
歩む道が最前線に。タオに生きる、カルチャーシーカーの旅|自分の旅のつくりかた。 Vol.05 RIP ZINGER(フォトグラファー)
旅は人生を彩る。旅に出る理由は人それぞれだけれど、自分にしかないテーマやモチーフを追い求める人は素敵だ。ふとしたきっかけから世界を自転車で旅し始めた編集者が、"旅の先輩"を訪ね、その真髄を聞く連載。第5回は、約20年も定住せず、心の赴くままに世界を飛び回るフォトグラファー、RIP ZINGERさんを訪ねます。
取材・文/山田さとみ 写真/濱田 晋

Profile
RIP ZINGER(リップ・ジンガー)/1974年、東京都生まれ。19歳で写真を始め、スケートボードやスノーボード、サーフィンなど動きのある被写体から、ポートレート、風景、抽象イメージまで、幅広いジャンルでの撮影とカルチャーの記録を得意とする。主な写真集は、2005〜2008年にカウチサーフィンで旅した記録を収めた『RIP ZINGER WEST AMERICANIZED TOUR』(STUSSY BOOKS, 2009)など。
目次
偶然手にした、ロブ・マチャドのサーフボード。
2019年の夏、ロサンゼルスへ遊びに行く予定を立てていた。ちょうどそのとき、BRUTUS編集部から映画特集「いま観る理由。」の仕事の依頼を受けた。そこで、せっかくならロサンゼルスでサーフ映画について取材ができないか、と企画を思いついた。
それは、世界がまだCOVID-19に襲われる前のこと。ロサンゼルスに行ったらサーフィンをしようと考えていたし、2020年の東京オリンピックに向けて、新種目としてサーフィンが加わることが話題になっていたのだ。
企画が通り、マリブに暮らすプロサーファーで映画監督の枡田琢治さんにコンタクトを取って、ゲストを招いて2人でサーフ映画について語ってもらえないかとお願いした。すると琢治さんは快諾して、対談相手にビースティ・ボーイズのマイクDを呼び、RIP ZINGERさんに撮影を依頼してくれた。
その仕事が、RIPさんとわたしの出会いだ。
ロサンゼルスで取材を終えた次の日、RIPさんは再びサンディエゴからやって来て、サーフィンに連れていってくれた。
海に着くと「ロブの板を借りてきたよ」と言って、車からサーフボードを取り出し、貸してくれた。その偉大な存在は、サーフィンをちょっと齧った程度のわたしでも知っていた。レジェンド・サーファーのロブ・マチャドだ。聞けば、RIPさんは彼と一緒に暮らしているという。あの、ロブ・マチャドと。
RIPさんはフォトグラファーであり、スケートボードをはじめとするストリートカルチャーと世界を繋ぐ、架け橋のような存在だ。31歳で自分の家を出てから約20年、定住せずに居を転々としながら、人の家に身を寄せて暮らしているのだ。
そして、今年の5月。一通のメールが届いた。
「もしもしさとみさま。お元気ですか??? 今日本に帰っていて、東京にいるのでタイミングが合いそうだったら会いましょう! RIP」
そのメッセージを読んだとき、また企画がひらめいた。彼の生き方こそ、まさに旅そのものではないか。この連載にぜひ出てもらいたい。あの夏、聞きそびれたことがたくさんある。そう思い、会って話を聞かせてもらえないかと、返信を送った。
アメリカの色眼鏡を外し、東洋の知恵を巡る新たな旅へ。
待ち合わせは、広尾駅近くのカフェ。広尾・麻布エリアは、RIPさんが生まれ育った町だ。平日の昼間にもかかわらず、店内は上品な雰囲気の女性たちであっという間に埋まった。わたしたちは一番奥の席に腰を下ろし、久しぶりの再会を果たした。
自転車で世界を旅し始めたことを伝え、この企画の趣旨を説明する。そして、まずはどうして日本に帰国したのか、近況とあわせて尋ねた。
