鵜澤飛羽(短距離走)「記録じゃない。 必要なのは強さ」
世界選手権、オリンピックで3回の準決勝進出を果たした。日本短距離界の雄が向かう先とは。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2025年11月20日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/岸本 勉
初出『Tarzan』No.915・2025年11月20日発売

Profile
鵜澤飛羽(うざわ・とわ)/2002年生まれ。182cm。宮城県築館高校で陸上を始め、2年時にインターハイで100m、200mの2冠。筑波大学では2年時に日本インカレ200mで優勝。翌23年、アジア選手権と日本選手権で初優勝。同年、ブダペストの世界選手権で準決勝進出。24年、パリ・オリンピックでも準決勝に進出し、25年、日本航空(JAL)に入社。同年、東京の世界選手権で準決勝進出。
準備してきたものが そのまま出せたけど、 見通しの甘さがあった。
鵜澤飛羽は陸上男子200mの選手で、世界選手権とオリンピックで計3度の準決勝進出を果たしている。これがどれほどすごいことかを説明するのは難しいが、これまではトップ選手が“まずは準決勝”というのを目指していたことは言えよう。
現在では鵜澤をはじめとする数名の選ばれた短距離ランナーたちが、世界と戦えることを証明しつつあるが、いまだ高い壁であることは確かだ。ただ、鵜澤自身は、もちろん満足はしていない。その言葉の端々には、悔しさが滲み出てくるようなのだ。

「2年前、ブダペストの世界陸上のときは初めての代表で、当たって砕けるというか、失うものは何もない、やれることやろうっていう気持ちでした。(世界での)自分の立ち位置を把握するというか、そういう感じですね。去年のパリ・オリンピックの場合は、本気で狙って、跳ね返された。ブダペストで感じた世界との距離よりも、もっと遠かったんだということを理解する場になりました。そういうことを踏まえて、今年の東京はどうすればいいか、決勝に残るには何をすればいいかっていうことは大まかにわかったので、じゃあそれをやろうと。それが形になってきて、しっかりと準備もできた。自分の中では、ちゃんと走れれば決勝まで行けると思っていました」

9月17日、満員の国立競技場、男子200m予選6組。鵜澤は中盤までトップを快走し、ゴール前で2選手にかわされるものの、着順で準決勝に進む。そして翌日の準決勝1組。有力選手が揃うなか、スタートで飛び出した鵜澤だったが、コーナーから直線で抜かれて決勝進出とはならなかった。
ただレース後のインタビューでは「3大会で一番よい走りができた。やりたい動きをやって全力は出せた」という言葉を残した。

「自分の走りとしては、準備してきたものがそのまんま出たっていう感じだったんです。これまでだったら、決勝に行けるかどうかギリギリのラインぐらいの走りはできていました。でも、今年はレベルがだいぶ高かった。だから、なんだろうなぁ、自分の見通しの甘さが出ちゃったなって感じはすごくしますよね」
鵜澤が見上げていた壁は、今年一段と高くなっていた。決勝に残った選手は全員が19秒台という、史上最速の戦いだったのだ。ちなみに日本記録は2003年、22年前に末續慎吾が出した20秒03である。
いつの間にか何本もやっている状態を作る。
野球少年が肘を痛めて、陸上へと転向したのが高校1年のとき。本気で甲子園を目指していたというから、挫折感は大きかったろう。すんなりと他競技に入っていけたのか。

「部活が少なかったので選ぶにも選べなかったんです。ただ、やるからには本気でやりたい。とくに運動に関しては。負けず嫌いだと思うので、その辺りはしっかりやっていました。あと、自由でいられたのが大きい。顧問の先生はいたけれど、指導を受けたことはなかった。基本一人でずっとやっていましたから」
ただ、誰にも教えてもらえないということは、マイナスになりかねない危うさがある。何をすればいいか、本当に正しいことをやっているのか、まったくわからないのだ。

「これは大学に入って勉強したんですが、運動能力を獲得するにはコツがいるんです。なんか“コツの音”っていう表現をするらしいんですけど、そういうものが聞こえてくるっていう。僕もよくわかってはいないんですけど、今これをもうちょっと続ければ、いつかはつかめるっていうのが人間はわかるらしいんです」
鵜澤がコツの音を聞いたのは高校1年のとき。まだ陸上を始めて1年にも満たなかった。これまでにない、まったく違った感覚で走ることができたのだ。「その感覚を他人に伝えられるようになったときは、もっと速くなれるんでしょうが」と鵜澤が言うほどそれはセンシティブで、感受性の強い一握りの人間にしかわからないものかもしれない。ただ、音は確かに聞こえた。鵜澤がすごいのは、その音を聞くために、ひたすら100mを走り続けたことだ。その本数は1日で100本にもなったという。なんと、1万mである。

「最低それぐらいです。ただ、そういう話をすると“僕もやります”っていう人も出てきて。何本も走ることは、体力をつけるのには必要ですが、感覚を養うためには、いつの間にか何本もやっている状態を作らなくてはいけない。自分の場合は1本普通に走る。走って、今はこんな感じだったから、次はこうやってみよう。2本目を走ったら、じゃあもう少しこうしてみたらどうって具合。自分の中に感覚があるから、それに近づけることを目指して何回も走るんです。それを繰り返したら、結果として100本を走り切っていたりするんですよね」
自己ベスト近くを何度も出せた。確実に強くなってきている。
筑波大学に進学して4年を過ごし、日本航空(JAL)に入社した今も、基本的な練習スタイルは変わらない。筋肉がつき体重が増えたから、100本までは走らないが。変わったことは本格的な筋力トレーニングを始めたことと、走ることではない動きから、コツの音を聞こうと考えるようになったこと。軽めのバーベルの挙上を繰り返しているので“肩甲骨の動きを確かめているんですか?”と聞くと「いや、何かあるかと思って」という答えなのだ。

鵜澤の求道者的な生活はこれからも続いていくだろう。そして、次の世界選手権、ロサンゼルス・オリンピックへと繫がっていく。陸上は今、国立競技場が満員になるほどの人気ぶりだ。
あのスタジアムの観衆の中で走れたことも、彼にとっては大きな財産になったはず。これからをどのように見据えているのか。

「東京で(ノア・)ライルズ選手が4連覇をしましたが、それは平均がずっと高いところにあったから。今回、ファイナルに残った人たちは、みんな平均が高い。一発逆転した選手は一人もいなかった。だから、記録じゃない。必要なのは、高いところを維持できる強さだと思っています。今の僕の現状だと20秒1ぐらいのタイムが限界で、でも今年はそれを4本揃えられた。で、ちょっと遅いですけど、20秒2台も2〜3回出せた。自己ベスト近くというのは、今までだったらシーズンに1、2本がやっとだったのに、何回も到達できた。これ、すごいことなんですよ。確実に強くなってきている。これで、レベルをどんどん引き上げていければ、いつかチャンスが来るはず。だから、今の状態に肉付けして、強くなっていければ一番だと思う。それで、やっと対等に戦えるラインに立てるってことですけど」



















