「子どもに転がされています」文・小林一毅|A Small Essay
ウェルビーイングな時間ってなんだろう。様々な人に、その人ならではの視点でエッセイを寄せてもらいます。
文・小林一毅 写真/編集部
文・小林一毅
「子供は遊びが仕事」という言葉をどこかで聞いたことがあるけど、その遊びの相手は大概僕や妻だったりするわけで、つまりその遊びに同伴して、一緒に遊ぶこともまた立派に仕事なのではないだろうか。
そう考えたら幼稚園に迎えに行った後に始まる園庭開放での鬼ごっこやかくれんぼも、目一杯遊んで帰宅した後に始まる恐竜ごっこも、ひょっとしたら普段仕事という名目でしている仕事以上に大切な仕事のように思えてくる。
仕事の多くに代わりはいるけど、目の前にいる子どもにとって、遊び相手は今目の前にいる僕か妻しかいない。今ここでは僕にしかできないことなのだから、ごっこ遊びひとつでも代えの利かないすごく大切な仕事だ。
そしてその仕事としての遊びは、日々の忙しさの中で忘れてしまっていたことをはっと思い出させてくれるし、日常を思ってもみなかったところへと転がしてくれる。
すみっコぐらしをこんなに好きになると思わなかったし、園庭に落ちている木の実の名前や地面を張っている芋虫について知ることもなかった。そうやって来るもの拒まず、子どもに転がされるように生きている。
園庭で園庭開放が始まると、子どもと仲の良い園児が駆け寄ってきて「きのうのつづきやろー!」と僕の手を引く。子どもと一緒になって遊ぶのだが、この言葉の響きを長らく忘れていたから、初めて誘われた時は懐かしさが込み上げてきた。
そういえば「あした、きょうのつづきやろー」とか「きのうどこまでやったっけ」とか確認しあってから毎日遊びが始まっていた気がする。「きょうはなにする?」のように、昨日の遊びが前提としてまずあって、その続きとして違う遊びをするようなこともあった。
いまの僕の感覚では毎日はしっかり区切られていて、昨日は昨日、今日は今日なのだけど、子どもの頃はそうではなかったということだろう。昨日と今日はつながっていて、今日したことが明日につながっていく。今日が始まったときにはまだ今日も明日も何もない。その場、その時に遊びが消えたり生まれたりを繰り返している。
子どもの遊びはいつも中途半端に終わる。スイミングの時間、お買い物の時間、園庭開放の終了時刻、雨、日没…それぞれの家の事情で少しずつ友達は帰っていって、最後2、3人になってもうこれ以上遊べない状況になったら急いで帰るようなことがしばしばだった。
遊びをやり切って終わることは少なくて、途中でぷつりと切れてしまうから、いつもそれをつなぎ合わせるような言葉を交わす必要があった。そうやって遊びの糸は毎日繋ぎ合わせられていくから、遊びというのは次第に一本の長い紐のようになってくる。
そして小学校や中学に進学して交友関係も変わればそれまで繋いでいた糸は繋がれなくなっていって、代わりに別の糸が繋がれていく。でもだんだんと大きくなるにつれて昨日は昨日、今日は今日になるのだろうか。
園庭では他の園児のママたちも子どもの様子を見守っている。僕も妻も美大卒だから珍しいのか絵の話になるのだが、「私は絵心がないからさあ」と謙遜されることが結構よくある。
これは園庭に限らず、この間打ち合わせで友人が「僕は絵心ないんで…」と言いながらパッケージのイメージを絵に描いて共有してくれた。デザイナーが「私は絵が描けないから」と言っていたのを耳にしたこともある。
絵心って最近聞くけど、一体なんなんだろう。そのことが頭を掠めるようになった頃に、園で開催された子どもたちの作品展をみにいく機会があった。うちの子の絵が一番…と言いたいところだが、みんなすごく良い絵を描いていた。
園でやっている絵画教室を見にいった時も、思い思いの絵を集中して描いていた。絵の具をぶちまけながら描いている子もいて先生は大変そうだったけれど、この子にとってはそのぶちまけも含めて絵なんだろうなと微笑ましく眺めていた。