「パンデミックもあったし、仕事とかビザの問題も重なったんだけど、それ以上に、自分が追い求めていたものが変わってしまったんだよね。サンディエゴでは排他的な人種観と、お金やステータスを重視する価値観がどんどん強くなっているように感じて。僕が好きだったアメリカは、そういう場所じゃなかった。それで、ずっと掛けっぱなしだったアメリカの色眼鏡が、ようやく外れた感じがした。これからどう生きていくか考えて、新しい世界を見に行こうとアジア行きの航空券を買って、旅に出たんだ。インドネシア、ベトナム、タイ、マレーシア、台湾、韓国を回って。僕は、写真を撮るだけじゃなくて、ボディワークの施術をしたり、料理を振る舞ったりもするから、各地でマッサージを受けたり、現地の料理を食べまくることを目的にね。それから日本に来て、日本の料理はすばらしいって、初めて気づいた。日本のことをまだちゃんと知らないから、勉強してみようと思って、山口から東京まで歩くことにしたんだよね」
そうして、昨年の10月から歩き始め、今年の5月に東京へ到着。そのタイミングで、東京にいるいろいろな人に会おうと、わたしにも連絡をくれたのだと話してくれた。

歩くようになってから、iPhoneで写真を撮るように。「大きなカメラもいいけれど、何より大事なのは“写真を撮りたい”という強い気持ちを瞬時に形にできること。だから、この旅の記憶装置として行き着いたのはiPhoneだったんだよね」
東京では、どこで暮らしているのだろうか。
「家はなくて、いまも旅の途中。“日本に帰ってきた”っていう感覚ではなくてね。アメリカにいるとき、いろんな人にボディワークの施術をしながら、アジアでは当たり前に行われている東洋の知恵に気づいた。それについて、本を書いているところでもあって。日本やアジアで学んで、それを持ってアメリカでお金を稼ぐ。そんな反復横跳びみたいな生活を考えているんだよね」

RIPさんが生まれ育った、東京・麻布にある実家のマンション。かつては、世界中からスケーターや、まだ駆け出しだったクリエイターの卵たちが自然と集まる場所だった。

お正月の家族写真を撮った日も、つらい出来事があった日も、マンションの入口にあるこの階段を通った。うれしいときも苦しいときも歩いた記憶が刻まれている。
多様な外国人を受け入れることで培われた旅人精神。
RIPさんが、旅をしながら暮らすようになったのは2005年、31歳のとき。それまでは、この麻布で生まれ育ち、暮らしてきた。
「この街は、昔からとても国際的だった。有栖川公園で遊べば、外国人の子どもたちが当たり前のようにいて、家のインターホンが鳴れば、モルモン教の人が聖書を売りに来ていたり。いろんな国のいろんな人たちと自然に遊べる環境だったね」
そんな環境で育ったからか、RIPさんのカルチャーへの興味は早くから芽生えていた。6歳のとき、兄の元章さんと一緒に映画『E.T.』を観て、そこで初めてBMXの存在を知り、大きな衝撃を受けたという。
「警察に追われるE.T.が、BMXに乗って空へ飛んでいくシーンを見て、もう頭の中はBMXでいっぱいになっちゃった。それで、かつて白金にあった『アザブサイクル』に行ったら、マージっていうイラン大使の息子がいて、僕らにとって兄貴みたいな存在になったんだ。マージはとにかくぶっ飛んでて、BMXの技から何もかもが規格外。子どものころから、完全に枠からはみ出した外国人に囲まれて育ったから、僕自身も箱の中に収まりきらない感覚になってたね」
そのとき、1980年代後半はBMXとスケートボードが街を二分する勢いで人気を集めていた。
「当時、穴が開くほど眺めていた『Freestylin’』っていうBMX雑誌では、よくスケートボードの記事もあって、そこに出てくるスケーターたちは、ヘルメットを被って膝にパッドをつけてランプを滑っていて、正直ちょっとダサく見えた(笑)。でもある日、1986年の1月号で、服をカッコよく着こなして、地面でハンドプラントを決めてるスケーターの写真を見て、“これが本物のスケートボードか!”って衝撃を受けた。その自由さと表現力に圧倒されたんだよね。それが、マーク・ゴンザレスの記事だった。そこから僕もスケートボードを始めたんだ」
