山下良美(サッカーレフェリー)「小さな笛ひとつでも誰かの人生を変えてしまうかもしれない」
興味がなかった審判員の道を歩み続け、女性で初めてワールドカップの舞台に立った。果たして山下良美がこの先に考える未来とは…。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.860〈2023年7月6日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.860・2023年7月6日発売
Profile
山下良美(やました・よしみ)/1986年生まれ。165cm、54.4kg、体脂肪率12.2%。2012年に女子1級審判員の資格を取得する。15年、国際サッカー連盟の国際審判員に登録。女子ワールドカップなどに派遣される。19年、1級審判員に認定され、21年にはJリーグ初の女性主審を務める。22年、女性審判員初のプロフェッショナルレフェリーに。同年、ワールドカップで第4審判員として、全6試合を担当した。
W杯は夢ですらなかった。
まさかワールドカップのピッチに女性、しかも日本の女性が立つとは思わなかった。そう切り出すと山下良美は「私もこんな方法があったのかと思いました。想像していなかったし、夢ですらなかった」と笑った。
彼女は昨年行われたサッカーのワールドカップで、女性初の審判員として計6試合をジャッジした。
「もちろん憧れはありましたが、それは見る側としてですね。ただ、実際に行ってみると、たくさんの男性の中に女性がいるという意識はしなくて済んだ。周りの理解も十分感じましたし。
それよりも、ワールドカップのすばらしさって、こういうことなんだということが、フィールドに立ってわかった。足を踏み入れたときは、本当にカラダ中にすべてが伝わってきました。振動や音、温度や選手の気迫など。自分の感覚が鋭くなって、外からの刺激が突き刺さってくるように思ったんです。
ただ、審判員としてやることは他の試合と一緒。選手のスピードとか技術は、もちろん世界最高峰だから違いますが、やるべきことの差は感じなかった。今まで大切にしてきた、一つ一つの事柄に誠実に丁寧に向き合っていく姿勢。これを追求していくことが大事なんだと、改めて思うことができたのはよかったです」
今大会では主審36人、副審69人、ビデオ審判員24人が選出され、そのうち女性は主審と副審が3人ずつ。山下は主審の一人だったが、選出されたからといって、そのまま試合に臨めるわけではない。事前にやらなくてはならないことが多々ある。
「ワールドカップに行った審判員全員が一つのチームになるように、トレーニングや研修をやっていくんです。そして、今回は現地(カタール)に開幕の10日ぐらい前に入って、判定の基準が統一されているか、試合に対応できる体力があるのかなどの確認をしました。
そういう積み重ねがあって、本番へと向かう。世界中から集まってきた審判員は魅力的な人ばかりでしたし、とても貴重な経験ができたと思っています」
審判は楽しくはない。ただ魅力はたくさんある。
大学まではサッカー選手だった。チームは関東大学女子の1部リーグに所属していたから、実力もかなり上のほうだったのだろう。卒業して、どこかアマチュアのチームに入ろうと考えていたときに、ある先輩に審判をやらないかと声をかけられた。
「当初は審判という選択肢はありませんでしたが、フィールドに立てるし、カラダも動かせる。所属チームが決まるまでの活動としてはいいかもしれないと始めたんです。
最初の試合は、開始の笛を吹いて、時間を計って終わりの笛を吹いただけ。でも、この試合が終わったときに、やるからにはちゃんとしなくてはいけないと思った。それで、先輩にいろいろ聞くようになったんです」
笛を吹く大切さを強く感じた出来事もあった。一つのファウルで笛を吹けず、見逃してしまった。そのために、試合が荒れてしまったのだ。
「ファウルをされた側の監督さんが“相手がやったのだから、こっちもやっていいんだ”なんて言って。私のせいで酷いことになってしまった。審判の判定によっては選手の安全を脅かすし、その先の出来事が必ず変わってきます。
