文・松永K三蔵
旅館の夕飯に定番のひとり鍋についてくる、丸い水色の固形燃料。あれでちゃんとお湯が沸き、カップ麺も食べられるという。そんな話をどこで聞いたのか、ふと私は興味を惹かれ、山でカップ麺を食べたいと思った。
一〇〇均ショップで固形燃料と組み立て式の五徳、コッヘルを買い、カップ麺をおにぎりと一緒にリュックに入れ、京都まで行き、湖西線叡山坂本駅から比叡山に登った。滋賀の琵琶湖から比叡山を越えて京都市内に下りるルート。それはネットで調べた。
山に登る。そんなことは社会人になってから初めてだった。真夏の平日にハイカーの姿は少なく、山行中、ほとんど私はひとりだった。山頂近くの延暦寺を抜け、眺望のない、気抜けするほど簡素な大比叡の山頂を越えて山を下る。台風で斜面に横倒しになった樹々の下を潜り抜けて山道を下り、道の曲がり角、樹林の中に少しひらけた平坦地で、私はリュックを下ろした。
トロトロと揺れる固形燃料の火で湯を沸かしたが、用意したサイズのものでは火力が足りず、ぬるいお湯になった。それでも私は〝バリカタ〟のカップ麺を食べ、満足して京都の町に降りた。
山でカップ麺を食べることは果たしたが、それだけでは済まなかった。
私は一人で家の近くの六甲山に登るようになった。建築系の会社に勤めている為、週末に工事があった振休の平日か、家族との都合がついた休みの日、私は憑かれたようにひとり山に入り続けた。
山に登った動機は、山でカップ麺を食べたいという他愛のない願望だったが、その後も私は山に入り続けた。——楽しかったから。最初は確かにそうだったが、それがほぼ毎週、二、三時間でも時間があればと、まさに〝寸暇を惜しんで〟山に入るようになると、それだけでは説明がつかなくなった。一体、私は山で何を見つけたのだろう。
ウェイトトレーニングやラン、ロードバイク、登山。いずれもそれなりであれば適度な「運動」としてストレス解消や余暇のレジャーに違いないけれど、それが度を超すと、別の意味合いを帯びてくる。
人は常にバランスをとろうとするものだが、何かに過剰に〝ハマる〟時というのは、そのバランスを欠いている状態の時ではないだろうか。補正するために、人は〝ハマる〟のだと思う。
私はバランスを欠き、その傾斜を滑り堕ちるように山に向かい続けた。早朝の山にも、夜の山にも入った。譲れなかったのはひとりであるということ。山をはじめたことを聞きつけた友人に誘われたこともあったが、断った。私は、私の山を誰にも邪魔されたくなかった。
私がバランスを欠いているならば、その補正のための登山に、更に「ひとり」であることが必須要件だったのだ。ひとり山に入り、お湯を沸かし、もうその頃はバーナーだったけれど、カップ麺をすすり、あるいはコーヒーをドリップして飲んだ。
あの頃の私は、それでなんとかバランスをとっていた。生きるための山行だった。そしてある時、ふと憑物が落ちたように、山に行く頻度は減った。そして私の手元には『バリ山行』という小説が完成していた。
Profile
松永K三蔵(まつなが・けー・さんぞう)/1980年生まれ。関西学院大学卒。兵庫県西宮市在住、六甲山麓を歩くのが日課。2021年「カメオ」で第64回群像新人文学賞優秀作を受賞しデビュー。第2作「バリ山行」が第171回芥川龍之介賞を受賞。『バリ山行』は単行本として刊行されている。『カメオ』単行本は12月10日刊行予定。