高校在学中にBリーグを経験した河村勇輝が、浮足立たずに考えるバスケットボールの将来
高校在学中に日本最高峰のBリーグでプレイし、プロ選手と対等に戦えることを見事証明した。浮足立たない若者の考える将来とは。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.787〈2020年5月14日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.787・2020年5月14日発売
プロを経験することで、大きな収穫を得た。
今年1月、福岡第一高校の河村勇輝は特別指定選手として、Bリーグの三遠ネオフェニックスに入団することが決まった。
特別指定選手とは、16歳から22歳までの、全日本大学バスケットボール連盟および全国高等学校連盟のいずれかに加盟する選手が対象となる制度。選手の実力に合わせ、プロのBリーグ(B1とB2がある)か、プロ・アマ混成のB3リーグの公式戦で、3か月の期限付きでプレイできる。
河村は高校バスケ最大の大会、ウインターカップで母校を2連覇に導いた立役者で、その実力はファンの間では広く知られる存在だった。まず彼は、入団の経緯をこう語った。
「ウインターカップが12月末まであって、その後は東海大学に進学することが決まりました。大学の練習が始まるのが4月なので、その間が休憩時間になる。普通は家族で過ごすとか、そういう時間に充てるのですが、自分はバスケットをしたいという気持ちが強かったんです。そのとき、ちょうど三遠ネオフェニックスさんから声を掛けてもらった。バスケットを途切れずに続けたかったし、今の実力がプロでどこまで通用するかを試してみたい。それでプレイさせてもらうことにしたんです」
それにしても、高校卒業前の選手が日本最高峰リーグに挑戦することには、多くの人が驚いた。そして、プロを体験しておくのも、将来のためにはいい、というぐらいの認識でいたはずだ。
ところが、河村は強豪千葉ジェッツふなばしとのデビュー戦で8得点を挙げ、2戦目では21得点、そして3戦目の新潟アルビレックスBB戦では先発出場し、24得点というチーム最高得点を叩き出した。高校生がプロと対等以上の活躍をしたのである。
だが、彼にとって、これは驚きではなかったようだ。
「高校2年生、3年生のときに天皇杯に出場して、プロのチームとやった経験がありました。僕と同じポジションで尊敬する富樫勇樹選手とも戦うことができた。そこで、ある程度はBリーグの技術的なことや、フィジカル的なことを感じることはできていたんですね。だから、実際にプロとやったときにも、想像していた通りだった。気持ち的にも気負いもなくスッと入っていけました」
河村のポジションはポイントガード。チームの司令塔であり、他選手を操ると同時に、自分からも仕掛けなくてはならない難しいポジションである。とくに、高校生がプロに指示を出すというのは、普通はなかなかできることではない。しかし、河村はそれもすんなりやってのけた。
「もちろん、最初はなかなか言えない部分もありました。でも、先輩たちが優しくて“どんどん指示していい”って、言ってくれた。それと、高校では1年のときから試合に出場させてもらっていたのですが、井手口(孝)監督からはコート内では先輩も後輩も関係なく、しっかりとやることが大事、と教えてもらっていて、その経験も生きたと思います」
ただ、プロを経験することでひとつ、大きな収穫があった。それが、バスケットボールとの向き合い方である。河村は1月に特別指定選手として参加し、3月いっぱいはプレイする予定だった。
しかし3月17日、新型コロナウイルスの影響を受け、4月までの試合は中止が決定。この期間内で試合がなくなってしまったが、その短い間に彼のココロの中には、プロのすごさがきっちりと刻み込まれたのである。
「精神的な部分は高校生とはまったく違いますね。プロの選手はファンの人がいての自分たちだということをしっかり思っていて、周りの人たちに向けてバスケットをしようという気持ちが強い。高校のときは直接関係している監督とかチームメイトとか保護者とか、その人たちのためにもがんばる。でも、プロは自分が入団するずっと前から応援してくれている人もいるし、自分のプレイを見て好きになったと言ってくれる人もいる。間接的にというか、顔がわからない人が大勢応援してくれるんです。もちろん、高校のときも一生懸命プレイしたのですが、プロでやってみて、それ以上にコート内外での振る舞いは徹底しなければと思いました。バスケットを知らない人も見ているし、小さな子供たちも声援をくれますし。バスケットにいい印象を持ってもらうために、自分が手本にならなくてはと意識するようになりました」
