岡山春紀(陸上)「100km行けるんじゃないか」
幼いころから走り続けてきた。しかし、努力はなかなか報われなかった。岡山春紀が輝く舞台は100kmという長距離だったのだ。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.853〈2023年3月23日発売〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
初出『Tarzan』No.853・2023年3月23日発売
Profile
岡山春紀(おかやま・はるき)/1994年生まれ。171cm、57kg、体脂肪率6%。2015年、『佐渡トキマラソン』で初マラソン初優勝すると、これまでフルマラソンに37回出場し、10回の優勝を誇る。2022年、『柴又100km』第10回記念大会で初の100kmに挑戦。大会新で優勝して世界選手権代表に。同年、『IAU100km世界選手権』で優勝。コモディイイダ所属。
走ることに片思いし続けた。
「走るのが好きなんですよ」。開口一番、笑顔でそう語ったのが岡山春紀である。昨年8月、彼はドイツのベルリンで開催されたIAU100km世界選手権で優勝した。
そのタイムは6時間12分10秒。この記録は世界歴代3位に当たる。こんな比較をされるのは岡山にとっては失礼かもしれないが、市民ランナーの憧れであるフルマラソンのサブ3(3時間切り)を2回分以上、一度で走ったことになる。
レースを振り返ってもらった。
「イスタンブール経由でベルリンまで17時間。飛行機のトイレの開け方がわからなくて一回も行けませんでした。恥ずかしくて聞けなかったんです(笑)。3日前に現地に入って、毎日15kmぐらいを走って本番に臨みました。緊張はしていたんですが、前半は余裕を持って行こうかなと考えていましたね。
日本のレースで100kmを走って、そこで優勝して世界選手権の代表に選ばれたので、100kmを走ったのは2回目。“すごい距離だ”って言う人もいるんですが、淡々と走っていれば、あっという間に半分ぐらいは過ぎてしまいますよ。
自分としては70km以降が勝負だと考えていて、そこまでいかに余力を残しておくかが大事でした。77kmでトップに立てたのでそこは計画通り。ただ、こんな速いタイムで走れるとは思っていなかったので、驚きましたね」
本当に走るのが好きでしょうがないのである。
妻と旅行の計画を立て、いよいよ出発という直前に、練習でフルマラソンの距離を走ってしまい「何をやってるの!」と呆れられたこともある。そもそも2週間に1回はフルマラソンの距離を走り、それ以外にも走り、社会人チームの〈コモディイイダ〉の練習でも走る。
だが、これまでは努力が報われることはなかった。フルマラソンで優勝はするが、タイムは競技者としては凡庸だった。走ることに片思いし続けた彼は、やっと100kmという自分が輝ける距離を見つけ出したのだ。
高校時代の厳しさでタフな心が身についた。
市民ランナーだった父親と毎日一緒に走るようになったのは保育園のころ。そのころから3km弱を走っていたという。
「運動会で1位になったりすると楽しくて」、どんどん走るようになる。中学校では5kmのレースで15分台を出して地元・熊本の名門校へ特待生として入学する。ここまでは順風満帆だ。
しかし、どんどん運命の歯車が狂い始める。
「高校に入ってケガが多くなったんです。いつも同じ太腿の内側が痛む。大会でいい記録が出たと思ったら、次の日に痛み始める。それで、よく陸上部の先生に怒られていました。部員は全員、先生の家に住むのですが、生活はとても厳しかった。
僕は太りやすい体質だったので、夜は炭水化物抜きのときもあったし、おかずは基本的に鶏のささみ。それに野菜などです。栄養学的には良かったのでしょうが、自分では痩せすぎだと思っていました。それで、朝と夕方にはハードな練習がありましたから、毎日が本当に大変でした」
十数人の部員がいたが、最後までこの生活を続けたのは岡山ともう1人の2人だけであった。あとはみんな厳しさに耐えられず、自宅から通うようになった。ただ、この生活を最後まで全うできたのは大きかった。
「あのときのことを思えば何でもできる」というタフさが身についたのである。しかし、高校での記録は残せなかった。
