なぜ眠るのか?神経科学最大の謎を解く「睡眠研究」最前線
睡眠についての様々な研究が進む昨今だが、なぜ眠るのか? なぜ適正な睡眠時間に個人差があるのか? という謎については明らかになっていない。この“神経科学最大の謎”を解くために最前線で行われていることとは。
取材・文/石飛カノ イラストレーション/浦上和久 編集/阿部優子
初出『Tarzan』No.845・2022年11月2日発売
教えてくれた人
柳沢正史教授/(やなぎさわ・まさし)筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授。生理活性物質オレキシンの発見と過眠症や不眠症の創薬への貢献によりこの2022年9月、国際的学術賞『ブレークスルー賞』を受賞。
睡眠と覚醒の“ししおどしモデル”
動物は何のために眠るのか? なぜ人によって適正な睡眠時間は異なるのか?
人生の3分の1は眠っているというのに明確な答えはまだ誰も知らない。実は睡眠とは“神経科学最大のブラックボックス”のひとつだからだ。睡眠研究の世界的トップランナー、筑波大学の柳沢正史教授に最先端の研究について伺った。
「睡眠と覚醒を表す例として私がよく使うのは日本庭園などで見かける“ししおどし”です」
ししおどしの上向きになった竹筒にチョロチョロ水が溜まっていく状態が覚醒時。7〜8割水が溜まって竹筒がカタンと傾いた状態が睡眠時。水がこぼれて再び竹筒が上向きになって覚醒モードとなる。
睡眠と覚醒をししおどしに喩えると…
「この喩え話はコンセプトとしては正しいんですが、分かっていないことが3つあります。ひとつは水によって表される“眠気”が何なのか。我々の脳は覚醒時間をカウントして、カウントに応じて眠気が増しますが、竹筒に当たるそのカウンターが何なのか。そして水が溜まったとき睡眠にスイッチする情報伝達機構はどういうものなのかという謎です」
タンパク質のリン酸化が眠気の正体?
そこで柳沢教授が行ったのが、8000匹にも及ぶ多数のマウスの脳波を計測し、睡眠に異常があるマウスを特定するという研究手法。
膨大な作業を経て見つかったのが、寝ても寝ても眠いという睡眠の特徴を持つマウス。「スリーピー」と名付けられたこのマウスはヒトで言えば「特発性過眠症」と名のつく睡眠障害に当たるそうだ。
で、このスリーピー、体内の特定のタンパク質をリン酸化させる酵素を作る遺伝子に変異があることが分かったという。ちなみにリン酸化とはタンパク質にリン酸基がくっつく化学反応で、細胞の増殖や死、さまざまな情報伝達を調整することが知られている。
「遺伝子の変異がない正常なマウスでも断眠させるとタンパク質のリン酸化が進むことが分かりました。リン酸化を促す遺伝子に変異があるスリーピーは、リン酸化が過剰に進んでしまうため、寝ても寝ても眠い。
さらに、リン酸化されるタンパク質の多くは脳内の神経細胞同士が結合するシナプスで働くもので、それらのタンパク質のリン酸化の程度が眠気の正体のひとつではないかという仮説を立てたのです」
リン酸化のイメージ図
2018年、国際的な総合科学ジャーナル『ネイチャー』に発表されたこの論文は、睡眠の謎に迫る光明のひとつとして大きな注目を浴びた。
柳沢教授によれば、ヒトでもこのように特定のタンパク質のリン酸化が起きている可能性が高いという。この研究結果を起点に、現在もリン酸化を制御する上流や下流の伝達経路を明らかにする研究は続いている。
数万人の大規模調査でさらなる睡眠の謎を解く
さて、柳沢教授がマウスでの研究と同時に進めようとしているのがヒトを対象にした睡眠の大規模調査だ。
「ショートスリーパーやロングスリーパーというのは体質によるもので、一人一人が持つ遺伝子によって決まっています。
でも具体的にどういう遺伝子がそれらを作り出しているのかはほとんど分かっていません。そこで睡眠を脳波レベルで測り、遺伝子型との関係を摑むための調査をこれから本格的に進めていくことにしたのです」
睡眠時の脳波と遺伝子型のデータを蓄積するためには多くの被験者が必要だ。最終的には数万人レベルの調査を目指しているという。
この大規模調査の足がかりとして開発されたのが、脳波を手軽に計測できるデバイス《InSomnograf(インソムノグラフ)》だ。
「額と耳の後ろにシール状の電極を貼り付けるだけで医療レベル並みの精度の高い睡眠脳波が測れます。脳波のデータをクラウドにアップロードし、クラウド上でAIが脳波を解析するというシステムです」
柳沢教授の研究グループが立ち上げたスタートアップ企業〈S’UIMIN〉が提供するサービスとして、すでに健診のオプションやクリニックの検査、企業の製品に関する客観的なデータ計測など、さまざまなビジネスが展開されている。もちろん、個人で計測を申し込むことも可能だ。
「私はセミナーなどでこんなことを言っています。50年ほど前にオムロン社が家庭用の自動血圧計を開発すると、あっという間に普及して朝一番の血圧を測れるようになりました。そして血圧を測るだけで行動変容が起こり、血圧が下がるというエビデンスが出ています。
最近では24時間連続して測れる血糖値計測計が登場し、やはり計測するだけで血糖値が下がります。同じように自分の睡眠を可視化することで睡眠が改善される可能性はあると思います」
インソムノグラフで計測した脳波
ただ可視化するだけではなく、もちろん睡眠を改善するためのソリューションも提供してくれる。
実際に睡眠外来などで入院して検査をするとなると、大掛かりな機器を装着し、普段とは異なる環境下で眠ることになる。その点、こうしたシステムなら普段通りの睡眠の質を手軽かつ正確に計測できて、しかも個別のアドバイスをもらえる。睡眠に悩める人にとって試す価値は大いにありそうだ。
日本人の睡眠への意識が変わる未来を拓く
OECDの2021年のデータによると日本人の平均睡眠時間は7時間22分で加盟国33か国のうちで最も短い。海外のシンクタンクは睡眠不足による日本の経済損失は年間15兆円と試算している。
「日本人は昼間ちょっと眠いのは当たり前と思っている人がほとんど。でも欧米では昼間眠い=体調が悪いということ。電車の中で眠るのは世界標準からすると異常なことなんです。
睡眠はお金に喩えると住宅ローンと同じで最初に確保すべきもの。ところが日本人は今月はお金が浮いたからいいレストランに行くように、余裕があるから寝るという感覚。それは生物学的に間違っていて、人は遺伝子的に決まっている必要な睡眠量を確保して初めて健康かつ生産的な生涯を送ることができるんです」
今後、柳沢教授の研究がさらに進めば、日中起きているときにパフォーマンスを発揮し、眠るべきときにきちんと眠れる、そんな健全な生活が日本人のスタンダードになる日が来るかもしれない。いや、必ず来る。