10日以上寝ないとヒトはどうなる?科学的にひも解く眠りと目覚めの不思議【前編】
そもそも「眠り」とはどんな状態を指すのか。意識がない状態? カラダの中では何が起きている? なぜ眠って目覚める? 寝ないとどうなるの? 誰しもが毎日当たり前に繰り返している“眠る”という行為は考えてみれば、謎だらけだ。前編では、そんな眠りと目覚めの不思議について、専門家に科学的に解説してもらった。
取材・文/石飛カノ、鍵和田啓介(映画) イラストレーション/仁太郎、佐藤 薫 取材協力・監修/櫻井 武(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構副機構長)
初出『Tarzan』No.876・2024年3月21日発売
教えてくれた人:櫻井武さん
さくらい・たけし/筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(IIIS)教授。医師、医学博士。1998年、覚醒を制御する神経ペプチド・オレキシンを発見。現在は人工冬眠の研究を手がける。著書に『睡眠の科学』(講談社ブルーバックス)など。
「眠る」と「起きる」は何が違う?
脳が働く場所と作られる物質が異なります
いい気持ちで寝ていたところ、「ねえねえ」とパートナーに揺り起こされる。おしゃべりに適当に返事をして、再び眠りに落ちかける。するとパートナーにまたまた「ねえねえ」と揺り起こされる。幸福そうでもあるシーンだが、なんだか気の毒でもあり。
これ一見、外部からの刺激で目を覚ましているように思える。しかし、厳密に言うとそうではない。覚醒と睡眠のスイッチングは脳の中であらかじめ行われている作業だからだ。
覚醒と睡眠の中枢は脳の異なる場所にある。覚醒の中枢の在り処は脳幹という場所。呼吸や心拍など生きていくために必要な機能を維持し、ドーパミンやセロトニンといった化学物質の総称、モノアミンという神経伝達物質を作り出すところだ。
さらに脳幹ではアセチルコリンという物質も作られていてこれらの化学物質が脳の広範囲に伝えられることで人は覚醒する。パートナーの会話にかろうじて相づちを打てるのはこうしたモノアミンとアセチルコリンで作動する脳の働きのおかげ。
一方、睡眠の中枢の在り処は脳幹の延長にある視床下部の視索前野という場所。ここには眠っているときにだけ作動する神経細胞の回路がある。こちらはGABAという化学物質が作用して働く回路で、覚醒中枢の働きを強力に抑制する。パートナーに生返事をしながら再び眠りに誘われるのはGABAによって睡眠中枢が出張ってくるからなのだ。
脳内にある覚醒中枢と睡眠中枢
モノアミン系およびアセチルコリン系の回路は脳全体に影響を与え、覚醒を促す。一方、GABAが作用する視床下部視索前野は睡眠時にのみ活動する神経細胞があり、睡眠中枢の在り処と考えられている。
睡眠中枢は覚醒中枢を抑え、逆に覚醒中枢は睡眠中枢を抑制するいわばシーソーのような関係。かくて三たび、シーソーが傾きパートナーに揺り起こされる羽目に。
ふたつの回路はシーソーの関係にある
モノアミン/コリン系のシステムとGABA系のシステムはシーソーのように交互に活性化し、定期的な覚醒と睡眠が構成される。シーソーにかかる重みが増した方にカラダは反応し、覚醒と睡眠が訪れる。
ヒトはどれくらい眠らずにいられる?
