奥仲哲弥先生
教えてくれた先生
おくなか・てつや/呼吸器外科医。山王病院呼吸器センター長、国際医療福祉大学医学部呼吸器外科教授。東京医科大学卒業、同大学院修了。テレビなどのメディアで、専門的な知識をわかりやすく解説する手腕に定評がある。医学博士。
自ら動けない肺を横隔膜が助けて深い呼吸を促す
「私のような呼吸器の専門家からすると、“本当の呼吸”ができている人はほとんどいません。一般的に、呼吸数は1分間に12〜20回が正常とされていますが、本当は1分間に6回でOKなのです」
いきなり、そんなショッキングな話を切り出したのは、呼吸器外科医の奥仲哲弥先生だ。驚くべき話は、まだまだ続く。
「呼吸という言葉は、“息を吐いてから吸う”という意味。深呼吸をしてくださいと言うと、まず息を大きく吸おうとする人も多いのですが、それでは“深吸呼”。息を吸おうとしているうちは、呼吸は満足にできていません。
息をすべて吐き切れば、空気は自然と入るもの。息を吸いたくなるのは、息をきちんと吐き切っていない証拠です。6秒かけて息を吐いたら、何もしなくても3秒ほど息が入ってくる。だから呼吸は1分間に6回で十分なのです」
正しい呼吸のポイントは、横隔膜をしっかり動かすこと。1分間に12〜20回の浅い呼吸では、横隔膜は全然使えていない状態だという。
「そんな浅い呼吸を、私は“ハアハア呼吸”と呼んでいます。横隔膜を用いた深い呼吸ができていないため、口呼吸で回数を増やしてカバーしようとするのです。哺乳類で口呼吸をするのは、ヒトだけ。コロナ禍でマスク生活を強いられた結果、本来の鼻呼吸がやりづらくなり、ハアハア呼吸が癖になった人が増えました」
横隔膜と呼吸の関係性
ここでひと息入れて、横隔膜と呼吸の基本的な関わりを整理しよう。
呼吸の主役は、胸郭に収められた左右1対の肺。肺胞という小さな袋がぎっしり詰まり、取り込んだ空気で満たされる。
横隔膜の位置
横隔膜はみぞおちの高さにあり、胸郭と腹腔の境目となる膜状の筋肉。肋骨(第7〜12肋軟骨)の内側、腰椎(第1〜3腰椎)、剣状突起(左右の肋骨をつなぐ胸骨の腹側の先端)に付く。コントロールする横隔神経は運動神経、自律神経、感覚神経を含む。
肺の構造:右肺の方が左肺よりも大きい
外気とダイレクトに繫がるのは、肺と泌尿器のみ。鼻や口から吸い込んだ空気は、気管に入り、2本に枝分かれする気管支で左右の肺に流入する。肺には右肺と左肺があり、真下に心臓があるため、左肺の方が少し小さい。右肺は上葉、中葉、下葉の3つに分かれているのに対し、左肺には上葉と下葉しかない。
呼吸の仕組み:毛細血管肺胞の広さはテニスコート半面分
気管支は何度も枝分かれしながら、肺全体にくまなくネットワークを広げている。その先端には直径0.1〜0.2mmのブドウの房状の小さな袋がつく。これが肺胞。左右の肺で計約3億個もあり、すべて拡げるとその表面積はテニスコート半面分もあるという。肺胞の表面は毛細血管で覆われている。
肺胞は毛細血管で覆われる。
肺胞と毛細血管、それぞれの薄い壁を通して肺胞から酸素を取り込み、血液から二酸化炭素を排出するガス交換を行う。これが「外呼吸」。
ガス交換のからくり:「拡散」で酸素と二酸化炭素を交換
肺胞も毛細血管も壁は薄く、気体は自由に行き来できる。心臓から出る肺動脈を流れる血液の赤血球には酸素が少なく、二酸化炭素が多い。外気を含む肺胞内の空気は酸素が多く、二酸化炭素は少ない。
気体は濃度が高い方から低い方へ移動する「拡散」という性質があり、肺動脈から枝分かれした毛細血管に肺胞から酸素が入り、血管から二酸化炭素が肺胞へ。かくて酸素を多く含む血液は肺静脈で心臓へ戻る。
肺は風船のようなものであり、心臓や胃などと違って自ら動けない。その動きを助けてくれるのが、横隔膜。厚みは平均で3〜5mmほど。上下を覆う脂肪と筋膜を合わせても厚みは2cm前後だ。面積は、手のひら2枚分以上ある。
息を吐くときは、横隔膜が緩んでドーム状にせり上がると同時に、胸郭は閉じて下がり、肺を押し縮める。肺が縮むと内圧が上がり、空気は肺から出ていく。
息を吸うときは、横隔膜が収縮して下がり、胸郭は広がって上がり、肺は膨らむ。内圧は外気より低くなり、高気圧から低気圧へ風が吹き込むように空気が肺に流れる。だから、自ら吸わなくてもOKなのだ。
横隔膜と呼吸:2つの筋肉の共同作業で呼吸する
