田中佑美(ハードル)「まだトライしていない 技術の領域がある」
日本で4人目の12秒台を出した。第4の選手から存在感は日々増していく。オリンピックを終えて彼女は再び走り始めた。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2024年11月7日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/赤澤昂宥
初出『Tarzan』No.891・2024年11月7日発売
Profile
田中佑美(たなか・ゆみ)/1998年生まれ。172cm、57kg。2019年、日中韓3か国交流競技会優勝。同年、日本インカレ優勝。20年、セイコーゴールデングランプリ東京4位。23年、全日本選手権3位。同年、世界選手権出場、アジア競技大会3位。24年、パリ・オリンピック準決勝進出。同年9月、全日本実業団対抗選手権で自己の持つ日本2位の記録を更新し、12秒83とした。富士通所属。
目次
後悔はしたくなかった。絶対にスタート決めたる!そんな気持ちが自分の中にあった。
「オリンピックの前は、圧迫されるような強いストレスはほとんどなかったですね。本当に今自分がやるべきことをやっていこうと、そんな気持ちでいました」
パリ・オリンピックの女子100mハードルで準決勝進出を果たした田中佑美はこう振り返る。オリンピックの陸上短距離での準決勝進出は、多くの日本選手の目標である。その意味では田中はひとつの課題をクリアしたと言えるかもしれない。彼女が落ち着いて決戦前夜を迎えられたのには理由がある。それが、自らが作り上げた試合までの流れなのだ。
「ウォーミングアップを大まかにメモに書き出すんです。この時間からストレッチを始めて、この時間からハードルを跳ぶっていったような。それをコーチに提出する。時間がわかっていれば、コーチは他の選手がいても、その時には私のハードルを見てくれるから、安心なんですよ」
また、ストレッチを始める前、必ず行うことがある。それが“緊張を始める”こと。にわかには理解しづらいが……、田中のルーティンだ。
「緊張って、したくてすることじゃないですよね。でも、それこそ前夜とか、もっと前の段階で、思わず試合のことを考えて失敗したらどうしようとか想像するだけで、カラダ全体が心臓みたいになることがある。そんなだと身が持たないし、毎晩毎晩だとやっていられない。だから、試合当日のアップの30分前ぐらいに緊張開始って時間を決めたんです。それより前は、もしそういうことを考えたら、まだ緊張の時間じゃないからストップって、思いついた考えとか緊張を紙に丸めてポイッと捨てる想像をしている。で、試合前に緊張を始めると、ここは地面がちょっと傾いているから、違うまっすぐなところに行こうとか、あそこのハードル空いているからドリルをしようとか、すごく冷静に競技へ意識を向けていける。前向きな緊張感を持って、試合に入っていけるんです」
その気持ちのまま彼女は、パリのスタートラインに立った。
日本選手権のあとはオリンピックをあきらめた。
日本の女子100mハードルが、俄然面白くなったのが2023年の4月。織田幹雄記念国際陸上で、田中が12秒97で優勝してからであろう。13秒を切った4人、つまり寺田明日香、青木益未、福部真子、そして田中がパリに向けて高レベルなレースを展開するようになっていく。
「ただ、織田記念では12秒台は意識していませんでした。だって、それまでの記録は13秒1台だった。13秒0台も出したことがないのに、青木さんや真子さんに先着するなんて、もう本当にびっくりしましたね」
5月のセイコーゴールデングランプリ陸上では日本歴代4位となる12秒89をマーク。6月に行われた日本選手権は3位に入る。第4の選手と捉えられていた田中は、この頃から存在感を高める。そして、8月にハンガリーのブダペストで開催された世界選手権に出場を果たす。だが、記録は13秒12と伸びず、予選敗退。
「ジュニアの世界選手権には出場していて、圧迫されるような緊張感は経験していました。それより凄いのが来るから、落ち着こうと思った。いつも通り自分を制御して、制御して、制御しすぎてスタートで遅れて終わりました、最悪やんけ(笑)。あと、フライングも怖かった。事前にピストルを鳴らしてもらえる練習の日があって、それで1回走った。そのとき、ピストルが鳴る前にピクッとしちゃった。それが頭に残っていて、普段なら丸めて捨てるやつが、頭に残っていた。それで、ああいうスタートになってしまったんです」
その一方で、田中はオリンピックへの準備を進めていた。それが7月からの海外遠征で、ポイントの獲得が目的。大会で積み重ねたポイントで世界40位以内に入れば出場が叶う。ランキングは最高で33位になった。翌24年は本番の年。日本選手権で3位以内プラス参加標準記録12秒77を越えれば、出場キップは入手できる。この大会で彼女は2位。日本歴代2位の12秒85を出したが参加標準記録には届かなかった。「オリンピックが陸上のすべてではない」と、彼女は大会後に語った。これは終わったと宣言したようなものだ。
「あきらめていました。他の国もそのタイミングでナショナルチャンピオンシップだったので、選手のポイントも上がった。その状況も調べ尽くしていて無理だなって。でも、海外で2人が失敗して39位というギリギリで出られることになった。だから、彼女たちのアンラッキーがなければ、私の出場はなかったんです」
滑り落ちたものもあった。でも評価したい部分もある。
パリ・オリンピック、予選は5位。ただ、世界選手権とは違い、攻めた。7台目のハードルに脚がかからなければ、3位までの準決勝だったかもしれない。だが、パリでは敗者復活ラウンドがあり、2位になった彼女は次へ進むことができたのである。
「ブダペストのことがあったので後悔したくなかった。絶対にスタート決めたる!というのが自分の中にありました。それも重い感じじゃなくて。試合で何がしたいかというのがある程度明確にあって、安定したメンタルで終われたのはよかった。もちろん自分の手から滑り落ちたものがあって悔しさはあるけど、悪いことだけじゃない。それはちゃんと評価したいという思いはあるんです」
これまで地面からの力を上手に受け取っていなかった。どこまで速くなれるか楽しみ。
驚くことにオリンピック後の9月、田中は12秒83を出した。体力気力ともに使い果たし、最悪といってもいい状態でだ。「もうボロボロでした」と、彼女も言う。それでも、これだけのタイムが出たのだから、今後の飛躍も期待できるのである。
「パリの準決勝のレースで、ヨーロッパのチャンピオンになったポーランドの選手が横にいて、(ハードルの)3台目ぐらいまでは彼女のことが見えていたんです。で、リズムの競技なので彼女に合わそうと思った。同じペースで脚を回したら、同じように進むはずじゃないですか。それが、急いで回してもグングン離されていく。コーチにも言われたのですが、今までの走りは地面の反発というか、地面からの力を十分に受け取っていなかった。これは、まだ私が実際にトライしていない技術の領域なんです。ただ、それで速くなるというのはわかるのですが、どこまで行けるのかはちょっとわからない。それが、楽しみってことですかね」