最長断眠記録は連続11日間、計264時間
生き物はなぜ眠るのか? この問いに対する明確な答えをまだ誰も知らない。答えを導き出すために過去、さまざまな実験が行われてきた。強制的に動物の眠りを断つ「断眠実験」がそのひとつ。
80年代にシカゴ大学の研究グループが行ったラットの断眠実験では、断眠2週間目から毛が抜け、潰瘍ができて、運動性が低下し、体温が下がり、断眠3〜4週間になると感染症によって次々と死亡。最近の中国の実験ではマウスを完全に断眠させたところ、8割が4日で死亡したという。
こうした断眠実験はむろん、人間相手に行うことはできない。ところが1964年、勇気あるアメリカ人高校生、ランディ・ガードナーが断眠実験に挑んだ。それまでのヒトの断眠記録は260時間。この記録を破ろうと企てたのだ。
で、何が起こったか。断眠2日目には怒りっぽくなり、集中力がなくなり、テレビを見ることもままならなくなり、4日目には妄想をきたし、7日目になると震えや言語障害が認められた。
このまま行くと、もしやラットのように命を落としたり重篤な後遺症が残るのでは? という眠りの専門家の予想は外れ、ランディは11日間、トータル264時間という断眠記録を打ち立てた後、連続15時間眠り、1週間後には元の生活に無事戻ることができた。
命に関わるレベルに達する前に人は眠ってしまう。ただし、下の歴史的事故を見れば分かるように、睡眠不足で重大なミスに繫がるリスクは確実に高まる。やはり睡眠はなくてはならないものなのだ。
流行語にもなった「睡眠負債」って何だ?
スリーマイル島の原発事故、スペースシャトルの爆発事故など、睡眠が原因と考えられるヒューマンエラーによって史上最悪の事故が続出した。その後、90年代のアメリカでは睡眠障害が社会的な注目を浴びることになった。
睡眠障害をなくそう! というキャンペーンが張られ、その中で出てきたのが「睡眠負債」という概念だ。慢性的な睡眠不足が知らない間に借金のように積み重なって、簡単には返済できない。週末の寝溜めでは到底解消できない睡眠不足の状態を指す。提唱者はスタンフォード睡眠研究所創設者のウイリアム・C・デメント教授。これ以降、日本でも睡眠障害に対する関心がぐんと高まった。
睡眠障害が原因と考えられる事件・事故
1979年
スリーマイル島原子力発電所事故(アメリカ)
1986年
スペースシャトル「チャレンジャー号」爆発事故(アメリカ)
チェルノブイリ原発事故(当時ソビエト)
1989年
「エクソンバルディーズ号」原油流出事故(アラスカ)
1995年
「スター・プリンセス号」座礁事故(アラスカ)
2003年
山陽新幹線岡山駅ホームはみ出し(日本)
2005年
JR福知山線脱線事故(日本)
2012年
関越道でツアーバスが防音壁に衝突(日本)
どうして朝になると目が覚めるの?
朝目覚めるのは生存確率を上げるためです
脳の中で睡眠と覚醒のシステムが交互に活性化することは分かった。それでは、多くの人はどうして決まって朝に目覚めるのか?
「睡眠と覚醒を制御する因子のひとつは体内時計です」と言うのは睡眠研究のエキスパート、筑波大学の櫻井武先生。
「体内時計は生体に時刻情報を与える計時システムで、ホルモン分泌などの生理機能を何時にどのくらい働かせるかをチューニングしています。地球のリズムは24時間ですけど体内時計は7分くらいの誤差があって、それが朝の光でリセットされ、そこから一日24時間の計時が始まります」
カラダのコンディションをいつどんな感じにしておけば一番生存率が高いか? 長い進化の歴史でヒトはその最適解を模索し、現在に至った。
「人間は昼行性動物ですから昼間覚醒していた方がいい。だから昼間覚醒の出力を高める信号が送られて、夜になると出力を落として睡眠システムを優先させます」
生存戦略のため人は朝目覚める。
体内時計は朝の光で毎日リセットされる
体内時計の中枢は左右の視神経が交差する「視交叉上核」という部位。目の網膜を通して朝の光の情報をキャッチし、地球の自転リズムより若干長い体内時計をリセットする。
覚醒を促す力は一日の中で変動する
朝が近づくと体内時計の覚醒を促す力が大きくなり、昼過ぎから就寝2〜3時間前以降は出力が弱くなる。体内時計は脳幹の覚醒中枢と影響し合って覚醒状態を保っている。