自分と社会の壁を乗り越えるヒントになる? 思考法としてのパルクールの可能性|パルクールとはなにか⑩

日本パルクール協会会長で「SASUKE」でも活躍する佐藤惇さんに、さまざまな側面からパルクールのことを教えてもらうこの連載も今回で最終回。まとめとして、より俯瞰的に「パルクールが個人や社会にもたらすインパクト」について訊いていきます。

取材・文/中野慧 撮影/大内カオリ

勝利や結果という「表面的なもの」にこだわらないスポーツが必要。

——ここまでの回で、パルクールが既存のスポーツに対して批評的な視点を提供してくれるカルチャーだということがわかってきました。そこで今回は「パルクールと既存スポーツの違い」にフォーカスを当てて掘り下げていきたいと思います。まず大まかに、佐藤さんはこの問いをどう考えているでしょうか?

佐藤惇さん(以下、佐藤):まず大きなひとつは、パルクールは誰かと競争をしない、ということです。いまスポーツをしていないとか、苦手意識を持っている人って、既存のスポーツで「勝つ」ということばかりが重視されてしまっていることとか、誰かと競争しなければいけないことに、違和感を感じているのではと思うんです。

——たしかに既存のスポーツって、本来楽しむものだったスポーツが競争、名誉、お金のためだけに遂行されるものになってしまっていますよね。最近のスポーツジャーナリズムでは過去の勝利至上主義への反省も高まっていますが、スポーツ界全体ではまだ少数派にとどまっています。

佐藤:既存のスポーツって、長い歴史のなかで形成された「スポーツはこういうものだ」という思い込みに縛られてしまっているから、本来あるはずのカラダを動かすことの楽しみから離れていく傾向があると思うんです。

でも、パルクールをやってみることによって、そういう既存のスポーツの固定観念に縛られずに、カラダを動かすことに入っていくことができる。それに、これまでスポーツをやってきた人も、凝り固まったスポーツ観をほぐして、今までと違うスポーツ観をつくれるかもしれないと思うんです。

——そのためにはパルクール的な「誰かと競わない」ということが重要になってくるわけですね。

佐藤:多くのスポーツは「相手に勝つ」ということがゴールとして定められやすく、そのためにトレーニングをしていきますよね。そういう、ある種の狭い規範のなかでやっていくのがスポーツ各種の構造だと思うんです。

一方、パルクールを始めたヤマカシたちは、パリの郊外に住む移民系の貧困層で、治安の悪さなどから、仲間や家族を守れるようにカラダとココロの両面で「強くなりたい」と考えていたんです。そこで子どもの外遊びを応用し、究極の環境に挑めるカラダとココロを鍛えるツールとしてパルクールが形作られてきました。

ヤマカシたちがパルクールを始めた街、エヴリー。パリ郊外の住宅地で、佐藤さんいわく「多摩ニュータウンのような感じで、団地っぽい場所です」。写真提供/合同会社SENDAI X TRAIN

佐藤:パルクールは「カラダとココロを鍛える」という前提があるので、トレーサーたちの価値観は「難しい技ができた・できない」という単純なものではないんです。その人が1つ目標を決めて挑戦して、それができるようになった瞬間に、みんなの声援が飛んでくるんですね。パルクールでは、その人が1歩でも成長した「強さ」に称賛の対象があるんです。

——一人ひとり身体能力に違いがあるなかで、その人が一体何にチャレンジしているかを、パルクールのトレーサーたちは解像度高く見ているわけですね。既存のスポーツにもそういう要素はなくはないですけど、どうしても勝ち負けのほうに注目してしまう人のほうが多いかもしれません。

佐藤:これって、前回話した子どものスポーツにも言えることだと思うんです。保護者の方々は、純粋に子どもたちの成長を願っているところはあるけれども、スポーツの習い事にお金を払って行かせている以上、結果として目に見えて成長している姿を欲してしまう。そうすると、次第に結果だけでジャッジをしてしまう。

第7回で「パルクールの基礎運動は、見た目は簡単そうだけど、実際には難しい」という話をしましたよね。僕の教室には子どもたちがたくさん来ますが、保護者の方から「うちの子、こんな簡単なこともできなくてすみません」とお声を頂くことがあります。そういうときに、僕は保護者の方に「さっきの動き、ぜひやってみてください」と言って、やってもらったりします。すると、全然できないんですよね。「えっ、こんなに難しいんですか!」と。

