水沼尚輝(競泳)「今はまず50秒台で泳げるようになりたい」
記録なんてどうでもいいとずっと思っていた。そんな水沼尚輝が世界選手権の表彰台に立った。彼はこの先どこまで速くなっていくのだろう。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.859〈2023年6月22日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.859・2023年6月22日発売
Profile
水沼尚輝(ぬずむま・なおき)/1996年生まれ。181cm、85kg、体脂肪率14%。小学校1年で水泳を始める。作新学院高校から新潟医療福祉大学へ。2018年に日本学生選手権100mバタフライで優勝。翌年、日本選手権で優勝。同年世界選手権初出場。21年、東京オリンピックでは10位。22年、世界選手権で50秒81の日本記録、日本人初のメダルとなる銀メダルを獲得。
100mと200mはまったく別物。
昨年6月に行われた世界水泳選手権の男子100mバタフライで銀メダルを獲得したのが水沼尚輝である。これまで、日本人がこの種目でメダルに輝いたことはなかった。一方、これが200mとなると、世界と十分に戦える選手が、これまで幾人も出てきている。近々では、東京オリンピックで2位に入った本多灯がいる。2つの競技の違いは、もちろん距離の違いだ。
だが、それほどまでに異なった種目なのであろうか? そして、なぜ水沼は世界と戦えるまでに至ったか。まずは聞いてみた。
「そもそも、100mと200mはまったく別物だと捉えられています。以前、僕も大学生のときに200mに出たことがあったのですが、使う筋肉や泳ぎ方が違うと思いました。100mでも、前半の50mで飛ばす選手もいれば、僕のように後半で勝負するタイプもいる。
それが200mになると50mをひとつの区切りとして、4回あるわけです。僕の場合はこの4回というのがまったくうまく嵌まらなかった。ただ、200mバタフライは先輩たちがたくさん獲ってきた種目なので、日本人の体形や性格に合っているのだと思う。4回の駆け引きができるということも含めてですね。
しかし、僕は選手としては遅咲きで、100m一本に絞って競技を続けてきたので、この種目では譲れない部分がある。日本のトップに立っていたいし、世界とも戦っていきたいんです」
その言葉を示した出来事がある。それが、今年福岡で開催される世界選手権の選考会を兼ねて4月に行われた日本選手権である。標準記録を突破して2位までに入れば、代表入りが決まる。
ただ、前年の11月に水沼は太腿裏のストレッチをしている最中に、腰を痛めてしまう。医者の診断は椎間板ヘルニア。「加齢から来るごく軽いものですが」と、彼は笑うのだが、冗談ではない。
選手は万全な状態で練習を続け、肉体、精神ともに大会にピークを合わせていくのである。少しでも不安を抱えてしまえば、計画は崩れてしまう。
「11月ぐらいから徐々に練習は再開できたのですが思うようにはいかなかったし、大会のときにもベストからは程遠い状態でした。ただ、初日に50mバタフライがあって、自己ベストで2位に入った。そのとき、スピード感が戻ったと思ったし、変な力みもなかった。
その感じで100mも行ければいいなと思って。それで2位という結果で代表権もつかめた。でも、これまでの代表選考会はすべて完璧な状態で挑んでいたので、今回ココロもカラダも完璧でなかったことに、不安だったり、揺らぐものがあった。
今、振り返るとこの経験もよかったと思う。本調子でないときに自分の本性が表れるし、そのときの自分の考え方とか行動とかを、客観的に見られたことが楽しかった。この先、これが生かされるときは必ず来ると思っています」
ただ格好よく泳ぎたかった小学校時代。
生まれ育ったのは栃木県真岡市。人口8万人弱の小さな地方都市である。電車は単線で「1時間に1本ぐらい」と、水沼は語る。ここにある〈フィールドビックスイミングスクール〉で小学校1年から水泳を始める。
じつは、今回の撮影が行われたのもこのプール。25m×5コースで水深は1.05mだ。水沼が両腕を広げるとコースロープに届きそうだし、ターンをするにも底が近い。だが、水沼は実家に戻ったときは、このプールで練習する。まるで、自分の原点を確認しているようでもある。