それが小学生のころの話だというから、その早熟さに驚かされる。その行動力はすぐに国境を越え、14歳のときにはひとりでハワイへ行くという大胆な行動に出る。
「学校にハワイからの帰国子女がいて、その友だちの家に行くことにして。父には、“大阪に行く”って嘘をついてね(笑)。ちょうどそのとき、スケートボードのワールドチャンピオンシップが開催されていて、それまで雑誌や映像でしか見たことのなかったヒーローたちが、目の前にいたんだよ。当時の僕にとっては、E.T.も、マイケル・ジャクソンも、スティービー・ワンダーも、マイケル・J・フォックスも、マーク・ゴンザレスも、トミー・ゲレロも全部が同じくらい特別な存在で。いわば、“テレビの向こう側の人たち”。みんな等しくフラットに“異次元の存在”って感じだった。だからまるで、『STAR WARS』のバックステージに迷い込んだような気分でさ。ファンタジーみたいに信じていた世界が、本当に存在するんだって実感した瞬間だった。“マーク・ゴンザレスって、デッキテープにこんな絵を描いてるんだ!”“トミー・ゲレロって、CHANELのロゴTシャツ着て、ドクター・マーチンを履いてる!?“って、雑誌や映像では伝わってこないディテールに、いちいち衝撃を受けてた。“えっ!オシャレって、こういうことなんだ!”ってね」

小学生のとき、ちょうどこの場所でスケートボードの練習をしていた頃の一枚。

東京都立中央図書館のまわりは、恰好の遊び場。コンクリートの広場や階段、手すりのひとつひとつが、スケートボードの練習場になった。
そして、16歳になると、同じマンション内で両親と兄弟2人が別々の部屋を借りて暮らすことになり、次第に友だちとの付き合い方にも変化が現れ始める。
「兄と僕が6階に住み、両親が1階に住むことになったころから、ツアーやトレードショーで来日するスケーターたちと遊ぶようになった。食事に連れて行ってもらい、代理店の大人たちが帰ると、最後は僕らの部屋に集まる流れに。スケーターから始まり、スポンサーのデザイナーやミュージシャン、その周りの人たちも来るようになって、仲間の輪がどんどん広がっていった。当時はまだ日本に来る外国人も少なく、英語メニューのある店なんてほとんどなかったから、みんな僕を頼るようになり、そこからさらにその友だちに紹介されていった。雑誌の編集者が短時間でインタビューをするのが精一杯な大物アーティストとも、僕は1週間ずっと一緒に過ごすこともあって、その距離感が楽しくてさ。そんな生活をずっと続けていた2005年、マーク・ゴンザレスをはじめ、スケートボード界のオールスターがチームになった〈FOURSTAR〉が来日して、僕がアテンドを担当した。そのとき、マイク・キャロルが『RIPもアメリカに遊びに来いよ。英語も上手くなるし、長くいた方がいい』と誘ってくれて。『長くって、泊まるところはどうしたらいい?』って聞いたら、『人の家に泊まりながら旅することを“カウチサーフィン”って言うんだ。僕はそれで世界中を旅したよ』と教えてくれた。それで、僕が東京で世話をしてきた人たちが住んでいる場所を地図上に印をつけていったら、アメリカを一周できるくらいのネットワークができていて、“これなら僕にもできる”と思って、すぐにアメリカ行きのチケットを取った。それが、いまの生活の始まりだね」
日本に来る外国人と出会い、別れ、そして再会を繰り返すなかで、新たなつながりが生まれていった。若きRIPさんは、東京に定住しながらも、自然と旅人のマインドを育んでいたのだろう。そして、自ら旅に出るようになるのは、時間の問題だったに違いない。

カリフォルニアで遭遇した、ピストカルチャーの萌芽。
日本で、サンフランシスコのピストバイク〈MASH SF〉が大流行した裏には、RIPさんの存在があったと聞いたことがある。もしそのムーブメントがなければ、いまのわたしの自転車旅も、また違った形になっていたかもしれない。
