吉田祐也(ランナー)「経験することで勝負勘を身につけたい」
完璧な走り、圧倒的な強さで優勝を果たした。それは青山学院大学を卒業して社会人での4年、つらく苦しい日々を乗り越えての栄冠だった。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2025年2月20日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中村博之
初出『Tarzan』No.897・2025年2月20日発売

Profile
吉田祐也(よしだ・ゆうや)/1997年生まれ。164cm、48kg、体脂肪率8%。青山学院大学1年時に出雲駅伝でメンバー入り。3年時には全日本大学駅伝の5区で区間賞。4年時、箱根駅伝の4区で区間記録。同年(2020年)、別府大分毎日マラソンで日本人トップの3位。12月の福岡国際マラソンで優勝。24年に開催された福岡国際マラソンでも優勝した。記録は日本人歴代3位の2時間5分16秒。GMOインターネットグループ所属。
地球の裏側まで選択肢。そう言われたときに、あっ、勝てないと思った。
2024年の12月1日に行われた福岡国際マラソン2024で優勝したのが、吉田祐也である。日本人歴代3位の2時間5分16秒のタイムでフィニッシュテープを切った。実に堂々たる走りで、一時は日本記録より速いペースで快走し、後続を1分30秒以上突き放した。このレースの展開は、吉田のなかでは計算され尽くしたものだったのかもしれない。もちろん、2時間を超える長丁場では、計算通りに行くケースはそれほど多くないだろうが、それでも大会前の心境を語った彼の言葉には、自信が溢れているようだった。
「あの大会に出場すると決めたのが、昨年の4月か5月のことで、そこから原監督と練習メニューを組み立てていった感じなんです。長い期間、8か月ぐらいですね、準備期間があったので自分のなかではある程度、これぐらいのタイムは出せると予想することができていたんですよね」
原監督とは青山学院大学陸上競技部・男子長距離ブロックの原晋監督で、青学を箱根駅伝での常勝軍団に育て上げた。吉田は今、〈GMOインターネットグループ〉に所属するが、練習は母校で行っているのだ。
「監督からも10月ぐらいの時点で、“日本記録を狙いなさい”と指示を頂いていたので、もちろん気象条件次第にはなるけど、自分でも積極的に行こうとは思っていました。悪くても(2時間)5分台では走れるねという話もいろいろしていたんで」
この大会は今年東京で開催される世界陸上の日本代表選考競技会のひとつに認定されている。ここで2時間6分30秒という参加標準記録を突破すれば候補の一人となれるし、吉田はそれを大きく上回る日本人歴代3位の記録を出したのだから、代表入りへと大きく前進したといえる。
「世界陸上への可能性を残せるタイムを出せれば、年が明けたときに(2025年)、すごく楽に練習を組めるようになる。長い時間をかけて積み重ねてきたのはそのためで、練習の自信が裏打ちとなって結果に繫がったという、そんな印象です。だから、決戦前夜に気持ちが切り替わったという感じではありませんでした。ただ、前の日に監督から“優勝をとれば5分半前後でいける。積極的に”とは言われたんですけれど」
学生からの流れでの練習。それはまったくの間違い。
吉田がその実力を見せつけたのは、2020年大学4年のときの箱根駅伝だ。当日エントリー変更で急遽4区を担当したのだが、とてつもないペースで走り続け区間記録を24秒更新。翌月2月2日には別府大分毎日マラソンで学生歴代2位、初マラソン歴代2位(どちらも当時)の2時間8分30秒で完走。日本人でトップの3位入賞を果たす。
競技は大学までと考えていたが、実業団へ進むことを決め、その年の12月には福岡国際マラソンに一般参加で出場して初優勝。2時間7分5秒は当時の日本歴代9位の好記録だった。つまり、昨年のこの大会での優勝は2度目ということになる。ここまでは順風満帆。だが、「2020年に初優勝してから、この4年間はつらいこと悔しいことが多く言葉にできない」と今回の優勝の後に吉田自身が語ったように、以来結果がなかなか残せなかった。吉田はこう振り返る。
「卒業しても学生からの4年間の流れで練習を継続していくことが、自分に一番合っていると思っていたんです。ただ、それはまったくの間違いだった。大学のとき箱根駅伝で優勝したり、福岡国際(マラソン)で初優勝したときの考え方だと、結局2時間5分台には辿り着けないと感じるようになっていったんですよ」
そのきっかけとなったのが、日本のトップレベルのランナーたちだった。自分と比べて、なんと志の高いことかと吉田は驚いただろう。学生の延長では、世界どころか日本でも戦えないと気づいた。とくに、大迫傑と出会ったことで、まったく新たな世界を知ることになったのである。
「大迫さんはちょっと別格ですね。“まったく行ったことがない異国の地に一人で行って、一人で練習するのは怖くないんですか?”と質問したことがあるんです。大迫さんはアメリカとかケニアでやっていましたから。そうしたら“まったく怖くないよ。自分の目標を達成するためだったら、地球の反対側に行くことだって選択肢だと思っているから、なんとも思わない”って言われて。あっ、勝てないなって思いました」
この思いが昨年の練習に生きてくる。これまでの2〜3割距離を増やす。トラックシーズンはスピードを重視した練習をメインにして、6月からは40km走を6度走った。また、カラダ作りのトレーニングも重要。週に3日は自宅から1時間強をかけてフィジカルトレーナーの佐藤基之氏の元へ通い、指導を受ける。トレーニングは4〜6時間に及ぶこともあるが、彼にとっては欠かせないもの。朝の練習、午後の練習、合間にGMOの業務、さらにトレーニング。陸上のために一日が明け暮れる毎日。それが今も続いている。
勝負に徹していたから、自分のペースでと考えていた。
本番ではペースメーカーが1km2分58秒で30kmまでついた。かなり速いペースだ。吉田は最初から、先頭集団の後方に位置して走った。
「後ろでレース全体を見ていたら、ペースメーカーの(スピードの)上げ下げに有力選手が過剰に反応していたんです。自分はそれに惑わされなかったのがよかった。勝負に徹していた部分があったので、自分のペースでと考えていたんです」
30kmでペースメーカーが外れても、タイムがそれほど落ちなかった。最後まで1km3分を切るペースで走り続けた。速さも際立っていたが、本当に強さを感じる走りであった。
「30kmを通過した時点で、このままいけるという手応えがありました。それは、長い時間をかけて継続的に練習ができたからですね。もし、練習が継続できないときが一度でもあったら、30kmを過ぎたときに危ないと思っていたでしょうね。ロサンゼルス・オリンピックまでは現役を続けたいと思っていますが、今は国際って名のつく大会に出て勝負してみたい。だから、東京の世界陸上も走りたいです。マラソンは日本と世界ではタイム差があるのは確か。でも、経験によって勝負勘を身につけるのも重要だと思う。もちろんタイムが上がることで自信にはなりますが、それだけが正しいのかなと個人的には考えているんです。大迫さんも言っていたんですが、自分自身と対話するように練習をすることが大切。今は積み上げていくだけです」