桑井亜乃(サッカーレフェリー)「オリンピックは私にとって感謝を捧げる場所」
始めて4年でラグビーの五輪代表になり、日本人として初めてのトライを決めた。桑井亜乃は今、レフェリーでも五輪を目指す。実現すれば世界初の快挙だ。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.862〈2023年8月3日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.862・2023年8月3日発売
Profile
桑井亜乃(くわい・あの)/1989年生まれ。172cm、63kg。オリンピックを⽬指し2012年に働きながらラグビーを始める。13年に⽴正⼤学⼤学院に進学。14年に創⽴された⼥⼦7⼈制チーム〈ARUKAS QUEEN KUMAGAYA〉に加⼊。16年、リオデジャネイロ・オリンピックに出場。18年、アジア⼤会で⾦メダル。現在はレフェリーとしてパリ・オリンピックを目指す。
プレーヤーとしてはやり切った。引退しよう
2021年8月8日、東京オリンピックが閉幕した。このとき、ひとつの大きな決断を下した女性がいる。桑井亜乃である。「選手として終わったと思いました」と、彼女は言う。
最初にオリンピックを目指したのが2012年だ。ここから初めて本格的にラグビーに取り組み、たった4年で16年開催のリオデジャネイロ・オリンピックに出場し、日本人として初めてトライも決めた。
ところが、20年の東京オリンピックでは代表から外れた。それでも、ココロは揺れていた。オリンピックがコロナで延期され、代表も再度選ぶこととなった。
この先、ワールドカップも、もしかしたら3年後のパリ・オリンピックへの望みもないわけではない。だが、21年の東京オリンピックが終わったとき、彼女は思ったのだ。「もう、プレーヤーとしてはやり切った。引退しよう」と。
そして今、彼女は新たな道を歩んでいる。それが、ラグビーレフェリーとしての道だ。3年後のパリで笛を吹く。新たな目標ができたのだ。
ただ、それを実現させるには、たった3年しかない。パリは24年開催。今では、残された時間は1年と少し。桑井は笑いながら言う。
「レフェリーを始めたとき、コーチに“オリンピックに行けますか?”って聞いたんです。コーチは無理ではないと言ってくれました。ただ、それは0%ではないということだと思うんです。当たり前ですよね。オリンピックに出られるレフェリーは少ないですから」
東京オリンピックでは、ラグビーのレフェリーは世界から22人が招聘された。この狭き門にたった3年で到達しないとならない。桑井がコーチとして指導を仰いでいるのが大槻卓氏。リオでレフェリーを担当している、日本を代表するベテランだ。これは力強いサポートであろう。
「選手の頃は、レフェリーに文句を言うことが多かった。今は謝りたい。レフェリーの位置によってボールが見えないこともある。やらなければ、レフェリーの気持ちはわからなかった。だから今、選手の気持ちも、レフェリーの気持ちもわかるというのが私の強みだと思ってます。
たとえば、ここはクロスに入ってきそうだなとか、エリア的にキックかなと思って、そのように対処する。選手時代に経験したことで、試合の流れを読むことができるんです」
大学時代に授業でラグビーと出合う
桑井は北海道幕別町の生まれ。同郷にはスピードスケートの髙木菜那さん(引退)、美帆選手の姉妹や、元陸上短距離の福島千里さんがいる。
「人口2万7000人の町なんですけどオリンピアンが5人いるんです。スポーツができる環境は整っていましたね。私も陸上とアイスホッケーをしていましたから。
子供のときは、夏と冬で競技を変えた方がいいと私は思いますね。日本は1つの競技に特化することがよしとされていますが、2競技やっていると応用も利く。
私は夏と冬とで変えたからこそ、レフェリーをやっていてもカラダがそれにマッチできると思っています」