言わずもがな、〈MASH SF〉が自転車界に与えた影響は、計り知れないほど大きい。
「〈MASH SF〉は、マイク・マーティンとゲイブ・モーフォードの二人がメインで立ち上げたんだけど、当時ゲイブはスケートボードの代理店〈DELUXE〉の専属カメラマンだった。僕がアメリカへ渡って、〈FOURSTAR〉のツアーでも来日していたゲイブの家に泊まっていたとき、彼が『最近、自転車の映像を撮ってるんだよね」と話していて、レジェンド・スケーターのジョバンテ・ターナーも自転車に乗ってるって聞いたんだ。ゲイブに誘われて、サンフランシスコのスケートスポット〈EMB〉での撮影について行くと、ジョバンテやイーゲイをはじめとするスケーターたちが集まって、ピストバイクでトリックの練習をしていた。スケートボードの開拓期にオリジナルなトリックを生み出して、自分たちのスタイルを築き上げてきた彼らが、今度はピストに乗って、また新しいカルチャーを切り拓いていく光景がそこにあった。世界中の物好きが熱狂していく、まさにトレンドの始まりを感じた瞬間だった。そのときに撮っていた映像が、後に〈MASH SF〉の作品になっていったんだよね」
RIPさんがアメリカでスケーターとの関係性を深めていく一方、同じカルチャーを共有して育った兄、元章さんは、幼少期から傾倒していたBMXを中心に扱う自転車店〈W-BASE〉を立ち上げていた。その店が拠点となり、やがて〈MASH SF〉のムーブメントが日本にも広がることになる。
「ゲイブたちが〈MASH SF〉を始めることになったとき、〈W-BASE〉で代理店業ができるから、Tシャツやステッカー、DVDの輸入販売を始めた。当時は、まだみんなピストバイクの知識があまりなくて、eBayでフレームやパーツを買っても組み立てられなかったんだ。そんななかで、チャレンジ好きな兄が組めるとわかると、世界中から〈W-BASE〉を目当てに来日する人が現れはじめた。空港から直接お店に来て、その場で自転車を組んで、街に繰り出す……そんな流れができていった。それをきっかけに、日本でもメッセンジャーレース〈CMWC〉が開催されることになった。兄が自転車のメンテナンスを担当し、僕がみんなをアテンドして。たしか、50人くらい引き連れていたときもあったんじゃないかな(笑)」
才能が行き交う場所で、カルチャーの最前線を走る人たちの息づかいを間近で感じる。いつのまにかRIPさんは、そんな旅を続けるカルチャーシーカーになっていた。誰かが作った流れに乗るのではなく、自分の足で踏み入れる。だからこそ、その足取りは、いつしかカルチャーが生まれる場所へと変わっていったのだろう。
「スケーターって、AからBへ行くときに最短距離を選ばず、あえて舗装のいい路面を選ぶからおもしろいんだよね。スケーターにしかない視点で街を見るようになると、ローカルしか知らない裏の世界に気づく。ガイドブックに載っているような場所に群がる人たちを見ると、まるで動物園の檻の中にいるみたいに見えて(笑)。そういう人たちがいくらお金を払ってもできない、リアルでリッチな体験が確かにあって、それを世界中のスケートコミュニティが教えてくれた。そんな独自の価値観と視点で世界を見たいというモチベーションが、僕が旅を続ける理由だね」
ロブ・マチャドとの出会いで会得した、無の境地。
2015年、アメリカを拠点にカウチサーフィンでの暮らしを続けていたRIPさんに再び大きな転機が訪れる。
「サーフィンの先駆者ジェリー・ロペスとバリへ行ったとき、僕はスポンジボードに乗りながら、ジェリーさんが波に乗る姿を写真に収めていた。そのとき僕は、サーフィンも泳ぎもできなかったから、撮っては波に巻かれてばかり。そこにロブが現れて、今度は2人を追いかけて写真を撮った。するとロブが、『RIP、写真を撮るのもいいけど、君もサーフィンしたら?』って言ってきた。僕が『サーフィンも泳ぎ方も知らないんだよ』と答えると、ロブは『サーフィンの聖地にいて、サーフィンができないって? 俺が教えてあげるよ』って言ってくれたんだ」
