人類にパルクールは必要か?「カラダが動かなくなるとココロも死ぬ」現代社会とのつながりを考える|パルクールとはなにか⑧

日本パルクール協会会長で「SASUKE」でも活躍する佐藤惇さんに、さまざまな側面からパルクールのことを教えてもらう連載の第8回。前回は一人でも体験できるパルクールの基礎運動を具体的に教えてもらいましたが、今回は「人類にパルクールは必要か?」という問いから始めます。

取材・文/中野慧 撮影/大内カオリ

「崖から落ちそうなとき、自らを引き上げる能力」は必要か?

——前回はパルクールの基礎的な動きについて教えてもらいましたが、今回はあえて「人類にパルクールは必要か?」という問いから始めてみたいと思います。たとえば前回紹介してもらったクライムアップの動きって、普通に生きていくうえでどれぐらい必要なんだろう? と思ってしまうんです。

佐藤惇さん(以下、佐藤):パルクールの思想の根本には、「究極を想定する」ということがあるんです。たとえばクライムアップって、昔の《リポビタンD》のCM「ファイト一発!」(※1)でガケから落ちかけたときに、仲間の助けを借りつつ、自分でもカラダを上に引き上げていく動きに近いわけですよね。

——でも「ファイト一発!」のシチュエーションって、登山をする人であれば想定すべきシチュエーションかもしれないですが、多くの人は登山に行かないですよね。わざわざその状況を想定して鍛えなくてもいい気がするのですが…。

佐藤:いえ、実はああいう状況って僕らの身近にも存在しているんです。たとえば駅ホームからの不慮の転落事故って、毎年3,000件ほど起こっているんですね。ホームドアの設置は都市部を中心に進んでいますが、日本全国での設置率はまだ1割程度です。

誤って線路に落ちてしまったとき、ホームまでの高さは1メートルほどあります。その高さを自分のカラダを引き上げられなければ、助からないですよね。

ホームから転落してしまったときは、まず周囲の人にホームの柱などに設置されている緊急停止ボタンを押してもらう、退避スペースに逃げ込むなどの対応が最善です。でも、周りに人がいなかったり、退避スペースが近くになかったりするケースもある。だから自分で上まで上がれたらそれに越したことはないですよね。

これはひとつの例ですが、日常には一歩先に危険があるシチュエーションって実際には多くあるんです。だけど現代社会では表面的には危険がどんどん排除されていっているので、人々はどこに危険があるのかを体感できにくくなってきていると思うんです。

——ほかに危険と隣り合わせの日常のシーンって、どういうものがあるんでしょう?

佐藤:たとえばエスカレーターもそうです。乗るときは加速するし、降りるときは減速するというスピードの変化があって、自分の動作速度をそれに合わせる必要がありますよね。だからご高齢だったり足がもたつく方は、うまく乗り降りできなかったりします。

エスカレーターの乗降で必要なのは、ひとつは動くモノに合わせて自分の重心を乗せていくこと。もうひとつは、もし転んでしまったときに、大ケガをしないように腕で自分の体重を支えることのできるパワーですね。

線路からホームに上がるのは少し難易度が高くて、エスカレーターの乗り降りはとても難易度が低いけれど、どちらもカラダのさまざまな能力が動員されている。そういったことへの気付きを取り戻すことも大事だと思います。

パルクールのトレーサーがたとえば高いビルの屋上のような「究極のシーン」で自由に動けるようにトレーニングするのも、今言ったような考え方が背景にあるんですね。それに、自分に十分にチカラがあれば、自分だけではなく他の人も助けることができますしね。

※1:大正製薬の栄養ドリンク《リポビタンD》のCMは80年代以降、肉体派の男性2人組タレントが大自然での極限状況に挑むシーンをフィーチャーし、人気を博した。宍戸開とケイン・コスギのコンビが有名。(参考:大正製薬「リポビタン広告の歴史」

カラダは「自分自身が乗りこなすモビリティ」

——お話を伺っていて、たとえば『Tarzan』でさまざまな角度から紹介しているカラダづくりの目的や考え方と、パルクールのそれとでは似ているところもあれば、違うところもけっこうあるなと思いました。前回教えてもらったパルクールの基礎運動で感じたのは、「腕で体重を支えること」が重視されている点です。モンキーウォーク、ツーハンド、クライムアップなどがそうですよね。