——すごく重要な話な気がします。

佐藤:保護者の方は、子どもを「なんでできないの?」と責めてしまいがちです。第三者的視点が強くなりすぎると、本当に外野からヤジを飛ばす人になってしまう。それが今の社会一般の、スポーツをみるときの通常運転になってしまっているんです。

そうではなく、子どもたちがどんなチャレンジをしているかを、きちんと見てあげてほしい。そのときに、「大人も体育をする」という経験が、大人側の感覚を元に戻すきっかけにもなると思うんですね。

スポーツ、パルクール、武道の関係。

——これまでの日本のスポーツ観って、タテマエとしては「スポーツを通じた人間形成が大事だ」と盛んに宣言している一方、ホンネでは勝利至上主義・結果至上主義が非常に強かったわけですよね。これまで佐藤さんのお話を伺って、パルクールはむしろ人間形成のほうに非常に重きを置いているんだなと思ったのですが、そこでパルクールが想定している人間形成って具体的にはどういうものなんでしょうか?

佐藤:パルクールの動きのなかでいろいろな身体経験をし始めると、どういう動き方が自分にフィットするのかがわかってきます。そのフィットした感覚を楽しいと感じて続けていくと、それを突き詰める方向になっていく。突き詰める方向に入ると、自分自身の何が弱点か、欠点かを見つけ出す思考に入っていきます。

そうなっていったとき、最初は「技術の中でここがダメなんだな」とか「こういうふうに回転しよう」と考えるようになり、やがて「カラダのこの部分の筋力が足りていないな」「じゃあここを重点的に鍛えよう」という感覚になっていく。それをもっと俯瞰していくと、「こういう食生活がダメなんだな」とか、「こういう生活習慣がダメなんだな」とか、自分の人間としての生活すべてにフォーカスが当たっていくようになります。

そして「自分を見つめる」というフェーズに入っていくと、「じゃあ自分はこういう風にすべきなんだな」と、思考の変化につながってくる。そういうふうに段階を経ていくと、「自分はどうあるべきか」というフォーカスが強くなっていって、そこが人間形成の第一歩になっているのかなと。

——でも、それでも第一歩なんですね。

佐藤:そうですね。「自己実現」とよく言われますけど、自己実現って自分がやりたいことを実現するって意味じゃなくて、今の自分の状態をまず認知して、そこか自分がどういう方向に行くべきなのか、現実的にどういうステップを積み重ねていけばいいのかを模索していく、ということです。

そもそも自分自身の生き方にはゴールが決まっていないですよね。パルクールはスタートもゴールも自分で設定します。そのために、まずは自分自身を見つめていくことで、自分がどうしていきたいかを見つけていく。それを見つけられて初めて、人間形成が始まっていく。

パルクールを始めたらただちに人間形成が始まるわけでもないし、パルクール始めたからできるわけでもないんですけど、そういうプロセスの果てに自分の理想に向かってひた走っていく、そこまでの助走がパルクールだし、そこから走っていくのもパルクールなんです。

——となるとパルクールって、これまでの欧米由来のスポーツというより、中国や日本の武道に近いわけですか? 武道って、そういったある種の道徳観を非常に大事にしますよね。

佐藤:ヤマカシの初期メンバーであるセバスチャン・フォーカンは、ブルース・リーの開発した武術哲学である截拳道(ジークンドー)に非常に感銘を受けたそうです。彼らのイメージのなかには、ブルース・リーの強い影響下にある『ドラゴンボール』や『シティーハンター』などの漫画・アニメ作品もありました。

また、ヤマカシたちは日本のサムライのような高潔な精神、忍者のような素早い動きを理想像のひとつにしていました。そういった背景もあって、パルクールは西洋のスポーツより、東洋の武道に近いところはあると思いますね。

——ただ、最近では柔道や相撲のような武道って、前近代的な「かわいがり」や体罰の横行が批判されることも少なくないですよね。

佐藤:武道や武士道の理念ってあくまで指標でしかなくて、受け取り手の側はどうとでも解釈できるんですよね。特に指導者の側が、楽しくやっていくために活用できることもあれば、精神的に追い込むために活用できるところもある。武道や武士道そのものが悪いというより、運用側の問題だと思います。