あの、ロブ・マチャドとの出会いだ。
「その午後、ロブは別のスポットでサーフィンを教えてくれた。波が来たのを見て僕がパドルしようとするたびに『違う』って言われて、逆にまったく波の気配がないときに『パドル!』って言うんだ。最初は遊ばれてるのかと思っていたら、本当にそこに波が立ったんだよ。それで、僕がパドルを始めると、ロブがボードのテールを引っ張って、『今度、僕にスノーボードを教えてくれる?』って聞くんだ。『もちろん』と答えて、交渉成立。その瞬間、テールを押されて、ものすごいスピードでボードが加速した。初めてショルダーに乗れて、足元の珊瑚礁が驚くほどクリアに見えた。『いつもみんなこんなきれいな景色を見てるの!?』って感激していたら、ロブが次の波に乗ってきて、『RIPはずっと足元を見てたね。女の子とダンスするとき、彼女の足元を見る?顔を見ながら踊るよね?次は波を見ながら乗ってみて。さぁ、俺のリーシュにつかまって』と言って、またラインナップまで戻っていった。その瞬間、“これが本当のサーフィンだ!”と完全にハマっている自分に気付いた。そしてロブが『もっとやりたかったら、うちに遊びに来なよ』って言ってくれたんだ」
それからロブの家へ遊びに行くようになり、ついには住まわせてもらうことになったというから、やはりRIPさんの人を惹きつける力は、並外れている。そして、そんなRIPさんの心を掴んだロブもまた、これまでに出会った誰とも違う、格別な存在だったという。
「ロブに出会った瞬間に、“この人から教わりたいことがたくさんある”と直感して、彼の心理状態を知りたいという思いが、僕の一番の興味になった。ロブの内側を理解するには、自分もサーフィンをやらないと無理だと思って、彼のもとで本格的にサーフィンの修行を始めた。彼と一緒に過ごすうちに、競争心をモチベーションにして“勝つこと”を目的にサーフィンしている人と、“極めること”を目的にしている人とでは、まったく違う次元にいるということを、身に染みて感じた」
ロブのサーフィンが他のサーファーたちとどう違うのか、RIPさんはこう続ける。
「もちろん、コンペティションサーファーにもレジェンドはいるけれど、彼らは音楽でいうところの『ノート(弾く)』のような存在だね。どれだけテクニックを磨いて弾くかで勝負する。一方、ロブの場合は、まるで弦を弾いたときにピーンと響く『余韻』に重きを置いている。最小限の動作で、波が自然にさせてくれることや、ボードがしたいことを推し量って、それに寄り添うように波に乗る。計算や力みはなく、それは一度きりしか来ない波と一期一会の戯れ。無力感の中に楽しみがあって、受け身であるからこその学びがある。それが、ロブのサーフィン。彼は、大会の決勝で最後の1分を争うときと、朝起きてカーテンを開けたときの心拍数が、きっと同じなんじゃないかと思う。精神的にもっと掘り下げると、彼には『タオ (道)』的な部分がある。過去に執着せず、未来に惑わされることもなく、ただこの瞬間にすべてを集中させている。ほかのサーファーたちが先の動きを予測し、ミスをリカバリーしようとするのに対して、ロブはまるで360°すべてに感覚を開いたような洞察力で、その瞬間にただ身を委ねるように反応しているんだ。彼にとってサーフィンは、ただのテクニックではなく、無限の可能性を感じる体験そのものなんだよね」

もともとはトップで活躍するアスリートだったロブが、どのようにいまのスタイルを築き上げてきたのかについても、RIPさんは深く感じていることがある。