集中力がすぐに切れて描けたと言って遊び始める子も、実際その子にとって完成しているのだろう。絵は長く座っていれば描けるものではないから、その瞬間に彼が描くことに没頭していたならそれで良いと思う。
この幼稚園児という段階は、みんながそれぞれのペースで絵を描くことを楽しんでいるように見えた。でもどこからだろうか、足の速さと同じように絵に優劣がつくようになった。
足の速さと違って、絵の優劣は本来測れないはずなのに。つまりそれは上手い、下手ということであってデッサン的な見方が基準としてそこにはある。
現実の模像を作ることの巧みさによって優劣がつくのだが、ではすごくデッサンの上手い人が絵心があるかと言われるとそうとも限らないのではないか。いわゆる「絵心ない芸人」の絵の方が胸を打つものがある。笑える絵が描ける、それもスラスラと。面白い心があるんだろうな。
絵心という言葉の通りなら、絵は心に宿るものだ。運動能力に遺伝はあるかもしれないが、絵心は誰しもが平等に生まれ持って備えている。
美大に芸術家の子息が少なからずいるのは、絵を描く環境が整っているからだ。その環境というのは、設備的な意味ではなくて、絵を描くこと、あるいはつくることに寛容であることなのではないか。
絵は筆記具と紙さえあれば描ける。指を使えば公園でも描ける。体一つでできるかけっこやかくれんぼ、ボールがあればできるサッカーと同じくらい簡単に始められる。
かけっこはランニングに、サッカーはフットサルに形を変えて保護者世代にとってもごく身近なレクリエーションとして市民権を得ているが、絵を描くことを趣味として公言している人って、若い人にあまり聞かないなあ。子どものまえでは描きたくないとはっきり言われることもあったくらい。
子どもはというと、絵を描くときまだ幼稚園の段階では誰かの目を気にしていないように見える。頭の中から湧き出てくるイメージを素直に紙に写して形を与えている。まなざしは自分の内側に向いているから、その線は自由でのびのびとしたものだ。描きたいから描いているし、楽しいから描いている。
ここで提案がある。ランニングにしてもフットサルにしても自分の心や身体を健全に保つためにあるのだから、絵を描くことについてもいわゆる絵心は一度棚に上げて描いてみたらどうだろうか。
へんな絵ができるかもしれないけれど、子供の絵がそれで十分面白く示唆的であるように、あなたが描く絵はあなた固有のものであるはずで、それを許すことができれば絵を描く心も軽くなるはずだ。
心が軽くなれば線も軽やかになる。下手だねなんて子どもに笑われるくらいで良いじゃない。その絵は人を笑わせることができる絵なのだから。そう考えたらやっぱり絵心がないと自認する方ほど絵を描くことに向いている気がする。
美術大学の中で特別絵が上手いわけではなかったけど、僕は絵を描くことが好きだ。だから好きと上手いはべつものだと思っている。
絵があるから毎日楽しく過ごせている。絵を描くことは歳を重ねてヨボヨボになっても楽しめるレクリエーションだ。なんならおじいちゃんになって初めて描ける絵もある。
ぶるぶると震えた線なんていまは自然に描けないから、いつかそんな線が描けたときのことを想像するだけでも楽しい。歳を重ねることを肯定的に捉えられるようになるだけでも随分と生きやすくなる。
そう思うからこそもっと絵を描いたり、作ったりすることを楽しみにしている人が増えたら良いのにと思うのです。こんなに満ち足りた時間を過ごせるのだから。
園児が僕の手を取って遊びに誘うように、僕は絵を描くことをみんなに勧めたい。でもなかなか直接口に出すのは難しいから、この場を借りて話してみました。お手元にあるコピー用紙でも、チラシやレシートの裏側でも良いから、試しに落書きしてみませんか? 絵を描くって案外楽しいですよ。
Profile
小林一毅(こばやし・いっき)/グラフィックデザイナー。1992年滋賀県彦根市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科を卒業後、資生堂を経て独立。女子美術大学、多摩美術大学非常勤講師。