佐藤拳太郎(陸上)「44秒前半は夢物語ではない」
陸上400mで32年ぶりに日本記録が更新された。幾度もケガに泣かされてきた佐藤拳太郎が求めたのが、無理のない、美しいフォームを作ることだった。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」No.865〈2023年9月21日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/岸本勉
初出『Tarzan』No.865・2023年9月21日発売
Profile
佐藤拳太郎(さとう・けんたろう)/1994年生まれ。埼玉県立豊岡高校で陸上を始め、3年時にインターハイ県大会の200m優勝、400m2位。城西大学2年時にインカレの400m5位入賞。日本学生個人選手権で2位。2015年、アジア選手権の400m3位。今年7月のアジア選手権で45秒00の日本歴代2位。8月の世界陸上で44秒77の日本記録。富士通所属。
32年ぶりに塗り替えた日本記録。
今年8月20日、ハンガリーのブダペストで行われた世界陸上の男子400mの予選。佐藤拳太郎が44秒77という日本記録を樹立した。
1991年、高野進さんが叩き出したトラック種目最古の日本記録44秒78を32年ぶりに塗り替えた。佐藤は惜しくも準決勝敗退となったが、上の写真は記録を出したときの走り。
我々が彼を取材したのは、世界陸上が始まる約1週間前。そのときの佐藤の持ちタイムは45秒00だった。この記録は、今年7月にタイのバンコクで開催されたアジア選手権で出したものだが、それまでの日本歴代2位。
このまま順調に行けば、あの日本記録を抜けるのではと期待を込めての取材だった。それに応えるように佐藤は「日本記録は抜けます」と、はっきり口にした。当然、そうだろうなという思いもあったが、こんなに近々にとは驚かされたわけだ。
400mは距離が長いから、走りながらでも修正できる。
しかし、彼の言葉の一つひとつを聞いていると、間違いなく記録は伸びるという確信を持っているようだった。佐藤は、まずこう話し始めた。
「バンコクではもう日本ではあまり見られない(木材のようなチップを固めて作る)全天候型のトラックで、舗装もいいとは言えない状態でした。
ここで走るのかとびっくりしました。柔らかくて反発力を受けにくい。しかも、湿度が高くて日本がサウナとするならバンコクはミストサウナといった感じで息苦しさも感じました。
湿度があるとカラダを動かしたときに重みを感じるんです。そんな環境の中であの記録が出たので、行けるなと思えるようになったんです」
また、自身の走りに対しての良いところ、悪いところがはっきりとわかるようになってきていた。そして、悪い部分を練習で改善することで、走りのフォームを作り出したのだ。
「400mでは、自分の中でこの区間はこういう動きをしたいというのがあるんです。具体的に言えば、最初の80mは加速に乗る、疲れないように乗れるのが理想。そこから200mまでがトップスピード区間なので速度を維持する。
そして、200mから300mまでが一番大切だと思っているんですが、再び加速する感覚を持って走る。実際にはそこから速くすることは難しいのですが、自分の中では最初のスタート時を再現する感じです。最後の100mはとにかく動きが崩れないように。崩れることはすぐに失速に繫がります。
さらに、私はずっと前傾して走るように意識をしていますが、300m以降はもう一度、骨盤を前傾させてカラダが上に浮かないようにすることに気を付けている。実はバンコクのときにはスタートしてすぐにカラダが浮き気味になってしまった。
400mはスプリント競技でも距離が長いから、走りながら修正していける。いくつかの問題を解決すれば、さらに記録は伸ばせると思います」
「後はオマエに任せた」。その一言で意識が変わった。
中学までは野球。高校ではスポーツをやる気はなかった。ところが、陸上部の友人に“数合わせで名前を貸して”と言われ入部する。そして、陸上部の人数が少なかったから、4×100mリレー、4×400mリレーに駆り出される。
