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オフ会から始まった日本のパルクール。「楽しく公園で遊ぶ」ことが直面した“現実との軋轢” 日本パルクール協会会長・佐藤惇さんに聞く④

パルクール

ここ数年で誰もが目にするようになった「パルクール」について、日本パルクール協会会長の佐藤惇さんに様々な側面から教えてもらう連載の第4回。ゼロ年代以降にサブカルチャーやインターネットとともに日本社会で認知度を高めてきたパルクールですが、そこには独特の困難があったようです。今回は、パルクールというカルチャーならではの「公共空間との向き合い」という課題について伺いました。

教えてくれた人

佐藤惇さん/日本で唯一のパルクール指導に特化した会社「X TRAIN」共同代表で、日本パルクール協会会長を務める。パルクール実践歴は17年で、国内におけるパルクール指導の第一人者として「YAMAKASI」直伝の精神を基に、パルクールの普及活動を行う。「SASUKE」常連選手であり、Snow ManのCMアクション監修なども行う。

日本のパルクールコミュニティ黎明期

――前回は、ステップマークスという二人組のチームのホームページの掲示板で、映画『アルティメット』の鑑賞オフ会のために各地のパルクール愛好者が集まって「PKTK」という集まりになっていったことを伺いました。ここが日本のパルクールの中心になっていったということでしょうか?

佐藤惇さん(以下、佐藤):そうですね、僕らが「中心」のような役割を担っていたかもしれないです。PKTKのなかでカメラマン的な役割をしてくれていた方がいて、彼が週末の練習会の雰囲気を3分ぐらいの映像にまとめてYouTubeに動画をアップしてくれたんです。

それが「うわ、すげー」ということで評判を呼び、各地から僕らに会いに来る人も出てきてくれた。当時の東京って比較的自由に街中で動くことができて、PKTK内部でもレベルの上がり方が著しかったんですよね。

――PKTKというチームは、どういう人たちの集まりだったんですか?

佐藤:当時は僕よりも年上が多く、パルクールに興味を持って調べたり実践したりしている人が多かったですね。まさにパイオニアといえる集団だったんですが、まだメディアに取り上げられたりとか派手な展開もなく、地道に趣味として続けている方が多かったです。

そんなこともあって、「チーム」というとちょっと違うんですよね。サークル、もしくはコミュニティ…くらいの感じです。

――なるほど。ちなみに、以前にも語っていただきましたけど、この運動の呼び名が「パルクール」に定着するまでには、少し時間がかかったんですよね。

佐藤:ああ、映画『ヤマカシ』が世界でも日本でも話題になったのが2000年代初めですが、その時の日本ではまだ「パルクール」という呼び名は定着していなかったんです。

前にも話したとおり、ヤマカシたちはこの運動を「ADD=アート・デュ・ディプレイスメント(移動の芸術)」と呼んでいたのですが、それもあまり認知されていませんでした。日本でも最初は、屋根から屋根に飛び移ったりとか、そういうことを総称して「ヤマカシやろうぜ」と言っていたくらいです。

――それが「パルクール」という名前になっていったのは、どんなきっかけが?

佐藤:ひとつはダヴィッド・ベルですね。映画『ヤマカシ』が公開されて話題になった時期に、彼はもうヤマカシを抜けちゃっていたんですが、お父さんのレイモンがベトナムでやっていたフランス軍式のトレーニング「パルコース・デ・コンバタント」から、少し綴りを変えて「パルクール」と呼び始めた。それが人口に膾炙していったのが2000年代半ば〜後半にかけてだと思います。

――これまでの連載では「パルクール」「フリーランニング」というふうに名称が揺れていた時期のことも話していただきましたが、日本で「パルクール」の呼び名が定着していった経緯はどういうものだったんですか?

佐藤:僕が記憶している最初の日本語での紹介は、フランス在住の日本人の方が書いていたブログなんです。街中でこの運動をしている若者たちに出会って、現地の人はみんな「parkour パーコー」って言ってるんだ、ということを書いていて、実はそのブログ記事が最初の翻訳だったと思います。

その後、日本人の方がやっている「パルクールボックス」というホームページがトレイサーのあいだで知られるようになって、それが日本での表記のスタンダードになっていったという流れだと思います。

パルクールの実践が、なぜ日本では難しいのか?

