文・石塚元太良
去年の冬、僕は突然に歩き始めた。「歩行」と言う運動を日常の中に意識的に取り入れ始めた。という言い方が正確を記しているかもしれない。
その距離は大体毎日10キロ程度。長い時は20キロ位にも及ぶ。毎日2時間くらい。長い時には3時間以上、歩いてしまうこともある。
ここ1、2年ちょっとした病気をしたり、割と大きな怪我をしたりで身体のバランスを崩していた。さらに40歳後半を超えて、今までにない加齢感を感じたり。それまで趣味や娯楽でしていたサーフィンやカヤックの運動に、そのせいで障壁を感じるようになっていた。
天気予報を見て板や艇の準備をして、車に積載して出かけるのが面倒に感じるようになっていた。それでは都市での運動を。と、区民プールで泳いだりしていたが、時々水泳さえそのために準備するのが億劫に感じたりすることもあった。
そしてある日気づいたのだ。日常に「運動」を取り入れる1番簡単な方法。それはただ歩けば良いのだと。なぜなら「歩行」には準備が全くなく、「日常」と「運動」が限りなくシームレスである。
ただ玄関のドアを開けて歩き始める。たとえば仕事場へ歩き始める。たとえば打ち合わせの場所まで歩き始める。予定が入っていない時は、方角だけを決めて、ただ気の向くままに、歩いていく。
2時間も歩き10キロ位を超え、もう足もそろそろ疲れてきたなぁと言うところで、最寄り駅や最寄りのバス停を調べて、アトリエや自宅に帰ってくる。調子の良い時は、とにかく行けるところまで歩き続ける。
シンプルでそれだからこそ奥深いこんな運動に、なぜ僕は今まで気づかなかったのだろう。いつしか歩くことの無限の深みにはまり、ある程度の距離を歩かない日は、気分が悪く感じる始末。
この記事を読んでいる人は、皆そんな暇ではないと思うだろうか。僕/わたしは、毎日そんな時間的な余裕はありませんと。
けれど、歩くと言う行為は、僕にとって一番「仕事」が進んでしまう行為でもある。返信しなきゃいけないメールの文面、動画編集の着地点やら、展覧会の構成などなど。仕事のタスクたちは、2時間も歩いてるうちに自然と頭の中で正解を見つけている。そしてそれらのレスポンスも、ポケットのスマートフォンで大体は完結もしてしまう。
日常のもやもやが着地すると、体も汗ばみ始め、股関節もほぐれて、頭は自由に飛翔していく。
街の細部はそれぞれ主張を始め、都市はまるで森のように感じ始める。歩いたことのない通りから通りを抜け、都市を通過して行き、都市を自分という存在に通過させる。目的地のないその歩行は、迷うという概念さえ持たない。
歩くことは風流であり、それは思索そのものであり、観察であり、咀嚼であり、素描であり、哲学であり、抱擁でさえある。
歩くという行為は、素朴で地味で、いわゆる「SNS映え」のような虚栄とも無縁。ジムでのトレーニングのようにあなたの胸筋が大きくなることはない。骨盤が正しい位置に座り、姿勢がよくなり、足の腱が丈夫になるくらい。ありきたりな言い方をすれば、それは素の自分に戻っていくような行為である。
「歩くこと」の「well being」とは、そんな側面が一番大切なのかもしれない。そんなふうに感じている。
そして、この原稿も歩きながら、大体のテキストが落ち着くところに落ち着いていくのです。てく、てく、てくと。
Profile
石塚元太良
写真家。2004年に日本写真家協会賞新人賞を受賞し、その後2011年文化庁在外芸術家派遣員に選ばれる。初期の作品では、ドキュメンタリーとアートを横断するような手法を用い、その集大成ともいえる写真集『PIPELINE ICELAND/ALASKA』(講談社刊)で2014年度東川写真新人作家賞を受賞。2016年にはSteidl Book Award Japanでグランプリを受賞。写真集『GOLD RUSH ALASKA』がドイツのSteidl社より出版予定。