ただし、ここへ通っていたころは選手になるとは思ってもいなかった。
「水の中に入っているのが気持ちよかったし、カラダを自由に動かせるのが楽しかった。家にあった池に入って、鯉と一緒に泳いで“魚いいなぁ~”なんて思ったりして。だから、親はそれを見かねて1年生のときにスクールに通わせたんだと思います。
でも、スクールって級があるじゃないですか。水面に顔をつけられたら何級なんていう。アレが嫌で、クロールや平泳ぎができるようになったとき、そこで初めて自分を表現できるスポーツだなと感じて、そこから水泳が好きになったという記憶があります」
しかし、記録には一切こだわっていなかった。速くなりたいと思ったこともなかった。普通はそれが目標になり、向上心の根にもなる。負ければ悔しい、それだから努力もできる。では何が目標だったか。
「ジュニア・オリンピックとか全国大会とかも興味がありませんでした。自分がこういうふうに泳ぎたいという理想があって、毎日それを試す感じです。シンプルに水と触れ合って、格好いい泳ぎができるようになりたかった。学校で水泳の時間に“尚ちゃん、かっこいい!”なんて言われて、毎年夏が楽しみになったりして。ただそれだけだったです」
中学、高校と進むうちに、もうひとつの目標ができる。それが、いいカラダだ。それを作るために苦しい練習に耐えた。すべてが見た目である。
そもそも、将来の夢は消防士。スクールのちょっと先に消防署があり、その訓練も見ていたのだろう。人を助けるために体力をつけたいという強い思いもあったようだ。ところが、高校3年のときに、人生がガラリと変わる出来事が起きる。
「インターハイに出場するときに先生に“バタフライが、一番可能性がある”って言われたんです。そのころ、クロールと背泳ぎばかりで、バタフライはほとんど泳いでいなかったけど、決勝に残れるならと挑戦した。その結果が、自己ベストで9位だった。そこから、バタフライの可能性みたいなものを感じて、大学でも続けようと思ったんです」
ジュニアの子供たちのために、人間性も高めていきたい。
新潟医療福祉大学に入学する。しかし、バタフライの可能性を見出したけれど、まだ考えは甘かった。
それを正してくれたのが大学の下山好充監督だった。1年の冬の大会で水沼が手を抜いたような泳ぎをした。すると監督に「子供たちの夢を壊した」と、怒られてしまったのだ。
「“大学で水泳をやるのは、それなりのレベルの人だけだし、そういう人をジュニアの選手は見ている。そんなときに流したような泳ぎをしたら子供たちはどう思う”と言われて、自分がいつの間にかそういう存在になっていると気づいたし、結果を残したいとはっきり思ったんです」
記録を追う。さらに人間的にも高みを目指す。子供たちの目標になる。そんな思いが芽生えた。インタビューで真摯に語ってくれる姿を見るとそのことがわかる。
そして、真剣に過酷な練習を続けた結果は、8年間、毎年自己ベストを更新して、50秒81という日本記録の樹立に繫がっている。今年は福岡で世界選手権があり、来年はパリ・オリンピック。世界と対等に戦う力をつけた唯一の日本人は、この先をどう考えるのか。
「最終的な目標はアジア記録の50秒39ですね。ただ、今のポテンシャルだと難しいと思う。メンタルの部分かもしれないけど、それを克服するには日々のトレーニングしかない。そのなかで50秒3という泳ぎの感覚を見つけたい。理想はパリでアジア記録ですが、それを今考えるとキツくなってしまう部分がある。今は50秒台で泳ぐテクニックと体力を取り戻すことが重要ですね。
具体的に言えば福岡。ここで50秒台で泳ぐことができれば、コンディションもどんどんよくなっていくと思う。だから、今は世界選手権でどんな泳ぎをするか考えているところです」
取材に伺った日の練習メニュー
まず驚かされたのは、水沼がドライと呼ぶ陸上でのストレッチやトレーニングを1時間近くも続けること。「自分の泳ぎは体幹重視なので、そこを落とさないために日々やっています」。
大学に入ってルーティンにするようになって力をつけてきたから、8年間、内容は多少変わるが続けてきた。そして、リラックスしながら約1時間の泳ぎ。これからシーズンインするとともに練習量は増える。