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“スリップインするだけ™”じゃない!《スケッチャーズ スリップ・インズ》快適学。
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鉄道もクルマもない時代の移動手段は「歩く」が基本だった。ならば秀吉や家康、飛脚や参勤交代ではどの程度歩いたのか。作家・歴史エッセイストの堀江宏樹さんが徹底解説!
堀江宏樹さん(ほりえ・ひろき)/1977年生まれ。歴史エッセイスト。データを基に人物の内面に独自のアプローチで迫る作風で人気。『乙女の日本史』(東京書籍)、『本当は怖い世界史』(三笠書房)などヒット多数。近著は『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)。
目次
戦国時代の日本をリードした英傑たち。誰が一番歩いたのだろうか?
「基本的に、大将格の武将はあまり歩きません。身の回りのことは人がやってくれて、逆に歩かないのが彼らのステイタスでもあるんです。そんななかで確実にたくさん歩いたであろう人物は、神君伊賀越えが公式情報として残る徳川家康です」
天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀軍に殺害され、信長の同盟者であった家康は堺から3日間で三河国へ戻ったが、3日目は実に68km移動しているのだ。
「家康は剣の達人で鷹狩りや馬術が趣味。また晩年まで欠かさず水泳の鍛錬を行っており、カラダを動かすのが好きでした。また居城である江戸城はむちゃくちゃ広く、私的空間であるいわゆる大奥から政務を行う表まで移動するだけでも相当長い距離を日常的に歩いていたと思われます。
豊臣秀吉は意外に馬移動が多く、居城である大阪城の規模は江戸城の半分程度。しかしもともと農民出身で、信長に仕え始めた頃は雑兵だったこともあり、その時期にかなり歩いていたはず。生涯では家康以上の歩数になるかもしれません。
ダークホース的存在なのが信長です。彼は足半(あしなか)という、足軽など身分の低い人が履いていた長さが半分程度の草履を愛用し、大名になってからも変えなかったそう。足半では、当時、素早く移動できると考えられた爪先歩きになり、長い距離の移動にも適したので、信長もウォーキング好きだった可能性は高いです」
確実に歩いた記録が残るのは家康で、推定生涯歩数では秀吉といったところだろうか。最後に、常に鍛錬を積んでいた武田信玄は?
「信玄が歩き込んだ記録や、長距離を踏破した伝説は特になく、歩行距離はそれほどでもないでしょう。甲府にあった居館も、江戸城や大阪城に比べると小規模な作りでした」
明治以前の日本に今のような靴は存在しない。
「戦国時代~江戸初期は素足か草履、寒い日に足袋を履く程度。草履は信長も愛用した半分の長さの足半同様、当時は踵をつけない歩き方が主流。急ぐ場合はピョコピョコと爪先で歩くのが良しとされたそうです。
『日欧文化比較』の著者、宣教師ルイス・フロイスは“ヨーロッパでは足の中程しかない履物を履いていたら物笑いになる”“我々は足を全部地につけて歩くが日本では足の半分の履物の上で足先だけで歩く”と記しています」
意外にも、ある時期まで足袋は革製で、濡れ防止用だったという。
「足袋は単皮より転じた言葉で、元は猿の皮で作られていました。桃山時代から紐付きの皮足袋が流行し、木綿の足袋が主流となるのは江戸期明暦の頃。ある程度の身分以上になると足袋の上に履物を履き、その習慣が次第に下層にまで広がっていったそうです」
下駄は雪の日に履くものだった。
「当時の気温は現在よりも5度程度低く、江戸も冬は大雪になる日が多かったそう。30cm程度の積雪ならみんな高い下駄を履いて働きに出ていたみたいです。逞しいですね」
江戸幕府に対する反乱を防ぐべく行われていた、諸大名を一定期間江戸に住まわせる参勤交代。遠方の藩ほど大人数で長い距離を歩いて移動していたのだから頭が下がるが、どの藩がより過酷な移動を強いられたのか。