小さい頃から陸上の中長距離、中学3年生からひょんなことがきっかけで投擲種目の砲丸を「齧った」と言う。齧ったぐらいで全道7位だ。高校ではこれが円盤投げへと繫がっていく。国体5位。彼女がいかに瞬発力に優れているかがわかる。
大学は投擲の名門、中京大学。指導してくれたのは、現役時代“アジアの鉄人”と呼ばれた室伏重信さん。元ハンマー投げの室伏広治さん、由佳さん兄妹の父親としても有名な方だ。
「成績も出ず、一人でトレーニングしているときに“一緒にやろうよ”と声をかけてくれたのが室伏広治さんでした。ウェイトトレーニングや“投げるという動作”の基礎を教えていただきました。勉強になったし、オフの時期だったのですがめちゃパンプアップしました」
この大学時代にラグビーと出合う。なんと大学の授業で。やってみて、とんでもなく面白かったと言う。
「タッチラグビーみたいなものだったのですが、ネットはないし、ドリブルもないし、自由に走れて新鮮でした。これ楽しいって思いました」
大学2年のときに7人制ラグビーがオリンピック種目になる。だが、桑井は陸上を続けた。筋を通したのだ。ただ、3、4年の授業は自分でラグビーの授業を履修してはいた。魅力に取り憑かれたのだろう。そして、大学を卒業するときに、地元で学校の先生をやるか、オリンピックを目指すかの岐路に立たされる。
「新しいことに挑戦してオリンピックを目指せることはそうない。それで、その頃の女子ラグビーでは他競技から人を呼んでいることもあって、チャレンジしようと思いました」
なにも闇雲に目標を定めたわけではない。大学の授業を受けたときの先生が“やってみたら”と、何度も声を掛けていたのだ。身長はあるし、走れるし、瞬発的な速さもある。
投擲で鍛えたカラダは、コンタクトスポーツ向きだ。彼女もその意見に乗った。最初の1年は働きながらチームに入り練習した。驚くのは、1年と経たないうちに代表入りをしてしまうのだ。
そして、そのままの勢いでリオへの出場を果たしたのである。
オリンピックは私にとって感謝を捧げる場所
現在、桑井はレフェリーとしての研鑽を重ねている。まず、自分が笛を吹いた試合は必ずレビューする。
「この判定はどうだったとか、イエローカードはきつすぎたかなとか。全部、レビューしてコーチと擦り合わせるんです。ビデオを見ながら、試合の流れはどうだったとかをアドバイスしてもらいます。
レビューして次回の試合に試すという繰り返しが勉強ですし、自分を成長させてくれているんだと思っています」
体力的な面も万全だ。週5日間、埼玉の熊谷市にある所属チームの〈アルカス熊谷〉とともに朝の練習をこなす。
取材に伺った日の練習メニュー
朝は約1時間の練習。実戦的なフォーメーションを含んだ練習が主になる。多分、桑井は誰よりも動き、笛を吹いているだろう。常にボールと選手の位置取りを考えて、先を読んで走り続ける。
水分補給以外はほとんど休みはない。ただ、と桑井は言う。「今はシーズン中なのでボールを使った試合形式が多いですが、オフはほとんど走り込み。こちらの方がメンタルもやられますね」。スゴイ。
もちろん、このときもゲーム形式のときは笛を吹く。終わったら、同じ熊谷にある日本のトップチーム〈埼玉ワイルドナイツ〉の練習に参加させてもらうこともある。
ウェイトトレーニングはジャンプ系だったり、細かい筋肉の可動域を高めたり。高重量で行うより、瞬発力と持久力という相反する力発揮を、うまく織り交ぜられるようになりたいようだ。これもすべてパリのため。
「選手とレフェリーの両方でオリンピックに出た人はまだいません。そうなれたらうれしいですね。最近、なんでそこまでこだわるのと聞かれて、正直わからなかった。ただの憧れでしたから。
でも、行ってみないとわからないんです、あの雰囲気とか空気感。だから、もう一回家族を連れて行きたいし、これまで応援してくれた人に見てもらい恩返しができたらいいと考えているんです。オリンピックは私にとって感謝を捧げる場所なんです。“みんなのおかげでこの舞台に立てました!”って」