パルクールのトレーサーだって、身につけた技術をたとえば不法侵入にも使うこともできてしまう。だから絶対に必要になるのは、自分自身を強くして好き勝手にやるのではなく、自分のなかにルールを作って動く、ということだと思うんですね。

エクストリームスポーツ的な「蛮勇」をどう捉えるか。

——第5回では、スケートボードなどのストリートカルチャーとパルクールの共通点、相違点について伺いましたよね。スケートボードなどのライフスタイルスポーツって「エクストリームスポーツ」と言われるように、危険なトリックにも挑戦するじゃないですか。パルクールも似たところがあると思うんですが、そういう「エクストリーム性」を佐藤さんはどう見ているんですか?

佐藤:パルクール全体で見れば、視点を変えればそういった要素はあると思います。エクストリームスポーツと言われるものって、無限の可能性に挑戦していく、というニュアンスが強くなってくると思うんです。たとえば普通のスポーツクライミングではない、まったくロープや安全装置を使わずに天然の岩壁を自分の手と足だけで登っていく「フリーソロ」は、エクストリームスポーツだと思うんですね。

バドミントンでもサッカーでも、ある程度は規範の中で楽しんでいくものだと思うんです。だけどエクストリームスポーツって、スポーツのルールの枠組みのなかにゴールがあるのではなくて、枠の外側にゴールがある。そういう新たなことへの挑戦、難しいことを乗り越えていく勇気が、称賛の対象になっていると思うんですね。

ただ、スケートボードなどもそうかもしれないですが、実はパルクールって、たとえば「手すりに飛び乗りたい」と思ったときに手すりが破損すると自分が大怪我をする、つまり自分の身体にダイレクトに跳ね返ってきてしまいます。だから僕らは「怪我をしないために、いかに安全を確保するか」を重視するんです。僕らのように長くやっている人たちは、自分が跳べる距離、跳べない距離をセンチ単位で把握していて、跳べないことがわかったら無理やり跳びません。

だから、同じ距離を探して何度も飛んだり、距離感、力加減を感覚で覚えていって、その場に立った時に「これぐらいの放物線でこれぐらいの力で飛べばいいのか」が手に取るようにイメージできるようになって初めてチャレンジするんです。

恐怖心がある=何かが足りていない、ということです。ならばその不安要素を取り除くために、着地地点で滑らないように砂や埃を拭いたり、壁が滑る素材じゃないか材質をチェックしたり、周りに人がいないか確認したり、友達にサポートしてもらったりします。いろんな防御策を自分で用意したのちにチャレンジする。そうやって準備万端でやっていくんですよね。

——多くのスポーツでは、できるかできないかわからないけど、限界に挑戦することで能力を伸ばしていくという考え方だったと思うんです。でもパルクールの場合は、120%ではやらないわけですね。

佐藤:はい。だからこそ、第7回で紹介したように、最初の段階ではごく簡単な運動から始めます。そのうえで、自分のカラダがどれくらい動くのかの限度を知っていく。

たとえば階段2段飛ばしだったらできるけど、3段はできないとか、自分の能力のリミットを知っていくことが、能力よりも先にカラダを守るために必要な感覚なんですよね。120%でやってはだめだけど、70、80%までは出して「こんな感じかな」「ちょっと膝痛いな」というぐらいのなかで調整していきます。

——パルクールは派手な動きをしているように見えて、実は水面下では慎重すぎるぐらいに慎重なステップの積み重ねがあると。

佐藤:だからこそ、最初の方でも言ったように、誰かが本当に一歩成長できた瞬間に、みんなの声援が飛んでくる。パルクールでは「できた・できない」ではなく、その人の成長した「強さ」に、称賛の対象があるんですね。

たしかにパルクールにはエクストリームスポーツ的な「究極に挑戦する」という側面はもちろんあります。だけど、「自分の道を模索する」という創造性のほうが重視されているんですよね。だから、「パルクールはエクストリームスポーツか、そうでないか」という区分けで理解しようとしてしまうのは、実はナンセンスだと思うんです。

——なるほど。自分も含め、言葉で定義して理解しようとしがちですけど、「エクストリームスポーツ」という言葉にこだわりすぎずに、パルクールを捉えられるようにしたほうがいいのかも。