試合の流れだけでなく、たとえ小さな笛ひとつでも誰かの人生を変えてしまうかもしれない。だから、審判員はどんな判定の見極めにも全力を注がなくてはいけないし、責任を持つことが必要だと考えるようになりました」
試合ごとにかかってくる重圧。それを受け続けるのだから、これまで審判をして楽しいと思ったことはないと言う。ならば、なぜここまで続けてくることができたのであろう。
「楽しくはないんですけど、魅力はあるんです。審判員は“特等席”ってよく言うんですが、目の前でプレイを見ることができる。だから、最初はサッカーに対して、プレイヤーに近いような魅力を感じていました。
ただ、だんだんそれが変わってきた。審判というのは選手のプレイを予測して動くんです。そのために、試合前には常に対戦する両チームを分析します。ただ、その予測を超えるような凄いプレイに出合うことがある。そんなときに感動します。これは審判員だけが享受できることですね」
さらに、審判員になってサッカーをより深く知ることができた。選手のときは、チームのスタッフやコーチ、それに監督がすべてだった。ところが、審判員になってから、サッカーを一試合するのにどれだけ多くの人が関わっているかがわかった。
「審判員は試合前にフィールドをチェックしますが、そのときにグラウンドキーパーの人たちと一緒に回るんです。そこで、芝の話だったり、そこのグラウンドの風がどのように流れるかなんて、専門的な話を聞くことができる。サッカーをより広い視野で見られるようになりました」
常に向上したいという気持ちで、トレーニングには臨んでいる。
山下は今、Jリーグで主審を務めることができる1級審判員であり、その中でも主審14名と副審4名だけが認められるプロフェッショナルレフェリーでもある。シーズン中は数多くの試合で審判を務める。
一試合で10km以上走り、その中で素早く正しい判断をしなくてはならない。シーズンオフには研修やセミナーがあり、かつ年1回の体力テストが行われる。
1級審判員のテストの内容は、まずインターバル1分で、40mを6秒以内で6本走る。その後75mを15秒以内で走って、25mを18秒で歩くことを40回繰り返す。
計4000mだ。なんという過酷なテスト。だが、これがクリアできないと試合に出られなくなってしまう。つまり、オンオフに関係なく、一年中カラダをベストな状態に保っていないといけないのだ。
「今日(取材をした日)はちょっと特殊な日で、先週の土曜日に試合で、中3日で水曜、そして、中2日おいて明日も試合なんです。続いているので、疲労を残さないように、準備をしなくてはならない。だから、トレーニングはカラダを温めて刺激を入れる程度ですね。
いつも、カラダと相談しながらメニューを決めています。ただ、常に向上したいという気持ちは持っているので、テストと同じことをトレーニングとして行うこともありますね。
あとは、私たちはヨーヨーと呼んでいるんですが、20mの往復走がある。一往復40mを9秒で走って、10秒休んでまた40m。それを30本繰り返すようなトレーニングもします。加えて、瞬発力を高め、ケガを予防するためのウェイトトレーニングといったところです」
審判は目立ってはいけないというのが山下の信条である。しかし、ワールドカップ女性初となったらイヤでも目立つ。「辻褄が合わないですよね」と、本人も苦笑するが、37歳の彼女はこの先の未来をどう考えているのだろう。
「もともと審判員になったのは、日本の女子サッカーに貢献できるかもしれないと考えたからです。その想いはずっとあるのですが、今は自分がもらっている機会を継続することが重要だと考えています。
そのためには一試合一試合にすべてを注入することが大事。そして、それができていければ、さらにいろんな可能性が広がっていくのではないかと、今は思っているんですよ」
練習メニュー
まずは股関節まわりを中心として入念にストレッチ。その後、軽いジョギングや短距離のドリル、体幹トレやアニマルムーブを入れて、効率よく走れるカラダを作っている印象だ。
さらに、本文で紹介したヨーヨーや、最後には試合の流れをイメージしながら、実際にジャッジをするときのようにイメージトレも。取材時は連戦の最中だったが疲れを感じさせることなく、「思ったよりカラダが動きました」と笑顔を見せた。