糖質オフの効果は19世紀から知られていた! 圧巻の糖質オフ年代記
さかのぼれば、1825年から注目されていた糖質制限。いまや、糖質制限食はコンビニやファストフードまで拡大中。中食や外食でも、糖質の摂取量を好きにコントロールしやすい時代になってきた。ここであらためて、糖質オフの歴史を振り返ってみよう。
取材・体験・文/Mr.TRAINING(ケンジ) イラストレーション/more rock art all(ケンジ)、東海林巨樹
初出『Tarzan』No.783・2020年3月12日
目次
糖質制限の歴史(1)1825〜1960年
糖質制限食は、肥満に悩む欧米の富裕層の間では、少なくとも19世紀には知られる存在だった。
その証拠の一つが、著名な美食家ブリア=サヴァランの代表作『美味礼讃』に残されている。この本は「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」という金言で知られる。そこで彼は肥満に2章を割いており、「脂肪太りの主たる原因はデンプン質の食品の食べすぎにある。デンプン質の摂取を多少なりとも減らせば、肥満を抑制できる」とはっきり指摘している。言うまでもなく、デンプン質は糖質のことだ。
糖質制限食ブームの立役者・ウィリアム・バンティング。
その数十年後、糖質制限食がヨーロッパで大きなブームを巻き起こす。張本人はロンドンの葬儀屋ウィリアム・バンティングという人物だ。
長年肥満に悩んでいた彼は、友人のウィリアム・ハーベイという医師に糖質制限食を薦められる。ハーベイは当時の最先端の生理学者で医師のクロード・ベルナールの糖尿病に関する講演をパリで聴き、減量にも糖質制限食が有効と直感していた。
ハーベイは減量のために「砂糖、パン、牛乳、ジャガイモ、ビールなどの糖質を抜きなさい」とアドバイスする。生真面目なバンティングがその通りに実践すると、1年間で23㎏もの減量に成功する。
目覚ましい成果に驚いたバンティングは、その感動をシェアしようと、自らの体験を『市民に宛てた肥満に関する書簡』という冊子にまとめて1863年に出版する。この本は肥満に悩む上流層の間でベストセラーとなり、英語からドイツ語やフランス語に翻訳される。英語で「ダイエットする」ことを「バンティング(Banting)」とも言うが、それはバンティング氏のチャレンジに因んでいるのだ。
糖尿病を患った文豪・夏目漱石。
バンティング氏の本が出た頃、日本はまだ幕末だったが、その後近代化して豊かになった日本では肥満や糖尿病に悩まされる人も出てきた。その一人が文豪・夏目漱石である。
漱石は1916年に糖尿病と診断されてしまい、医師の薦めで「厳重食餌」と呼ばれる食事療法を始める。厳重食餌では糖質を控える代わりに、肉類、卵、バター、肝油、豆腐、おから、糖質が5%以下の野菜などを摂る。現代の糖質制限食にほかならない。厳重食餌で漱石の糖尿病はどうやら改善したようだ。
このように肥満や糖尿病の改善に、糖質制限食が有効なのは昔からわかっていた。そうした事実がすっかり忘れられるのは、皮肉にも1921年のインスリンの発見がきっかけ。膵臓が出すインスリンは細胞に血糖を取り込ませて血糖値を下げる。
フレデリック・バンティングがインスリンを発見。
糖尿病とは通常、2型糖尿病を指す。遺伝的な背景に加えて、糖質過多の食生活や運動不足といった悪しき生活習慣で、インスリンの効き目が悪くなって発症するもの。日本人の糖尿病の95%以上は2型糖尿病だ。残りの5%未満は1型糖尿病。自己免疫疾患などでインスリンを作る膵臓の細胞が破壊され、高い血糖値が下がらなくなる病気だ。
インスリンが発見されるまで、1型糖尿病は余命半年から1年という難病だった。インスリンが出ないと細胞は血糖が取り込めないし、血糖値も下がらないからだ。ところが、インスリンが発見された後、糖質を摂ってもインスリン注射をすれば細胞は血糖を取り込めるし、血糖値も下がるから安全。かくて糖質制限食は長きにわたり下火になる。
インスリンの発見は1型糖尿病患者の福音だったが、大半を占める2型糖尿病患者に、糖質制限食を忘れさせる出来事となった。
糖質制限の歴史(2)1972〜1998年
『アトキンス博士のダイエット・レボリューション』のヒット。
糖質制限食が再び表舞台に現れてくるのは、70年代のアメリカ。