佐藤:そうですね。ジャンルで区切ったりするよりも、パルクールのベースの考え方は「ジャンルレス」なので、人間の生活、文化、社会を、個別的というよりも全体的に捉えているということですかね。

佐藤さんの〈エクストレイン〉のイベントの一コマ。課題にチャレンジする人を見守っていたり、動画を撮っていたり、思い思いに過ごしている。写真提供/合同会社SENDAI X TRAIN

芸術としてのパルクール。

——パルクールでは「自分のカラダの限界をまず知って、そのリミットを少しずつ外してあげる」という感覚なのは、なかなか新鮮です。

佐藤:そういう視点で見るとパルクールをやっている人って、本当にかっこいいんですよね。カラダを動かしているだけじゃなくて、ちゃんと自分の限界を知りながら、本当に究極的な状況にあって挑んでいき、その中で目標を達成して、さらにレベルアップを目指していく。でもその知識がなく見ると、超絶クレイジーな人にしか見えないんですよね。

カラダと心があるからこそ、そのふたつを結びつかせて成長していくプロセスって、アプローチが違うだけでどれも一緒なんですよね。パルクールは今はまだ特別視されているけど、全然特別なものではなくて、当たり前にある手段です。その手段をみんなが持っていて、誰でもできるものなんだよっていうことを伝えたいなと思っています。

——パルクールのことを「アート・オブ・リビング Art of Living(生き方)」だと言った人もいる、とのことでしたよね。

佐藤:どういう意味で芸術なのかというと、絵画でも彫刻でも音楽でも、芸術を作る人って「こんなものをつくりたい」という理想=ゴールを描いて自分でスタート地点を決めて、いろいろな方法でゴールを目指していくわけですよね。パルクールも理想を描いて、自分でスタート地点を決めて、行き方や動き方も自由なんです。

パルクールでは自分の内部、つまりカラダに対する感覚が変わっていくんです。「ここをこういうふうに飛び越えるなんて、とてもできないよ」と思っていても、一歩踏み入れて少しずつトレーニングを続けていくとある日、できるようになったりする。無理だと思っていたことができるようになると、「自分」に対する見え方も変わっていくんですね。

——「自分の人生はなかなか変わらない」というふうに感じている人が多い中で、まず自分の身体感覚が変わることが実感できれば…。

佐藤:「意外と自分にはいろんなことができるんだな」と思えるようになる。それがカラダとココロで実感できると、仕事だって勉強だってどんどん可能性が拓けていって、人生をより豊かにしていくきっかけにしてもらえるかもしれません。

自分以外の外の世界の使い方をクリエイティブにして、さらに自分の見え方も変える。今まで「これが自分」と思っていた形すらも破れる、新しい自分を発見できる。たったひとつのルート、環境だったとしても、モノの見え方、使い方が変われば自分のカラダの感覚も変わる。自由な発想、自由な動き方があるからこそ、自分のことを見つめられるような要素が多いのがパルクールなんです。

今って「スポーツ離れ」が起きていると思っている人が多いですけど、逆に「スポーツに凝り固まっている」という、両極端があると僕は思っているんです。それがスポーツの勝利至上主義、オリンピックに象徴される問題を生み出している。

一度原点に返って、勝ち負けやゲームとしての面白さ以前に、多くの人に「カラダを動かす」ことの自由さを、子どもの外遊びのようにもっと身近に感じてもらうことが必要だと思います。「スポーツ」という規範の中だけではなく、もっとシンプルにカラダで遊べることをパルクールを通じて知ってもらいたい、体験してもらいたいと思っているんです。

パルクールって究極の回り道なんですよね。今は社会全体でどんどん効率化が進んでいますけど、パルクールは非効率性、非生産性の極みです。そのなかでいろんな経験をして、社会の効率化とのあいだを行ったり来たりできれば、それがベストなんじゃないかと思います。

そういうパルクールの視点をいろんな人に共有できればいいし、人々の意識とか考え方、いま当たり前と思っている、その外側にもっと違う当たり前とか、思いもよらない可能性がある。それを見つけていくことで人はもっと発展すると思うんです。そういう意味で、僕はパルクールで革命を起こしたいんですよね。