佐藤:僕はよく教室などで「自分の体重に責任を持てるようになりましょう」と言っています。ほとんどの人は脚で体重を支えることはできますが、逆立ちのように腕で体重を支えることができる人は少ないですよね。

腕の力がないと、転んだりつまづいて手をつくときに、骨折などの大きなケガにつながってしまいます。だからパルクールでは、腕で体重を支えられる能力を重視するんですね。バランスをやるのも、重心移動の感覚や反応力を高めることで、いざというときの危険回避能力を上げよう、ということなんです。

——なるほど、パルクールはさまざまなシチュエーションでの、ケガの予防や危険回避能力が重視されているわけですね。

佐藤:カラダって、自分自身が乗りこなしているものじゃないですか。同じ乗り物でもクルマって、洗車したり、ガソリンを入れたり、空気圧を確認したり、定期的に車検に出して壊れそうな部品を交換しておいたり、色々メンテナンスしていくなかで長く使えるようになるわけですよね。

カラダも同じで、ちょっとしたことで大きなケガをしないように腕の力とバランス感覚を鍛えておこうとか、仕事などで疲れが溜まりやすいなら回復力をつけようとか、肩こりや腰痛のないように全身の筋力をバランスよくつけようとか、ストレッチして柔軟性をつけようとか、体力を強化・向上させることって、大前提としてやるべきことだと思うんですよね。

——カラダはモビリティ(=移動手段)である、だからきちんとメンテナンスしよう、と。

佐藤:今は公共交通機関はもちろん、エスカレーターやエレベーターなどの補助移動手段が充実して、バリアフリーも進んでいます。移動するにしても、新しい手段として電動キックボードも普及してきていますよね。必要としている人のためにバリアフリーを進めること、電動キックボードのような新しいモビリティを娯楽として楽しむこと自体はいいと思います。

だけど人類の歴史では、狩猟採集民だった時期が圧倒的に長いわけです。水を飲みに行くにも、食料を調達するにしても、つねに自分のカラダを動かすことで移動してきた。でも、いまのように移動手段が充実してきたときに、「自分のカラダを使って移動する」という日常が抜け落ちてしまっているのが都市における現代なのかなと。

——「運動する」「カラダを動かす」っていろんな意味に取れますけど、パルクールではその本質を「移動」であると考えるんですね。

佐藤:そうです。そもそもパルクールを始めたヤマカシたちは、最初この運動のことを「アート・デュ・ディプレイスメント(Art Du Deplacement)=移動の芸術」と呼んでいました。

エクストレインでは、パルクールのコンセプトとして「生道(いどう)」という言葉を使っています。「移動」という意味合いを込めているんです。パルクールは「移動」の動きが基本で、それが人間の生きる道につながっている、ということですね。

フランス・パリでパルクール教室を開催している「ADDアカデミー」のコーチたち。座っている一番手前が、ヤマカシの初期メンバーでもあるヤンさん。写真提供/合同会社SENDAI X TRAIN

「カラダが動かなくなるとココロも死んでいく」

——独特の視点ですけど、なるほどと思います。自分が乗っている乗り物であるカラダのケアをしていない状態で、考え方だけを一生懸命変えようとしたところで、セルフケアなんてできないかもしれないですね。

佐藤:個人的には、「運動する」っていう言葉があること自体、ちょっとおかしいなとは思ってるんです。要は「カラダを強化し続けないと健康的に生きられないよね」という、ごくごく当たり前の前提が抜け落ちてしまっている。そのことを少し別の面から言うと、僕がいちばん意識しているのは「カラダが動かなくなるとココロも死んでいくよね」ということなんです。

——どういうことでしょう?

佐藤:医学でも「心身相関」と言われますが、人間ってココロとカラダがリンクしあいながら生きているわけです。カラダが動いていないままだと、当然ココロの面持ちも悪化していってしまいます。

僕自身、中学時代に進学校に通っていて、勉強についていけなくなり精神的にどんどん疲弊して、学校に行けなくなってしまいました。勉強や仕事のストレスで追い詰められてしまっている人って、頭だけで活動してしまっていると思うんです。

そのときの状態をたとえて言うなら、水が循環せずに、腐って淀んでしまっている池のような状態。そこに水が流れるように、フレッシュでクリーンな状態を作り出す必要があります。それがカラダを動かす=移動させることだと思うんです。

