秦澄美鈴(陸上)「一本引っかかれば記録になる」
走高跳でもうすぐ日本一になれるという位置にいた。しかし、秦澄美鈴は走幅跳に転向することを決意する。そして今、その視線は海外へと向けられているのだ。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.857〈2023年5月25日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中村博之
初出『Tarzan』No.857・2023年5月25日発売
Profile
秦澄美鈴(はた・すみれ)/1996年生まれ。169cm、52kg、体脂肪率11%。大阪府立山本高校で陸上を始める。3年時にはインターハイの女子走高跳で9位。武庫川女子大学の1年時には1m82cmを記録。大学3年より本格的に走幅跳を始め、4年ではインカレで優勝。翌年、全日本選手権で優勝。2022年、世界陸上に出場。2023年5月の静岡国際で6m75cmをマーク。
2022年、日本人としては6大会ぶりに世界陸上に出場。
昨年、アメリカのオレゴンで行われた世界陸上に出場したのが、秦澄美鈴である。種目は女子走幅跳。日本人としては6大会、13年ぶりであった。
今、日本の中では、ほぼ負け知らず。日本歴代4位6m75cmの記録を持つ彼女だが、初めての大きな国際大会では、残念ながら実力が発揮できず20位という結果に終わってしまった。秦は大会について、こう振り返る。
「ずっと夢だったんですが、実際、出てみると自分の覚悟の甘さを感じました。世界は違うなと思ったし、自分の弱さを突き付けられました。ずっとテレビやSNSで見て憧れ続けた選手たちが、すぐ近くにいるし、トップレベルの跳躍を目の前で見るのも初めてだった。圧倒されましたね。自分もその試合の中にいるんですが、一人だけ取り残されているような感じ。それで終わりましたね」
しかし、秦の強さの一面が窺える話がある。彼女の初めての世界陸上は、標準記録ではなく、世界ランキングで滑り込んでの出場。だから、秦自身も最初は出場できることで満足していたという。
ところが、大会に向かうなかで、予選突破、決勝進出という気持ちが湧き上がってくる。そして、その気持ちが「自分の軸を揺らしてしまって、高い理想のために本来できたことができなくなった」と語るのだ。
つまり、より高みへと進もうとする意志がとても強いということ。今回は裏目に出たのだが、彼女がこの先に歩みを続けるとき、これは大きな力になるだろう。
また、今年に入って貴重な体験をしている。
ひとつが、オーストラリアで起きた。練習していた競技場のピットが柔らかすぎてフォームを崩してしまう。秦は力で強引に跳ぶタイプではなく、走りのリズムを作り、地面からの反力を上手く利用して跳ぶ選手。だから、彼女の調子がいいときのフォームは、とても滑らかで美しい。しかし、柔らかいピットでは、反力を得られず、リズムも乱れてしまったのだ。
もうひとつは2月のタイでの出来事。招待選手として大会に参加した。冬の日本と違い、暖かいタイなら練習環境もいいだろうという理由からだ。ところがその試合には観光、食事などのツアーが含まれていた。他の参加選手が練習したいと申し出ると、もちろん場所を確保してくれるが、「コンクリートとかそんな場所」。食事も合わず、最悪の体調での試合となった。
「日本は恵まれているけど、こういう試合も海外に行けばあることだと思いました。ただ、タイではどんな状態でも6m50cmを跳びたかった。それが6m47cmに終わってしまって、ウーンと思いつつ帰ってきました」
ただ、外国の選手と交流を深めることで自身の成長を感じたし、これまでは海外に行くのは不安だったが、今はそのハードルが下がった。この経験は、必ずプラスになるはずだ。
走幅跳を勧められたが、どうしても走高跳がやりたかった。
幼い頃から足が速いことは自覚していた。ただ、中学校には陸上部はなかった。バスケットボール部に入部する。陸上は高校スタートだった。
「バスケットでの跳躍とかで、ジャンプするときのタイミングの取り方とか、(地面からの)反発のもらい方とかが自然にできていたんです。で、高校の顧問の先生に幅跳を勧められたのですが、どうしても走高跳をやりたいって言ったんです」
