れ、それから捻挫が2回。その偉業を考えれば驚くべきことに致命的な怪我のなかった石川にとって、2017年は忘れられない年になった。
年明けから膝の調子が悪くなり、医師からは「半月板に影があるから、手術をした方がいい」とまで言われた。予想外の言葉に戸惑いつつも、治療院で相談をすると、膝への負担を軽減するフォームの矯正を提案される。
体が前傾しないようソールの薄い足袋を渡された。ソールに傾斜のない“ゼロトップ”と呼ばれる靴で真っ直ぐに立ち、体の後ろで蹴って、体の真下で着地する走り方を薦められた。
すると足の前面ではなく、ハムストリングや大臀筋など後側の大きな筋肉を使えるようになる。腸脛靭帯炎の時と同じように、新しい走り方を習得すると、「本当にフッと膝の痛みが消えた」。再び動けるようになった石川は、友人と韓国のトレイルへ走りに行く。
「ファストパッキングで縦走していたんですが、コースの後半に長い下りがあって、すごく筋肉に負担がかかっているし、いいトレーニングになっているなと思っていたんですけど、何日目かな、あれ? って力が抜けるような感じで、初めて股関節に痛みが出たんです。それまで股関節の痛みは、本当にゼロだったのに」
指をポキッと鳴らしたような感覚を股関節で感じたことはあったが、突然、走れなくなるほどの痛みが石川を襲った。帰国後、股関節の専門医のいる病院で検査をすると、臼蓋形成不全、変形股関節炎と診断された。
後編へ続く。
Profile
石川弘樹(いしかわ・ひろき)/1975年神奈川県生まれ。日本初のプロ・トレイルランナー。大学在学中にアドベンチャー・レースのチーム〈EAST WIND〉に参加。独立後、トレイルランナーとして、アメリカのほか、メキシコ、ネパールなど世界中のウルトラ・レースに参戦している。2007年にはアメリカの歴史ある4つの100マイルレースの合計タイムで争われる〈Grand Slam of Ultrarunning〉で優勝を果たす。〈信越五岳トレイルランニングレース〉などのプロデュースも行なっている。イヌワシの生息環境を復活させるために南三陸でトレイル整備の活動を映したフィルム『共生のために走る』がある。