——脳でいろいろ考えるよりも、単純に「カラダを移動させること」が大事であると。

佐藤:脳みそ単体ではストレスの発散なんてほぼできないんですよね。カラダを移動させて、いろんな刺激を脳に送ることで、どんどん活性化していく。淀んでいる池に新しい流れを入れていくのと一緒で、移動することでノイズを入れていくと、それはココロの活性化につながっていく。

「移動しない」ということは、ココロの停滞に繋がり、ココロの停滞がカラダの停滞を生んで、カラダの停滞がまたココロの停滞を生むという負のスパイラルにはまっていってしまう。それをしてしまうと、人は死んでしまう。それに抗うことが、現代では移動=運動することだと思うんです。

——現代の医学研究では、多くの精神疾患の予防・治療に運動が有効であることが証明されつつありますよね。もっとも、精神的に疲弊している人にとって、「運動しよう」と言われるよりも、「少しでもいいから移動することから始めよう」と言われたほうが気楽かもしれない。その発想は、パルクールの根源でもあるわけですね。

佐藤さん自身のInstagramより。等間隔に並んだブロックの上を駆け抜けていく。

考え方のノウハウは溢れているけど、身体経験が圧倒的に足りない。

——テクノロジーで移動が便利になる反面、「カラダを使って移動する」という人類の基本がおろそかになってきていることで起きている問題って、他にもあるのでしょうか?

佐藤:移動しなくてよくなったときに、頭の中のものをアウトプットしていく能力だけにフォーカスが当たって、それ以外のものは重視されなくなっていると思うんです。

頭の中まで力技で考える人のことを「脳筋(「脳みそが筋肉」の意。体育会系の人々を揶揄するときに使われるスラング)」と言ったりしますけど、僕はむしろ現代社会で生きてる人の方がよっぽど「脳筋」なんじゃないかと思ったりします。カラダを動かす原動力になっている筋肉ではなくて、脳がすべてになってしまっている。

——それは、どういうことなんでしょうか?

佐藤:たとえばボルダリングをやってみた人から「あれはなかなか難しいよ」という評判だけを聞いて、「自分にはできないだろうな」と勝手に決めつけてしまったりする。自分の限界値を「わかってる風」で勘違いした状態で物事を進めてしまう。でも、やってみなければ判断材料が揃わないですよね。

パルクールの動きにしても、ツーハンドで柵を飛び越える動きを、「ケガしそう」という見た目だけで「やらない」という選択肢を取ってしまう。

——大人であればあるほど、リスク回避思考に入っていってしまうと。

佐藤:そうです。でも、実際に飛び越えないにしても、柵の上に乘るだけでもいい。そうやって経験情報を得ていくと、パルクールでイメージされがちな「派手な動き」も、だんだんできることがわかってくるんです。

だけど、思考や知識が先行して、動かない選択肢ばかり取っていると、いつまで経っても前に進まないんですね。リスク回避思考に陥りがちな大人こそ、リアルな身体経験が必要だと思うんですね。

——それは、どういうことなんでしょう?

佐藤:何か新しいことをやっていくうえでは、自分が当たり前だと思っている思考から外れたところから考えないといけないはずですよね。たとえば、手すりが目の前にあるときに、それを手すりとして認識しているかぎりは何も新しいことが発生しないけれど、発想次第では滑り台のように滑ることもできる。

でも、どこかで滑ったことがなければそれは思いつかないですし、そもそもやろうとすら思わないですよね。新しい発想に至るためには、脳だけで考えるのではなく、身体経験が大きな要素として重要だと思うんです。

——考えの柔軟性をもたらすために身体経験が重要だと。そういうふうに佐藤さんが考えるようになったきっかけが何かあるわけですか?

佐藤:パルクール教室で子どもたちにカラダの動かし方を教えていると、今の子どもたちは「こういうふうな動きをすればよくて、こういうリスクがある」と論理的に考える能力は非常に高いと感じます。塾などに通って、アタマをすごく鍛えている子が多いからだと思います。

だけど運動になると、跳び箱をうまく跳ぶことができない。せっかくイメージやシミュレーションはしっかりできるのに、身体経験がそれに釣り合っていないんですよね。

——子どもたちに教えている現場で、現代特有の問題が見えてきていると。では次回は「教育」という観点からパルクールのことを考えてみることにしましょう。佐藤さん、引き続き、よろしくお願いします!

(第9回へ続く)