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2020年に冬眠状態を誘導する脳の神経回路が発見された。遠い将来、SFのような「人工冬眠カプセル」が実現する可能性もゼロではない。近い将来で言うと、この発見をもとに、救命救急の常識が覆される…かもしれない。
櫻井武 教授/(さくらい・たけし)筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)副機構長・教授。研究テーマは「神経ペプチドの生理的役割、とくに覚醒や情動に関わる機能の解明」など。柳沢正史教授とともにオレキシンの発見に貢献。
人工冬眠カプセルに入って何万光年離れた宇宙まで辿り着き、一切歳をとらずにスッキリ目覚める。SFの世界の空想話と思っていたら、2020年、冬眠状態を誘導する脳の神経回路が新たに発見されたという。
この世界が驚く研究を手がけたのは筑波大学の櫻井武教授のグループだ。冬眠と聞いてパッと思い浮かぶのは、クマやリスが冬を越すときに陥る状態のこと。
「冬眠という現象は厳密に定義されていないんです。冬に動かず物も食べず体温が下がっている状態を冬眠と呼んでいるだけ。生理学的にどういう状態なのかはまだ不明です」
冬眠と睡眠、同じ「眠る」という字はつくが、その違いとは一体?
「まず体温が違います。睡眠中は日中より1度くらい体温が下がる程度ですが、冬眠の場合クマは30度程度、ある種のリスはゼロ度に近い体温にまで下がります。
また脳の活動も違います。睡眠中はメンテナンスをするために脳は活動していて、レム睡眠中は覚醒時より活発なくらいです。それに対して冬眠の状態では、脳の活動自体が低下しています。冬眠の目的は脳のメンテではなくエネルギーの節約。そのためには脳の活動量を落とす方が効率的だからです」
研究対象はマウスおよびラット。これらは本来、冬眠する習性のない動物だが、脳の視床下部にあるQ神経と名付けられた特殊な神経細胞群を刺激することで、人工的に冬眠に近い状態(QIH)に誘導できることが分かった。
「もともと神経ペプチドという伝達物質の中で新しいものを探索していたんです。ある神経ペプチドに注目し、それを発現している神経細胞がQ神経だった。いじっているうちに冬眠に近い状態になるということが分かったという話です」
遺伝子を改変したマウスやラットのQ神経を、薬物を使って刺激すると約30分後にQIHとなり、体温が下がって2日間ほど動かなくなる。その後1週間程度かけて元の状態に回復する。光を使った刺激では刺激し続けている間はQIHの状態が続き、1時間以内で元に戻るという。
「冬眠というと特殊な動物種が獲得した際立った能力のように思われていますが、そんなことはありません。おそらく全ての哺乳類は冬眠する能力を持っているはずです。それを使うのが有利かどうかが能力を発揮するしないの分かれ目。
ヒトでも原人の時代は冬眠している種があったという説が有力視されています。かつて六甲山で遭難した人が3週間飲まず食わずで救出されたことがありました。そのときの体温は22度くらいでその後、普通に回復しています。これは冬眠のような低代謝の状態で乗り切ったとしか思えません」
となると、遠い将来、SFのように宇宙船の冬眠カプセルの中で目覚めるという可能性はゼロではない。
一方、近い将来で言うと、QIHがもたらすだろう恩恵は救命率の底上げだという。たとえば心筋梗塞で心臓の機能が低下したり交通事故で大出血を起こしたときなどだ。
「そうしたとき、全身に酸素を届けられないと脳など酸素をたくさん必要とする組織がダメになって死に至ります。でもQIHの状態では心機能は節約モードで通常の5分の1くらいに落ちるので酸素需要も少なくてすむ。原理的には救命できます。今の医療では供給の方を何とかしようとしていますが需要の方を落とすということです」
ヒトに応用するためにはいくつものハードルがあるが、それが実現できれば救命救急の常識が覆される。
「それと、QIH明けのマウスは妙に元気がいいんです。これは妄想ですがパソコンが再起動するようにカラダや脳に何かいいことが起こっているのかもしれませんね」
取材・文/石飛カノ イラストレーション/浦上和久 編集/阿部優子
初出『Tarzan』No.845・2022年11月3日発売