「サーフィンをしていると、誰もが海から何かを学んでいる。でもその“学びの深さ”は人それぞれで、30年以上サーフィンをしていても、海の教科書が3ページの人もいれば、10ページの人もいる。その厚みを決めるのは、テクニックじゃなくて、その人の感受性だと思う。ロブには、まるで辞典のように分厚い本ができている気がする。でも彼自身は、まだまだ知らないことだらけだと言い続ける。そんな彼の姿勢から、彼が海から学んできたことを僕なりに紐解くと、空海や老子の教え、武士道や茶道、利休の思想のような東洋の知恵に通じることがたくさんある。ロブがそれらを学んできたわけじゃない。でも、人生の大半の時間を海で過ごし、自然のエネルギーの中で揉まれてきたことで、結果的にそうした哲学の達人たちと同じ域にたどり着いたんじゃないかと思う。おもしろいのは、その哲学が人生のあらゆる側面に通じているということ。ビジネスマンも、僧侶も、侍も、結局は『今、 この瞬間』に集中することが重要だと悟る。ロブはそういうことを他人に語らないから、僕は彼の背中を見て、察して学ぶしかなかった。そして、僕がロブから学んだことで最も大切だと感じたのは、“無の境地=究極のリラックス”ということ。まるで戦国時代の侍が命を懸けた戦いの中で冷静でいるように、ロブはリラックスこそが、最高のパフォーマンスを引き出すことを知っている。そして『無我』の中にこそ、スタイルが宿る。サーフィンとは、人間がどうしても勝つことのできない自然の圧倒的なエネルギーと向き合う中で、その波を“自分が輝くステージ”として見るか、それとも“自我を消して波と調和する”か。自然を受け入れ、自然に受け入れてもらう。その一体感を得るための手段としてのサーフィンを思うと、それ以上の至福はないと思うんだよね」
ロブから大きな学びを得たRIPさんは、冒頭で述べたように、2022年の終わりにロブとの生活に終止符を打ち、再び新たな旅へと踏み出すことに決めた。そして、これまでの経験から得たことを本に綴り始めている。
「その境地に辿り着くまでに、これまで出会った人たちから学んできたこともあるし、ストリートからはじまって、海や山から得た教訓もあった。そして、最終的にロブに出会って、すべてが繋がったんだ。それまでは、都会で生まれ育ち、何かあると意地悪になったり、他人のことを決めつけたり、忙しくて余裕をなくしたり、都合が悪いことを隠そうとしたりしていた。それって、都会に住む多くの人たちが抱える、認めたくないような心理状態だと思っている。でも、いまはもう解決したから、すべてをさらけ出せる。もちろん、まだまだ発展途上だけど、ここまでの体験を通して、こう考えられるようになったってことを、報告しておきたくて。定義とかエビデンスとか、固定的な理論じゃなく、いま僕が考えていることを。みんなには、『こいつアホだな』と思いながら読んでもらえればいいし、ボコボコに言われても構わない。それについて論じられることがクリエイティブだと思うし、そこに楽しさと明るい未来を感じているんだよね」

RIPさんがこれまでに給料制の仕事をしたのは、たった2回だけ。そのうちのひとつが、〈ナショナル麻布〉でのデリバリーと駐車場係。

もうひとつの給料制の仕事は、老舗ハンバーガーショップ〈Homework’s〉でのデリバリーだった。
直感のままに進む道が、自分の旅をかたちづくる。
都会の真ん中に生まれ育ち、自然と多様性を受け入れてきたRIPさん。麻布という街で、外国人やストリートカルチャーと交わりながら、人との縁を大切にしてきた。仲間が仲間を呼び、気づけばその輪は国境を越え、彼の生き方そのものが旅になっていた。
そして、好奇心に突き動かされるまま、自分の感覚を信じて日本を発ち、海外でカウチサーフィン生活を始めた。その足取りのすべてがカルチャーの種をまき、やがて誰かの価値観を揺さぶるような胎動になっていく。
RIPさんの旅は、どこかへ「行く」ことよりも、「どう生きるか」を問い続ける時間なのだろう。直感を信じ、自分の中の声に従って動き続けることでしか、出会えない景色がある。何があるかわからないからこそ、旅なのだ。
自分の旅。それは、後ろを振り返ったとき、はじめて見えてくるものなのかもしれない。彼の旅が、そうであるように。