「南の代表は九州、島津家の薩摩藩です。江戸に近い藩は3泊4日程度で到達できるところ、薩摩藩からは実に1700km超え。片道40~60日かけて江戸まで歩きました。当然、帰りも同じくらいの日数がかかりますから、とんでもない労力と歩数を費やしていますし、道中の宿代や心付けなども含めると、経費は膨大な額になったはずです」
ゆえに、遠方の藩は無駄のない、寄り道の少ないルート選択を迫られたという。また、大名行列というと大人数で優雅に歩くイメージがあるが、それは人の多い街中だけで、山中は早足で移動していたとか。
一方、北端は現在の秋田地方にあった久保田藩である。
「久保田藩から江戸城までは片道約600km。14~15日かかっていました。初代藩主は佐竹義宣という人物で、彼は参勤交代の際、奥州街道の脇道にある薬師寺に立ち寄っては鷹狩りを楽しんだり、温泉から運ばせた湯で湯治をしていたといわれています。大変だったことに変わりはありませんが、ずいぶん気持ちの余裕があったことがわかります」
奥州街道は仙台藩の参勤交代ルートでもあるが、経費節減のために喜連川藩(きつれがわはん・栃木)の宿場町を迂回したとき、怒った喜連川藩の要職者は江戸まで出向き、伊達候に嫌みを言ったという「伝説」も残っている。
1位は飛脚で間違いありません、と堀江さんは断言。
「江戸から京都までは約500km。普通に歩くと2週間ほどかかりますが、飛脚はわずか3~4日で走破しているので、スピードで言えば断トツ。ただ移動するだけじゃなく、荷物も持っていますからスーパーアスリート的な肉体の持ち主が担っていたはずです。
2位以下は断定できませんが、江戸時代に多かった行商人も速かったでしょう。特に棒の両側に桶をぶら下げて魚や野菜、問屋から仕入れた物を売る棒手振(ぼてふり)と呼ばれた人たちは、仕事柄それなりの距離を速く移動していたことは確かです」
厳しい山々で修行し、心身を鍛えていた修験道の行者たちもなかなかの健脚。
「彼らは現代でも1日50km程度踏破するらしく、山道であるのを考えると相当速かったのでは」
御徒(かち)と呼ばれる下級武士もランクイン。
「御徒は騎馬が許されず、江戸では現在の御徒町付近から5km程度の江戸城まで徒歩通勤したり、地方の御徒は大名行列の際、槍を構えて歩く役割を担っていた。武士の中ではかなり脚が鍛えられていたはずです」
誰もが知る俳人・松尾芭蕉だが、それは世を忍ぶ仮の姿で、俳句旅行の真の目的は伊達藩の情報収集だったとの説がある。本当のところは?
「芭蕉スパイ説は、彼が江戸から東北、北陸を経て美濃まで巡った『おくのほそ道』の旅で、初老とされる45歳にもかかわらず1日40~50kmも歩いたのが発祥のひとつです。初老でその身体能力はあり得ない!というわけですね。
でも、江戸時代は一般人でも1日40km程度は気合で歩けていたので、芭蕉の歩行距離はさほど不自然ではない。ただ、旅に同行した河合曾良は芭蕉の死後幕府の役職に就いたことから、彼に関してはスパイ説が拭いきれません」
そもそも、俳諧や俳句を詠む俳諧師は積極的に旅に出かけ、各地を歩いていたという。なかでも芭蕉は根っからの歩き好きだったのだろう。
日本に西洋の文明が入ってきた明治初期。明治5年には新橋~横浜間に鉄道も開通するなど、交通網がどんどん整備されるなかで、人々は江戸時代に比べると次第に歩かなくなっていったのでは、と堀江さん。
「また江戸以前は、同じ側の手と足を動かして歩くナンバ歩きが一般的だったとの説があります。
その方が効率的に歩けて、足腰への負担も少なかったのが大きな理由と考えられますが、それも文明開化とともに淘汰されていった可能性があります」
江戸以前の着衣は浴衣や着物で、現代のように胴をひねって歩くと着物の前がすぐにはだけてしまう。着物や浴衣を着るうえでナンバ歩きは自然なスタイルで、ゆえに歩く距離も延びていったのかも、と分析する。
「当時は女性もよく歩いていました。着物をきちんと着ると内股気味でしずしずとしか歩けませんが、そうなったのは実は歌舞伎の影響。それ以前は女性も着物や浴衣を細帯でざっくりと着て、街中をスタスタと軽快に歩いていたそう。やはり明治以前の庶民は“歩行力”が生きるうえでの大前提だったと推測できます」
取材・文/黒田創 撮影/中島慶子 イラストレーション/石山好宏
初出『Tarzan』No.866・2023年10月5日発売