心臓病医ロバート・アトキンス博士は100kgあった自らの減量体験を基に1日の糖質摂取を20gまでにする糖質制限食を提唱。72年に世に問うた『アトキンス博士のダイエット・レボリューション』のヒットは糖質制限食の流行の起爆剤となる。
アトキンスが参考にしたのは、40年代にアメリカを代表する企業デュポン社でアルフレッド・ペニントンという医師が試したダイエット法。ペニントンは過体重の社員にほぼ肉ばかりの低糖質食を食べさせ、1週間当たり平均1kgという目覚ましい減量に成功したのである。ペニントンは1食当たりの糖質は20g以内というルールを設けており、それがアトキンスダイエットのベースとなる。
逆風も吹いた。契機となったのは、50年代にアメリカのアンセル・キース博士らが、肉類などの飽和脂肪酸が血中のコレステロール値を上げて心臓病の原因となると糾弾したこと。60〜80年代にはアメリカでは脂質悪玉説が一世を風靡する。
エネルギー源となる3大栄養素のうち、脂質を減らそうとすると、糖質の摂取を増やすしかない。タンパク源にも脂質は入っているから、消去法で糖質を増やすほかないのだ。
だが、脂質悪玉説を信じて脂質を減らし、糖質を増やした結果、アメリカの肥満率は上昇し続けたし、心臓病も思ったように減らなかった。のちにキース博士は、自説に都合のいいデータだけを選んで使ったと厳しく糾弾されている。
『糖尿病の解決』『シュガーバスター』が、それぞれベストセラーに。
逆風にめげず、糖質制限食が復活するのは90年代のアメリカ。
97年には、アメリカの医師リチャード・バーンスタインがベストセラー『糖尿病の解決』を発表する。
バーンスタイン医師は1型糖尿病であり、70年代から自らの治療として糖質制限食を実践してきた。そして糖質制限食を広めようと、思い切って仕事を辞めて医師になり、この本を書いたのだ。彼は、糖質1日130g以下の食事を糖質制限食と定義したパイオニアの一人でもある。
減量目的での糖質制限食の拡散に寄与したのは、98年にアメリカで発売された『シュガーバスター』だ。この本も100万部を超えるベストセラーとなり、砂糖のようにGI値が高く、血糖値が上がりやすい糖質の摂りすぎによるインスリン作用が肥満や糖尿病の元凶だと説いた。
糖質制限の歴史(3)1999〜2007年
こうした追い風を受け、いよいよ日本に糖質制限食が再上陸。
99年には京都・高雄病院で江部洋一郎医師、愛媛・宇和島で釜池豊秋医師が、糖尿病治療のために糖質制限食を導入する。
2002年には低インスリンダイエットがブームに。呼び名は違えど、その中身は糖質制限食そのものだ。
市場に糖質制限食が出回りだす。
05年、江部洋一郎医師の実弟・江部康二医師が、日本初の糖質制限食の一般書『主食を抜けば糖尿病は良くなる!―糖質制限食のすすめ』を出版。主食など糖質の多い食品を3食ともカットするスーパー糖質制限食を提案したこの本はロングセラーとなり、以降“糖質制限食”という言葉がメディアに登場し始める。
この頃から、糖質ゼロの清涼飲料水やビール系飲料がポツポツと市場に出回るようになる。
本誌が糖質制限食に初めて本格的にスポットを当てたのは08年。前年に『糖質ゼロの食事術』を上梓した釜池医師への1ページのインタビューを掲載した。その際、釜池医師は「『シュガーバスター』に触発されてインスリンを研究し、1日1食で糖質をゼロにする究極の食事術に辿り着いた」と告白している。
そのときインタビューを担当したのがきっかけで、僕は糖質制限食を始める。糖質をまったく摂らなくても生きていけるという、従来の常識を覆す釜池医師の話に感化されて、モノは試しと翌日から糖質ゼロの実践を始めたのだ。糖質を断って肉食を薦める釜池医師に「肉を食べすぎると、がんのリスクが高まりませんかね?」と恐る恐る聞いてみたら、「だったらライオンはみんながんで死ぬの?」と豪快に笑い飛ばされたのをいまでも覚えている。
伏線もある。実はその前年、本誌の企画で75g経口糖負荷試験という糖尿病の精密検査を受けたところ、糖尿病体質と判明。健康診断の空腹時血糖は85mg/dlと低めで、過去2か月間の血糖値の平均を示すヘモグロビンA1cも5.0と低いのでタカを括っていたら、どうやら食後高血糖が起こっており、反動で普段の血糖値が低くなりすぎ、平均すると正常に見えていただけだったのだ。だから糖質ゼロの食事で糖尿病が予防できたら御の字だと飛びついた。