――日本のパルクール黎明期に中心だったPKTKはチームではなくコミュニティだったということは、要は「来るものは拒まず、去る者は追わず」という場だったわけですよね。

佐藤:はい、出入り自由という感じです。それゆえなのか、活動が右肩上がりに成長したわけではなく、独特の困難が伴いました。大きく理由はふたつで、一つは、活動していたスポットがどんどん潰れていってしまったこと、もう一つはメンバーが徐々に社会人になっていくにつれて活動に参加しなくなってしまったことですね。

――予想はしていましたが、苦難の道のりですね。一つ目の、「スポットが潰れる」とはどういうことなんでしょうか?

佐藤:さっきお話ししたとおり2007年にパルクールジェネレーションズのメンバーに出会った後に、僕らPKTKのメンバーは「強くなる」「鍛える」っていうマインドになっていったんですよ。

そうなると、今振り返るとだいぶ考えが足りなかったと思うんですけど…。公園などの公共空間で登っていたりするときに、警備員さんや施設の管理者の方が出てきて注意されてしまう。そういうときに「僕らは鍛えるためにやってるんです!」みたいな返しをしていた。

――本場のパルクールの哲学に触れて、佐藤さんの周りで熱気が高まっていたのは伝わってきますが…端から見たら、ちょっと怖い光景ですよね。

佐藤:本当にその通りなんです。警備員さんからすれば「いやいや、そういうことじゃなくて、ここは人が乗るところじゃないから降りてね」ですよね

でも僕らは「僕ら、別に悪いことやってるわけじゃないんで!」「鍛えるためにやってるんですけど、何が悪いんですか?」と返す。お互いが噛み合わない会話をしてしまっていた。

――実際、ギョッとする光景だと思いますが、公園などで遊んでいるぶんには確かに「悪いこと」ではないですね。

佐藤:警察官の方にパルクールを説明すると、「言ってることはわかった」と言ってもらえたりはするんです。でも、「もしこの近くで空き巣があったりしたときに、警察官として怪しい者がいたらきちんと調べていないと問題になるから、名前と住所を控えさせてください」とはなりますよね。

行政とパルクールをどう折り合わせるか

――今の話って、ここまでの欧米のパルクールの華やかな物語とは、大きなギャップを感じます。実は、日本における公共施設や公園の位置づけを問いかける「深い話」でもある気がしました。ただ、佐藤さん達は、そういう日本の現実と向き合いながら、この国のパルクールの成長を見てきたんですよね。

佐藤:2010年〜11年前後にパルクールは本格的に大きくなってきました。当時はコミュニティも成長期だったんです。

アルティメットオフに参加したメンバーが中心になって「関東定期オフ」というイベントを開催していて、それが進化して「PK DAY」という名称になり、そのタイミングで主催者としてPKTKがコミュニティとして出来てきました。認知度も上がってきて、もうめちゃくちゃ人数が集まってくるんですよ。

でも、そうなると今度は別の問題が起きだしたんです。

――どういうことですか?

佐藤:当時の僕らは、あくまで練習会を主催していただけなんです。だから、わざわざ集まってくるメンバーに「活動を続けるためにも、こういうふうにしてね」と“教育”することなんてしていなかった。

だから例えば、参加する若い子たちが練習会の前にどこで練習しているのかを把握しようなんていう発想は当時の僕らにはない。ところが、彼らが公園で器物破損をしてしまうことはあるんです。そのときに、あとから回り回って僕らが怒られるようなことが発生しはじめたんですね。

――自然に規模が大きくなっていく中で、気がついたら管理責任が問われる段階に入っていたんですね。

佐藤:そもそも当初は公園での練習会開催自体も許可をとっているわけじゃなかったんです。なにせ最初は本当にごく少人数でしたから…。でも、人が増えて60人、70人のレベルになっていくと、周りからしたら「あいつら何やってんだ!?」という話になってくる。

――そもそも数名の遊びを超えて公園を団体が使用するのって、日本ではかなりデリケートな問題ですからね。

佐藤:はい、どうしても他の利用者の方や警備の方とトラブルになってしまう。練習会の場所と日時をホームページ上で告知していると、その公園で警備の方からのマークがきつくなっていくことも起き始めました。すると自然に、練習会の開催頻度も落ちてしまう。

そうなると別のスポットを探してやるんですけど、また人数が増えていくとトラブルになる。すると「開催しない」方向にどうしてもなってしまい、新規の人が参加できる場所が少なくなってきて、やがてコミュニティが縮小していく…そんな負のサイクルに入ってしまいました。