当然、どの大学からの誘いもない。一般推薦で東京農業大学に進学する。東農大といえば、駅伝の強豪校である。入学すれば陸上部への入部も叶うと思ったのだ。
「大学2年のときに仮入部が許されたものの、部員になるためには5000mで15分を切ることが条件でした。他の部員たちと一緒に練習をするのですが、またケガをしてしまってクリアできなかったんです」
何度挫折しても走ることをやめなかった。
そんなときに出合ったのがプロランナーとして活躍する川内優輝の本だった。彼はもともと公務員ランナーとして広く知られた選手である。
「ずっと凄いと思っていた選手でした。その本を読んだら、彼は朝と夕の2回練習ではなく1回だけの練習をしていたんです。僕はこれまで、朝12kmぐらいを走って、午後にも同じ距離を走るか、インターバルやポイント練習をやっていた。
それを川内さんのやり方に変えた。走る距離を長めにして1日1回。こうすることでより練習に集中できるようになったし、ケガも再発しなくなりました」
東農大での駅伝の夢は絶たれたが、それならマラソンがあると考えた。同世代の選手が駅伝をやっているこのときに、マラソンに集中すればアドバンテージになるだろう、と。あくまでポジティブシンキング。
そして、実際にどんどんレースに出場するようになり、何度も優勝を果たす。ただ、記録的には2時間20分辺り。市民ランナーとしてはピカイチだが、このタイムで実業団は難しい。九州にある実業団チームをいくつも回ったが、入部させてくれるところは皆無。
そんなときに出合ったのが、スーパーマーケットを展開する〈コモディイイダ〉という会社だった。実業団駅伝でも力をつけてきた駅伝部がある。
「選手だけでなく、一般部員も大歓迎みたいな感じで、誰でも練習に参加できるということでした。それならここにしようと一般社員として入社したんです。ただ、社員ですからスーパーの業務が1日8時間ある。だから、実際には駅伝部の練習には年に数回しか参加できなかった。一人で練習することが多かったです」
体幹のトレーニングでストライドが伸びた。
駅伝部と練習できなければ意味がない。だったら、コモディイイダを離れ、川内さんと同じように普通の会社員になって一人で練習しようと思い始めた。
だが、ここで運命が大きく変わる。愛媛マラソンで2時間14分53秒というタイムで優勝するのだ。このタイムは競技者としてもかなりいい線を行っている。そして、この記録によって、常に駅伝部の練習に参加できる資格を得たのだ。
というより、ここでコモディイイダとの関係が切れなかったというのが、非常に重要だった。
駅伝部の会沢陽之介監督は、自身が1997年にIAUワールドチャレンジオランダ大会の日本代表として100kmを走っている。練習で監督と交わるなかで、「100km行けるんじゃないか」という話が出るようになった。
岡山自身もいつかは100kmに挑戦しようと思ってはいたが、これが大きな後押しになったに違いない。そして、日の当たる場所に出た。
「4か月ぐらい前からトレーナーの人についてもらって、体幹を中心としたトレーニングをやるようになりました。メチャクチャ変わりましたね。ストライド(歩幅)がこれまで167cmぐらいだったのが、171cmになった。そのうえ使えていなかった筋肉が使えるようになった感覚も生まれた。
今年は5月に柴又で100kmのレースがあるので、まずそこで世界記録(6時間9分14秒)を抜きたい。それから、50kmの世界選手権もあるので、それも獲りたい。
ただ、フルマラソンをあきらめたわけではありません。
小学生のときに、シドニーで高橋尚子さんが金メダルを獲ったのを見てから、ずっとオリンピックに出場して金メダルを獲ることが夢だった。可能性がある限り、それも狙っていきたいんです」
監督から「大会に出すぎるな」と注意を受けるほど、走りまくっている岡山。この先の活躍に期待したい。
取材に伺った日の練習メニュー
この日の練習は、まずアップは1km4分のペースで4kmを走る。次に2000mを1km3分ちょっとのペースで。最後に1km6分のペース、20分のジョグでクールダウン。
金曜日の練習を見学したが、軽めなのには理由があり、「日曜日に玉名いだてんマラソンに出場する」のだと言う。この大会では見事優勝する(2月26日開催)。そして、3月5日の東京マラソンにも出場。監督に「大会に出すぎるな」と注意されるのも頷ける。