「”繁茂”が突然やってきた」文・白石正明|A Small Essay

文・白石正明 写真/編集部

文・白石正明

いや、年を取ると突然、農作業とか始めちゃうじゃないですか。昨年定年を迎えた私も、とあるきっかけでそんな世界にちょっとだけ足を踏み入れてしまった。若い頃のアウトドアライフの延長のつもりだけど、地元の農作業用品屋さんで買った麦わら帽の後頭部に布を垂らして、首にタオルを巻き、長靴を履けば、もはやそんな浮ついたことは言ってられない。借り受けた腰振り草刈り機(刈払機というらしい)のチョークを絞ってロープをフン!と引っぱると、グイーンという起動音とともにガソリンの匂いに直撃される(これです)。

夏、汗、爆音、ガソリン。気分は40年以上前に見に行ったバイクの鈴鹿8耐だ。あのときは駐車場からレース会場まで起伏の多い野道を1時間以上歩かされ、本当に耐久レースだったなぁ。やはり音と匂いが、もっとも情動を喚起するように思う。「見る」ためにはまず対象との間に距離が必要だが、「嗅ぐ」「聞く」は匂いと音のなかに自らが投げ入れられてしまう。いきなり渦中。気づけば忘我。勝負が早い。

やってみて初めて知ったのだが、刈払機というものは、右から左にシャフトを振ると草が切れるようになっている。逆に左から右に強く振って固い茎などに当たると、回転力によって歯がガツンと押し戻されて危険だ。外から見るとただ漫然とシャフトを左右に振っているだけに見えていたが、世の中わからないことだらけだ。こうして忘我が加速する。

宇野常寛さんの『庭の話』(講談社)は、人の手が入らないという幻想に満ちた大自然でもなく、人工物に覆われたこれまた幻想的な無機質世界でもなく、その中間で、庭のように「手を入れる」ことに新しい価値を発見する非常に面白い本である。ただ実際の庭に出ると、そんな余裕はなくなる。すくなくとも能動的に自然に関わって何かを作り出すといった「制作」的なセンスはそこにはないと思う。むしろ「何もしなければ草木が迫ってくる」という切迫した受動性に支配されているのではないか。

つまり亜熱帯化した日本では、初期設定に「繁茂」があるのだ。別にこちらで何かを作ったりしなくても、自然のなかでは草木がどんどん生成し、やがて私たち自身がその繁茂世界に巻き込まれてしまう。そんな過剰世界である。だからなんとか生き延びるために、自分たちの身の周りだけでもきれいにさせていただく。露天風呂で枯れ葉がこちらに流れてきたら、取り除くまでもなくちょっと手で波を作って避ける感じ、その拡大版だ。

こうして、虫に喰われたりウルシの葉に触れてかぶれたりしないように真夏なのに長ソデ長ズボンの作業服で汗みどろになっていると、虫の声がやがて遠のき、視界が狭くなってきて、瞑想ってこういうことなのかなと思ったりする。煩悩までなくなりそう。このままでは蕎麦を挽いたり作務衣を着たりする嫌味なおじいさんになりそうで、それだけが怖い。

Profile

白石正明
昨年定年退職をした医学書院にて「シリーズ ケアをひらく」(毎日出版文化賞)を創刊。同シリーズには國分功一郎『中動態の世界』(小林秀雄賞)、東畑開人『居るのはつらいよ』(大佛次郎論壇賞)などがある。現在も継続して編集にかかわっており、10月には小川公代『ゆっくり歩く』を刊行予定。今年4月に初の著書、『ケアと編集』(岩波新書)を上梓した。