文・土田貴宏
今からちょうど100年前のこと。思想家の柳宗悦らが提唱しはじめた民藝は、「用即美」という言葉に象徴されるように、器や道具といった実用品に高い美的価値を認める新しいカウンターカルチャーだった。それは今なお、ものをつくる人、選ぶ人、売る人の間で影響力をもち続けている。
民藝のものの見方にはいくつかの特徴があるけれど、そのひとつは作家主義の否定である。一般に、作家による美術品やそれに類する工芸品は固有の銘(サイン)が入る。民藝として称揚される普段使いの品の多くが、無名の職人の手仕事によって量産されてきたこととは対照的だ。
作家には、独創性や優れた技巧が欠かせない。それが作品の価値に直結するからだ。人並みでない作品をつくるため、人並み以上の努力を重ね、時にはプライベートも犠牲にして、高みを目指すのは必然だろう。代々ひとりの息子だけに独自の技法を授ける一子相伝のような習慣も、同様の姿勢が根底にありそうだ。
こうしたアプローチはものづくりの質を上げる働きをするが、どこか無理があるのは否めない。結果として完成した作品は高価で、実用的とは限らず、万人のために役立つこともない。
作家による創造行為に対して、柳たちは民藝こそが美の本流だと看破した。それらは美術品のように完璧でも稀少でもないが、作風に無理がなく自然であり、伝統、地域性、分業(共同作業やチームワーク)が尊重されている。そのつくり手は、日々の仕事として経験と知識を蓄え、地道にものづくりに向かう職人だ。
こうして捉えると、民藝とは自分にも環境にもほどよく優しい、ウェルビーイングでサステナブルな働き方の再発見だったように思える。実際に柳は多くの記述で、民藝ならではの美しさを「健康な美」と表現した。
このような発想は、現代のライフスタイルにも置き換えることができる。人並外れた成果を目指すのと、自分自身や周囲に負荷をかけずに行動するのとでは、前者のほうが高く評価されそうだ。社会や企業にはスーパープレーヤーを求める傾向があるからだ。
しかし不健康なプロセスに基づく成果は、やはり不健康。たとえ目立った業績を上げても、長続きしなかったり、家族や仲間に負担を押しつけるかもしれない。民藝のように、無理のない生活に根差しながら仕事や趣味に勤しむことが日常の本流であるべきだ。
とはいえ民藝も、無理さえしなければ美しいものが生まれるわけではない。満足いくものをつくるには研鑽も真剣さも必要だろう。ウェルビーイングと成果のバランスを保つのは難しく、ちょっと無理したくなる場面は誰にでもある。そんな時こそ「健康な美」というのは判断の指針になりえる言葉だと思う。
Profile
土田貴宏
ライター、デザインジャーナリスト。プロダクトやインテリアなどについて各種媒体に寄稿するほか、展覧会の企画にも携わる。近著に『The Original』(共著/青幻舎)。2024年創刊のデザイン誌『Ilmm』のエディターとしても活動している。