トリッキーなパスが好き。真似ばかりしていた。
小学校1年のときに庭にあるバスケットリングにボールを投げ込んでいた少年は、2年のときに地域のクラブチームに入る。「動き回るのが好きだったから、とにかく楽しかった」ようだ。
そして、その頃から彼のヒーローは日本を代表するポイントガード・田臥勇太に。父が持っていた田臥のプレイする映像に夢中になり、「子守唄代わりに見ていた」らしい。今でも彼は田臥のことを変わらずに尊敬しており、先日は自らが望んで、対談も実現している。
「トリッキーなパスが好きでした。ずっと真似ばかりしてましたね。だから、似ていると言うと田臥さんに失礼なんですが、同じようなスタイルになっていったと思っているんです。先日対談で初めて会ったのですが、こっちはずっと見てきているので、何となくどういう人かはわかっていた。実際に会ったら、思った通りに気さくで優しい方でした。やっぱり、ひとつひとつの言葉に説得力があるし、NBAであったり、いろんな道を切り開いてきた選手なので話を聞いていてすごく響くものがありましたね。緊張しましたけど」
話を戻そう。河村は山口県の柳井中学校3年生のとき、全国中学校体育大会でベスト16に入る。ただ、今のように圧倒的な存在ではなかった。そんな彼を高校へ誘ったのが、井手口監督だった。監督が、出身中学である西福岡中学校の応援に来ていて、この大会のベスト8進出を懸けた対戦相手が、柳井中学だった。
「その頃のスタイルは、今みたいなスピードはなくて、ゆっくりプレイして一対一で全部抜いて、一人で得点するという感じでした。ワンマンチームみたいだったので、スリー(ポイント)を打ったり、ドライブ(相手ディフェンスを抜く技)したり。全部自分でやって点を取らないと勝てないとわかっていたし、決してチームメイトに恵まれていなかったわけではないですけど、やはりエースだったので、チームを勝たせないといけない。だから練習にもしっかり取り組んだし、一対一もたくさん練習した。もしかしたら、この頃に今のバスケットスタイルの基礎が出来上がったのかもしれない。大もとはやっぱり田臥さんなんですが」
高校では1年からレギュラーの座を摑む。そして、この頃から現在のプレイスタイルが出来上がっていく。とてつもないスピード、意表を突いたパス、そして隙あらばゴールを狙う。大型選手の間を172cmの河村がドリブルで抜いていき、思わぬ選手へとパスを通すとき、観客は驚きの歓声を上げるのである。
「高校1年の夏から秋に、U-16の日本代表に選ばれたんです。そのときいろんな経験を積むことができて、自分でも成長したと思えた。それで、高校のチームに戻ったら、井手口先生からスタート(先発)と言われて、ウインターカップに出場することになりました。うれしかったですが、この大会は3年生の集大成といわれていて、その3年生に代わって出ることになった。だから、責任感というか、しっかりチームを勝たせないといけないと思いましたね」
ただ、「自分が3年生を差し置いて出場した」大会で、準決勝敗退となってしまう。その原因は、河村のたったひとつのふがいないプレイだった。後悔は非常に大きかった。
「絶対に2、3年生では負けないと決意しました。そして、それをずっと公言して、戦っていった。絶対負けないなんて生意気ですけど。でも、その通り公式戦では一敗もすることなく、高校生活を終えることができた。チームメイトにも支えられて、こういう結果が出せたわけですが、1年生で味わった悔しさがなければ、今の自分はなかったと思います」
集中力を保つために、20本連続で入れる。
今春、大学生になった河村。バスケットに対する情熱はますます増すであろう。こんな場面があった。チーム練習の後ただ一人コートに残り、黙々とシュートを繰り返すのだ。
「シュート練習は大切です。試合とかで入んなかったりするので、もっとやらなければと思っている。集中力を保つために20本連続で入れるのが目標。ただ、16本とか17本で終わって、アッとかクソッと思わず言ってしまうこともある。でも、それも含めてバスケットは楽しいです」
河村は、まだシニアの代表には選ばれたことはない。自らの将来は、どのように考えているのであろうか。
「将来の夢はバスケットをもっとメジャーにすること。そのためにはBリーグに残ってプレイするのもいいんですが、自分を高めるために、大学に行こうと思いました。人間関係を広げていったり、フィジカル面でもより強くなって、それからプロに入りたい。在学中にも時期によっては特別指定選手としてBリーグに戻れますから。日本代表ももちろん狙いたいです。ただ、これは選んでもらうしかない。だから、今の自分をしっかりとアピールすることが、一番大事なことだと思っています」