食品の糖質量を調べるところから始め、茹でた鶏ささみとブロッコリー、モロヘイヤのおひたしを作り置きする日々が続く。その頃から糖質ゼロのビールは存在していたし、焼酎やウィスキーなどの蒸留酒は糖質ゼロなので制限しなくて済むのが、生粋の左党には嬉しかった。
糖質ゼロでお腹は空かないのか。筋トレやランといった運動もできるのか。おっかなびっくりだったが、糖質をカットしてもお腹は空かないし、週2〜3回ペースのジム通いを含めて普通に生活できることに感激。体重は3か月で72kgから62kgへ10kg減り、相対的に走力が上がりフルマラソンも走れるようになった。糖質オフでも筋肉は減らないという主張もあるが、個人的には走力は上がったが、筋肉は減って筋力もややダウンした自覚がある。
以来、糖質ゼロ→スーパー糖質制限食→ロカボ(後述)と変遷しながらも、今年で制限歴12年目。糖質制限食がすっかり市民権を得た現在では想像できないかもしれないけれど、当初は定食店で勇気を振り絞って「ご飯はいりません」と断ると、まるで宇宙語を話す人間を初めて見たように目を丸くされたものだ。
実家が福岡なので大好きだった豚骨ラーメンも、この12年間一度も食べていない。ただ、寿司やパスタは、ちゃんとしたお店でごくたまに食べる。「どうせ糖質を摂るならできるだけ高級なものを!」がモットー。質の高い食事は高価で食べすぎないから、糖質も摂りすぎない。
痛い目にも遭った。主食などの糖質を減らした分、主菜や副菜などでカロリーを補うのが正解。しかしあまりに減量効果が高く、ならば体重をもっと落としたいと欲が出て、糖質に加えてカロリーも抑えたため、エネルギー不足で真夜中に自宅でぶっ倒れてしまったのだ。「“痩せた”というよりも“やつれた”んじゃない?」と周囲に指摘された頃だ。
尿意を感じてトイレに起きたことまでは覚えているのだが、気づくとトイレに辿り着く前にリビングで倒れており、ソファの肘掛けに後頭部をぶつけて出血していた。それからは糖質を減らす分、肉類やオリーブオイルを増やし、エネルギー不足に陥らないよう留意している。
糖質制限の歴史(4)2008〜2015年
脱線が長くなった。話を戻そう。
08年には、世界的に影響力があるアメリカ糖尿病学会(ADA)が、肥満の糖尿病患者に限り、1年間の期限付きで糖質制限食を認める。条件付きだが、治療食の物差しをカロリーから糖質へ変えたという点ではエポックメイキングだ。
その後ADAは段階的に許容範囲を広げて、とうとう13年には、肥満の有無に限らず、糖質制限食の有効性を全面的に認めるようになった。それまでのカロリー制限食に替わり、アメリカでは糖質制限食が糖尿病の食事療法の主役になる。ちなみに、日本糖尿病学会は、糖質制限食をオフィシャルには認めていない。
12年、Tarzan本誌が初めて一冊丸ごと糖質制限食を特集。
打ち明け話をすると、同年1月に京都で日本病態栄養学会年次学術集会という権威のある集まりがあり、「糖尿病治療に低炭水化物食は是か? 非か?」というディベートが行われた。
医学会の晴れ舞台に糖質制限食がついに登場したので、当時の編集長に取材許可をもらって京都まで一人で取材に出向いた。のちに編集長は、「学術集会で議論されるくらいなら、うちで糖質制限食を取り上げていいタイミングだと思った」と語ってくれた。以来、本誌は定期的に糖質制限食をテーマとしている。
続いて日本における糖質制限食の普及にインパクトが大きかったのは、北里大学北里研究所病院の山田悟糖尿病センター長が、緩やかな糖質制限食を「ロカボ」と名付けて提案したこと。ロカボとはローカーボ(低糖質)のカジュアルな呼び名だ。ロカボは科学的なエビデンスに基づいて、糖質を1食20〜40g+間食10gで1日70〜130g以内に抑える方法。ご飯やパンなどを適度に楽しみつつ、減量や糖尿病改善も期待できるため、取り入れる人が増えている。
糖質制限食は年々進化と広がりを見せて、コンビニやファストフードまで拡大中。中食や外食でも、目的や体質に応じて糖質の摂取量を好きにコントロールしやすい時代になってきた。「お米を食べないなんて頭がおかしい!」と変人扱いされた頃からすると隔世の感がある。
一方、最新の調査でも、成人男性の3人に1人、成人女性の5人に1人以上は肥満であり、糖尿病患者も一向に減らない。糖質制限食の役割は、今後より大きくなりそうだ。