――でも現在2024年時点では、佐藤さんがCOOを務めるSENDAI X TRAIN(以下、エクストレイン)は、公園を使えるように行政との折衝に取り組むようになっているんですよね。

佐藤:はい。エクストレインの場合だと、代表の石沢憲哉(いしざわ・かずや)が宮城県富谷市と協議を重ねて、公園が使える状況にはなってきています。ただ、他のローカルなコミュニティではまだまだ難しい状況だと思います。

――パルクールが自発的な活動である以上、それぞれのローカルなコミュニティが活動の場を担えるとよさそうですが、社会との擦り合わせに関してはまだまだ課題が大きいわけですね。

パルクールをどう日本で伝えていくか

――PKTKは、佐藤さんがいま会長を務めている日本パルクール協会や、所属して教室などをやっているエクストレインの母体になっているんでしょうか?

佐藤:いや、実はそこはほぼ関係がないんですよ。

――となると、PKTKは後のエクストレインやパルクール協会のように事業につながっていかなかったわけですか。やっぱり二つ目の問題は、メンバーが社会人になっていくなかで仕事との両立が困難になったということなんでしょうか?

佐藤:より正確に言うと「組織」というものの問題なんですよね。2012年頃にはPKTKが仕事が多く入ってくるようになってきて、「法人化しようか」という話が出てきたときに、意外とそれに異を唱える人が多かった。

たしかにパルクールでお金が稼げたらとてもいい。だけど法人という形になると、PKTKの「出入り自由」というコミュニティの形ではやっていくのが難しくなる。「パルクールは自由にやりたいから仕事としてやりたくない」という人も当然いました。

――本場ではパルクールの根底に「哲学」があることを踏まえると、そういう意見は当然ありますよね。

佐藤:もちろん、「メディアにエキストラとして出るのをアルバイトがてらやりたい」という人もいました。当時はパルクールの仕事自体もそもそもすごく少なかった。それで表に出る人もだんだん少なくなっていったんですね。

そして残ったメンバーも結局、「仕事、仕事」というふうになっていくと、今までの和気あいあいとした練習会ではなくなって、いつも来ていた人が来なくなったりする。そういうふうに精神的な意味で活動が疲弊していった感じはあります。

――ただ、直近で言えば2020年以降のコロナ期間にTikTok、Instagram、YouTubeなどの動画SNSを通じて、パルクールに触れる人は多くなったのではないかと思うんですが。

佐藤:そういう部分はあると思いますが、やっぱり実践者の増加にはつながっていかないんですよ。映像が先行して人々のあいだに入ってしまうと、難しい動きが当たり前になりすぎて、「自分にもできそう」「やってみたい」ということにつながっていかないですね。

――メディアの中の人として言うと、たとえばテレビやスポーツメディアって、パルクールに対するスポットの当て方が少しズレていたのかなとも思うんです。メディアの特性として、たとえばテレビは視覚メディアなので、派手な、かっこいい動きにどうしてもフィーチャーしてしまいがちです。そこには、本来のパルクールは「する」スポーツないし運動であるという基本的な認識が抜けてしまっていたかもしれません。

佐藤:たとえばテレビなど大手メディアの人が、パルクールの派手さやファッション性にスポットを当ててキャッチーなものとして提示すること自体は、仕方のないことだと思います。そもそもパルクールがふわっとした概念だから、何かしらの角度をつけてメディアに載せないといけない、ということは理解できるんです。

――日本でパルクールが、カルチャーないしコミュニティとして発展しづらい要因がだんだん見えてきたように思います。そうなると、この連載の1〜4回目で出てきたように歴史や文化の側面も含めて、佐藤さんにこの連載で語っていただくことが必要なのかもしれないですね。

佐藤:そうですね。今回は少しネガティブな話が多めだったかもしれませんが、メディアではなく実践者のレイヤーでいえば、最近はこれまでの紆余曲折を経て、再びみんなでユナイトしてパルクールを盛り上げていこうという機運ができつつあるので、そこはポジティブに捉えています。

――今回見えてきたのは、パルクールがたとえばスケートボードのような公共空間を使う「ストリートカルチャー」であるという側面が、他の運動やスポーツを参照点にしたときに、独特の難しさを孕んでいる、ということでした。次回はそのあたりを聞かせてください!

取材・文/中野慧 撮影/大内カオリ

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