その理由が小栗旬。テレビドラマでハイジャンパーの役をやっていたのだ。
「小栗旬になりたい」と、思った。凄いのは高校2年で始めてたった1年、3年のインターハイで9位になった。そして、翌年進学した武庫川女子大学の1年のときに、その年の国内ランキング2位の記録、1m82cmをマークするのだ。
このまま順調にいけば、日本一へのチャンスも大きく開けていくはずだった。ところが、大学3年のころから並行して走幅跳を行うようになる。
卒業後は走幅跳一本にするつもりだった。そして、新しい練習環境を模索していたときに、多くのジャンパーを育成してきた太成学院大高校の元監督・坂井裕司氏と出会うのである。
「大学4年のときに高跳が伸び悩んでいて、それだけに幅跳の練習のほうが楽しかった。でも、高跳は高校から続けてきたから愛着はあるし、記録的にも日本人の上位に入っていた。だから、すごく悩みましたね。
ただ、高跳に関しては、情はあるけど、喜びを見いだせなかった。高跳はバーがあって、どれだけ高く跳んでもバーの高さが記録。だけど、幅跳は一本嵌まってしまえば、それが記録になる。私は自分を乗せるのがわりと得意なんですが、乗ったときに結果がバッと表れてくれるのが幅跳だったんです。自分には一番合っていると思いました」
大学を卒業してゴムメーカーのシバタ工業に所属して、走幅跳に特化して練習を始める。そして、その年の6月には、早くも日本選手権で優勝を果たす。強さは際立っていた。
下半身のトレーニングで、先に体幹が疲れてしまう。
なぜ、秦はここまでの成長ができたのだろう。実はこれまでの運動経験がよかったと彼女は思っている。
「小さいころから、水泳だったり、バスケ、短距離、幅跳、高跳、三段跳もやりました。いろんな動きを経験できたのは大きい。今でも、調子のいいときには自分のイメージした動きを、そのまま再現できるときもあります。
脚の上げ方や、膝の角度とか。ただ、(助走の)スピードを上げていくと、踏み切りのタイミングも変わってくる。その擦り合わせに1年前ぐらいは苦労しました。今はかなりよくなりましたけど」
身体的にも特徴がある。秦はスクワットなら100kg、デッドリフトなら90kgを楽々上げられる。ただ、上半身は一目見ると華奢なのだ。
「腕の筋肉はバランスを取る程度には必要だと思っています。それより、腕を引くための背中の筋肉や体幹が大事。下半身のトレーニングをしていると、脚は平気なのに体幹が疲れてくる。体幹で支えにくくなる。
だから、ここが強くなっていけば上体がブレることなく大きな推進力が得られると思うし、今ある脚の強さを一層生かせると思うんです」
体幹が強ければ、地面からの反力もより大きくなる。スーパーボールが軟式テニスボールより高く弾むことでもそれがわかる。縦方向に“つぶれない”ことが重要なのだ。つぶれると力は吸収される。
現在、女子走幅跳の日本記録は池田(現・井村)久美子の持つ6m86cm。約17年間、誰にも越えられていない記録だ。
「もう抜けると思っています。去年ぐらいから6m80cmは越えられる感覚があったけれど、ファールを連発したりとか、“もうちょっと風が吹いてくれないかな”とか、ひとつコンディション頼りのところがあった。でも、今はそれに頼らずに日本記録が出せると考えています。
そして、まず今年は世界陸上での決勝進出が目標となります。ここから始めて、順調にケガをすることなくトレーニングを積んでいくことで、パリ・オリンピックではメダル争いに食い込みたい。
オリンピックのメダルとなると7m近くの争いになるのですが、その距離を視野に入れて取り組んでいるので、楽しみのほうが大きい。一度6m80cm台が出れば自信がつくし、自分の性格的にも乗っていけると思う。
一本引っかかれば記録になる。やっぱり、それが幅跳の面白いところであるし魅力なんですよね」
取材に伺った日の練習メニュー
練習は多岐にわたる。片側の自分が一番力を出せるポジションに体重を乗せるように、一歩一歩踏み出したり、ミニハードルを使っての細かなステップ。さらには、上体を前傾させてのラン。
凄かったのが、ミニハードルの間隔を徐々に広げて、加速しながらストライドを維持して踏み切る練習だ。冒頭の写真はそのときの一枚。美しいフォームだ。「今日は調子よかったですね」と、笑った。