頼まれたら断れない性格なのである。この取材で練習を見学していたときも、後輩に“一緒に走ってもらえますか”と声をかけられ、気軽に応じていたのだ。世界陸上本番直前に、である。
「最初は100mをメインにやっていたのですが、400mリレーの練習をしたときにラップタイムが良くて、高校の顧問から“400mで行こう”と言われました。そもそも400mという種目があることも知らなかったし、やってみるとこんな種目を考えたのは誰だ!というぐらい辛かった。
ただ、練習していくと記録が伸びていくのはうれしかったし、この種目に向いていると言ってくれることはありがたい。それで、ここまで来られたんですね」
高校ではインターハイに出場したものの準決勝敗退。才能がある多くの選手の一人だった。それが、城西大学に入って少しずつ頭角を現す。が、いいところまで来たときにケガをしてしまう。
高校では肺気胸になりインターハイ出場を危ぶまれ、大学2年ではハムストリングスの肉離れで日本インカレや国体を欠場してしまう。大学3年で初の国際大会のアジア選手権の400mで3位に入るが、4×400mリレーは直前に腹痛を起こし、メンバーから外れた。
「このタイミングでケガか!と毎回思うんですが、それでもケガをする原因は絶対あるわけなので、次はこうしたら同じケガはしないということがわかってきた。
また、ケガをしていなかったらここまでカタチにこだわっていたかは疑問。ケガをしないでいかに楽に、きれいに走れるかをこれまで追求してきて、ようやく今年、走りが定まってきたんです」
大学3年のときに日本選手権に初出場する。当時は金丸祐三という怪物がいた。400mを10連覇中であり、決勝で当たった。ラスト30m付近までトップを走ったが、最後は金丸に抜かれて2位。しかし、この経験が佐藤の目を世界へと向けさせた。
「それまでは日本代表になりたいという思いだけでしたが、金丸さんが引退するときに“後はオマエに任せたから”って言ってくれたんです。それを聞いて、金丸さんがやってきたことを、これからは自分がやらなくてはならない。自分が代表を引っ張っていく立場にならなくてはと、ひとつ意識が変わったんです」
44秒前半は夢物語ではない。ロジックがあるし、改善点もある。
さて、前述した通り、世界陸上では準決勝敗退に終わった。やはり44秒77という持ちタイムでは少し足りない。決勝に残るためには44秒前半が大きな目標となってくる。
「準決勝では着順で入って(世界陸上では準決勝2位までが着順で決勝へ。あとはタイム順)、決勝に残るというのが本当に強い選手だと思っているのです。
だから、そういう選手にならなくてはいけない。そのためには44秒前半で走れることが必要になる。これは夢物語ではなく、ここをこうすれば出せるというロジックがあるというか、まだまだ改善点もある。
今、私は富士通に所属しているのですが、指導してもらっているのは、母校・城西大学の千葉佳裕先生と、動作分析をしてもらっている吉本隆哉先生。その先生方は“まだまだ先が見える”とおっしゃってくれた。初めに言ったように骨盤を前傾させて、もうひとつ腕振りも重要になります。
私は腕振りでは引いたところにアクセントを置いているので、背中や体幹のウェイトトレーニングも行っています。上半身がぶれると、前に進む力がロスしてしまうから。改善できる点は直して、次へと進んでいきたい」
来年の7月には、いよいよパリ・オリンピックが始まる。男子400mで観客の度肝を抜いてほしいし、彼ならば必ずやってくれるだろう。
取材に伺った日の練習メニュー
世界陸上を控えて、この日の練習は軽めであった。ストレッチを行った後、自分の走りのカタチを確かめるように何種類かのドリルを行い、その後8割ぐらいの力で80mほどを何本か走った。
本文にもあるように後輩に“一緒に走ってもらえますか”と言われると「いいよ」と即答。世界陸上直前なのに。「人と走ることも重要なんですよ」と、笑う。本当にイイ男なのである。