呼吸を司るのは横隔膜と、肋骨の間にある肋間筋。胸郭が前後左右に拡大すると、肺の容積も広がり、内圧が下がって息が吸える。その際、ドーム状の横隔膜が収縮して下がり、肋間筋が緩んで肋骨の間が広がる。
胸郭が狭まると肺の容積も狭くなり、内圧が上がって肺から息が吐ける。横隔膜は緩んで元の位置まで上がり、肋間筋が縮んで胸郭を閉じる。
ちなみに、奥仲先生が横隔膜に注目するきっかけとなったのは、自らの肺のレントゲン写真を見たことだったとか。
「肺のレントゲン写真は通常、息を吸って止めて撮ります。あるとき、息を吐き切った状態でも撮影してみたところ、私が想像していた以上に横隔膜が大きく上下しており、横隔膜が深呼吸と密接に関わっていると再認識したのです」
横隔膜の柔軟性:横隔膜は10cm以上も上下する
奥仲先生ご本人の胸部レントゲン写真。通常、レントゲンでは息を大きく吸い、息を止めて撮影する。試しに、息を吐き切って撮影したところ、横隔膜が10cm以上も上下すると気づき、先生が改めて横隔膜に注目する契機になったという。
ハアハア呼吸が染み付き、横隔膜の柔軟性が落ちている人は、同様にレントゲンを撮ってもここまでの大きな変化はないだろう。
浅い呼吸では外呼吸も内呼吸も機能不全に
話を元に戻そう。横隔膜が使えないハアハア呼吸の深刻な問題点は、外呼吸の効率が下がる点にある。
ハアハア呼吸でたくさん呼吸をした方が、より多くの酸素を肺胞から体内へ取り込める気がする。でも、実際は、横隔膜による深くゆったりした本当の呼吸の方が、外呼吸で能率的に酸素が取り込めるのだ。
キーワードは「死腔量」。
「呼吸の速さや深さに関係なく、肺まで入ったのに、肺胞まで到達しない空気が発生します。それが死腔量。ハアハア呼吸で呼吸数が増えるほど死腔量も増えるため、外呼吸のパフォーマンスは悪化します」
死腔量:深くゆったりした呼吸の方が効率的
吸っても肺胞まで届かない死腔量は、呼吸スピードに関わりなく、1回約150mL。浅いハアハア呼吸で1回250mLの呼吸を毎分32回行うと1分間に肺に入る空気量は8000mL。
深い呼吸で1回1000mLの呼吸を毎分8回行うと、同じく1分間に8000mLの空気が肺へ入る。
しかし毎回150mLの死腔量を計算に入れると、浅い呼吸では3200mL(8000-150×32)だが、深い呼吸では6800mL(8000-150×8)と2倍以上も空気が肺まで到達する。
外呼吸で入った酸素は、血液が全身の細胞に届ける。代わりに血液は、細胞が排出する二酸化炭素を運び去る。細胞と血液の間の酸素と二酸化炭素の交換を「内呼吸」という。
ハアハア呼吸では外呼吸ばかりではなく、この内呼吸の効率も下がる。その鍵を握っているのは、意外にも二酸化炭素だ。
酸素は善玉、呼吸で生じる二酸化炭素は邪魔者という先入観を持つ人も多いだろう。けれど、それは誤解。血中で適度な二酸化炭素濃度がキープできないと、酸素を細胞へ取り込めないのだ。あまり知られていない話なので、詳しく解説しよう。
二酸化炭素で酸素の利用効率をアップ
コロナで話題になったのが、指先で機能的酸素飽和度(SpO₂)を測るパルスオキシメーター。これは、心臓から全身へ酸素を送る動脈血中の赤血球のヘモグロビンのうち、何%が酸素と結合しているかを示す。正常値は96〜99%だ。
飽和度が高いと安心したくなるけれど、横隔膜が使えない浅い呼吸だとせっかくの酸素が宝の持ち腐れになる。
「運動不足の高齢者でも、健康なら酸素飽和度はほぼ正常範囲内に収まっています。すでに100%に近いので、息を吸えば吸うほど血中の酸素量が増えるわけではない。逆にハアハア呼吸をしすぎると、血中に取り込んだ酸素を、細胞が十分取り込めなくなることも考えられます」
その理由は、血液のpH(水素イオン濃度)の変化にある。血液のpHは7.35〜7.45でほぼ中性だが、血中に二酸化炭素が増えると酸性に傾きやすくなる。
赤血球中のヘモグロビンは、pHが酸性に傾くほど、酸素を切り離して細胞に提供しやすくなる。これは発見者である生理学者の名前から、ボーア効果と呼ばれる。
ところが、ハアハア呼吸では二酸化炭素を排出しすぎるため、血中の二酸化炭素の濃度がダウン。pHがアルカリ性に傾きやすくなる。するとヘモグロビンは酸素を切り離しにくくなるため、いくら酸素飽和度が高くても、血中の酸素は素通りして細胞内に入ってこないのだ。
