筏井りさ(フットサル)「出場権を取らないと、 歴史が始まらない」

大きな夢を抱いて女子サッカーを続けた。だが、それは叶わずに終わってしまった。そして彼女が今歩んでいる新たな道とは。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2025年8月7日発売〉より全文掲載)

取材・文/鈴木一朗 撮影/赤澤昂宥

初出『Tarzan』No.908・2025年8月7日発売

筏井りさ(フットサル)
Profile

筏井りさ(いかだい・りさ)/1988年生まれ。158cm、51kg、体脂肪率15パーセント。サッカーU-17日本女子代表。筑波大学在学中にユニバーシアード日本女子代表に。ジェフユナイテッド市原・千葉レディースを経て、浦和レッズレディースへ。2018年引退。フットサルチーム・さいたまSAICOLOに入団。得点王になる。21年、バルドラール浦安ラス・ボニータスへ移籍。25年5月、日本代表としてアジアカップで優勝。

満足感よりまだまだという感じ。課題を日本に持ち帰れてよかった。

25年5月に行われたAFC女子フットサルアジアカップ。この大会で初優勝したのが日本代表であり、チームを牽引してきたのがエースの筏井りさだ。実は、25年11〜12月にFIFAフットサル女子ワールドカップが初めて開催されることになっていて、アジアカップはその前哨戦でもあった。3位以内に入れば、ワールドカップの出場権が手に入る。それは、まさしく筏井の長年抱いてきた夢であったし、アジアカップで優勝したことはひとつの目標が達成されたということでもあった。大会前の気持ちを、まずこう語ってくれた。

筏井りさ(フットサル)

「(ワールドカップの)出場権を取らないと、日本の女子フットサルの歴史が始まらないというのが私の中にありました。すごい責任というか、プレッシャーを感じていましたし、そんな状況をイヤだと思う時もあった。ただ、自信を持つためにこれまでいろいろ積み重ねてきたので、最後は自分を信じるしかない、これも人生の一部だから楽しむしかないなと思って、がんばって気持ちを切り替えていった感じでしたね」

準決勝の相手はイラン。日本はそれまで一度も勝ったことがなかった。決勝はタイ。この大会の予選リーグでは負けていた。どちらも、日本にとっては手強い相手であった。

筏井りさ(フットサル)

「準決勝にピークを合わせていたので、そこを乗り越えた時は安心しました。女子フットサルに関わってくれた人たちのためにも、出場権が取れたっていうのはすごい成果を感じましたね。決勝では、私が失点に絡んだところもあって、仲間に助けられた。準優勝でも(ワールドカップは)出場はできるという、自分の中では逃げの部分もあったかもしれません。でも、ここで結果を出せば、日本は侮れないという目で見られるようになる。それは大切なことでした。ただ、課題はすごく残りました。満足感よりは、まだまだという感じ。日本にそういうことを持ち帰れたのは、よかったと思います」

次のチャレンジをしよう。明確に思うことができた。

兄の影響で幼稚園のころからサッカーを始め、小学校の時にはすでに日本代表、ワールドカップを夢見る少女になっていた。高校は女子サッカーの名門・鳳凰高校に進学。2年と3年には全国で3位入賞を果たす。また、U—17の日本代表にもなり、筑波大学に進学するとユニバーシアードの日本女子代表のキャプテンを務めた。着実に夢に向かっているという気持ちはあったであろう。ただ、それは叶わなかった。

筏井りさ(フットサル)

「ユニバーシアードでやっていたころから、代表候補に入っている時期が1、2年あったんです。ただ、大学卒業後にジェフ(ジェフユナイテッド市原・千葉レディース)に入って5年間、ここぞという時に目立った働きができなかった。なかなか中心メンバーに入るような機会もなくて、最後のほうはもう辞めようと思っていたのが正直なところです」

そんな時、浦和レッズレディースへの移籍が決まる。次世代の代表・猶本光、清家貴子、塩越柚歩がいた。攻撃的なサッカースタイルだった筏井は守備的なポジションとなり、若い選手へのパスの供給源にもなった。その献身ぶりと活躍はすばらしかった。ジェフでは発揮できなかった自分の力を、ここぞとばかり見せつけているようでもあった。

筏井りさ(フットサル)

「浦和レッズというチームにいることは、とてもやりがいがあることでした。ただ、これからは世代交代していくと思ったし、やはり日本代表というところへ行けなかったというのは私の実力的なものだったということもわかっていた。とても悔しかったけれど、次のチャレンジをしようってことは明確に思えたんです」

2017—18年、なでしこリーグカップでの準優勝。これが、筏井のサッカーでの最後の経歴だ。この時、彼女は29歳になっていた。

次、行きますって言える年齢じゃない(笑)。

今、筏井は日本サッカー協会のプロジェクト「夢の教室」のスタッフとして働いている。子供たちに夢を持つことの大切さを伝えたり、そのきっかけ作りを手伝ったりする活動で全国を回っている。その傍ら、引退して始めたのがフットサル。やはりボールから離れられなかった。最初は遊び気分。だが、フットサルチーム〈さいたまSAICOLO〉に所属して3年目の20年に得点王になる。

筏井りさ(フットサル)

そのころ女子ワールドカップはなかった。開催が決定したのは22年で、それまではアジアカップが最高峰。日本は18年、つまり筏井がフットサルを始めた年に準優勝していた。だから彼女の目標は、最初はアジアカップ優勝だった。が、ここでも運命は厳しい。右膝前十字靱帯を損傷して半年間の戦線離脱。さらに復帰してすぐにコロナが世界中に蔓延する。

フットサルの日本代表になり、女子フットサルの女王と呼ばれているチーム〈バルドラール浦安ラス・ボニータス〉へも移籍した。ところが、コロナ禍でアジアカップは7年間行われず、ようやく25年再開して日本は優勝。そして、第1回のワールドカップがまもなく始まる。どれだけ待たされたのか。筏井は36歳。ベテランもベテランである。ただ、夢を追い続けてきたことは、彼女が行っている、子供たちに夢を持つことの大切さを伝える活動を体現しているとも言えよう。

筏井りさ(フットサル)

「年齢的に最初で最後のワールドカップだと思います。次、行きますって言える年齢じゃないんで(笑)。だから、最後だなと思って取り組む時に何ができるかって考えています。今回アジアで優勝して少しだけでも知ってもらえたので、日本の女子のフットサルってすごいレベル高いと言われるようになりたい。なでしこジャパンがワールドカップで優勝して、サッカー界で初めて世界のトップを取った。震災の時にああいうドラマチックなことがあって、日本は勇気をもらったと思うんです。あそこまでには絶対になれないけど、いろんな人に知ってもらう機会になればいい。ワールドカップでは結果を出すのが一番です」

そのために、まずはリーグでチームのために貢献することが大事だ。

筏井りさ(フットサル)

「私もまだ(日本代表を)確約されているわけじゃないので、怪我しないこととか、リーグでがんばることが大切になってくる。そして、日頃の練習から世界で戦うということを意識していく。それを仲間と共有しつつ、一日一日が勝負かなと考えています。ただ、気負いすぎてもちょっと疲れちゃうんで(笑)、ワールドカップはやっぱりちょっと楽しみたいと思っているんです」