「大気中の二酸化炭素濃度は0.04%ほどですが、吐く息の二酸化炭素濃度は5%程度。つまり、1回の呼吸で入る量の100倍以上の二酸化炭素を吐き出している計算になります。
ですから、ハアハア呼吸をたくさんするほど、血中の二酸化炭素はどんどん失われて、細胞に引き渡される酸素量が減るのです。鍛錬したアスリートは、ある程度二酸化炭素を貯められる体質になっており、呼気が増えても筋肉などで酸素を効率良く使えるようになっています」
細胞が酸素不足に陥れば、エネルギーが生み出せなくなり、思ったように力が出ないし、疲労も取れない。無駄な体脂肪を燃やすには酸素が欠かせないから、運動しても期待通りには痩せにくくなるだろう。
ボーア効果:二酸化炭素が減ると細胞は酸素不足に
浅い呼吸で二酸化炭素を吐きすぎると、ほぼ中性の血液のpHがアルカリ性に傾きやすくなり、赤血球中のヘモグロビンが酸素を切り離しにくくなる。
血中の二酸化炭素濃度が適度に保たれていると、pHが酸性に近づき、ヘモグロビンが酸素を切り離しやすくなる。デンマークのクリスティアン・ボーアが発見。
血中の二酸化炭素濃度は、脳の呼吸中枢にも影響を及ぼす。ハアハア呼吸で排気しすぎて、動脈血中の二酸化炭素濃度が下がると、二酸化炭素がそれ以上出ていかないように脳が呼吸を抑制するため、入ってくる酸素量も減る。
そんなアウェーな状況に加えて、不安や緊張などメンタル面に問題があると、痙攣や動悸などを伴う過換気症候群にも陥りやすい。
呼吸の促進と抑制:呼吸中枢は二酸化炭素をモニタリング
全身の細胞はつねに酸素を求めるから、脳の呼吸中枢は酸素が不足しないように呼吸を制御する。そのためにモニタリングしているのは二酸化炭素。
動脈血中の二酸化炭素分圧が35mmHgを下回ると、二酸化炭素がそれ以上排気されないように呼吸を抑制。一方、運動時には筋肉などで酸素の消費量が増えて、エネルギー代謝の過程で生じる乳酸から二酸化炭素が過剰に生じるため、脳は呼吸を促進するようになる。
息を吸うと交感神経、吐くと副交感神経が優位
では、横隔膜を活用する深い呼吸を身につけるには何をすべきか。
「大切なのは息を深く吐き切ること。6秒かけて息が吐けるようになったら、もっと長い時間をかけて息を吐く練習をしましょう。
20秒間、息が吐き続けられるようになれば、横隔膜が鍛えられて柔軟性がアップ。ダイナミックに動けるようになり、呼吸機能が高まります」
息を吐くトレーニング:「い」の口で20秒間吐き続ける
呼吸は、吸うときも吐くときも鼻を使いたいものだが、息を深く吐き切るトレーニングでは吐く量をコントロールしやすい口で行う。
鼻から息を吸ったら「い」の口を作り(先生のお薦めは、石川さゆりの名曲『津軽海峡・冬景色』のコブシの効いたサビ部分「ふゆげしきぃ〜」の「ぃ」の口)、できるだけ長く息を吐き続ける。
20秒間吐けたら合格。横断歩道を青信号で渡る間、「い」の口で吐く練習をしよう(青信号の点灯時間は秒速1mで計算。長さ20mの横断歩道なら約20秒だ)。
深く息を吐くことを習慣にしていると大きな御利益も得られる。心身をコントロールしている自律神経が整いやすくなるのだ。
自律神経には、心身を活動的に整える交感神経と、心身をリラックスモードへ誘う副交感神経がある。ストレスが多く、緊張を強いられる現代では交感神経が興奮しやすく、副交感神経のスイッチが入りにくい。でも、息を長く吐いていると、副交感神経がオンになりやすいのだ。
「横隔膜は、運動神経で意識して動かせる随意筋でもあり、自律神経で無意識に動く不随意筋でもあります。
横隔膜をコントロールする横隔神経は太さが3mmほどもあり、運動神経と交感神経が含まれています。この神経を誤って傷つけると横隔膜が動かなくなるので、呼吸器の手術時にはつねに気を遣います。
そして副交感神経系の迷走神経が横隔神経にリンクしており、息を吸うときには交感神経、吐くときには副交感神経が優位になるのです」
交感神経が興奮したままだと、ちょっとしたことでイライラしやすい。
なかなか来ないエレベーターを待っていたり、コンビニのレジで待たされたりして苛立ってきたら、深く息を吐いて横隔膜を動かそう。たちまち副交感神経のスイッチが入り、イライラが消えて穏やかな気分になる。よし、今日から早速息を吐こう!