サピエンス全史に載っていない、人類「座り」の歴史
腰痛や肩こりに悩み、“座りすぎ”を危惧される現代人。そもそも、人間はなぜ座るのか? 正しい座り方とは? そして「座る」を支える、優れた椅子との関係。今こそちゃんと見直したい、正しい座り方と正しい姿勢。
取材・文/西野入智紗 イラストレーション/越井隆 編集/宮田恵一郎
初出『Tarzan』No.780・2020年1月23日発売
700万年前から始まった座る文化。
人類は、地面から手を離し二足歩行を始めた瞬間から、座るという“宿命”を背負わされた。人類の進化、生活習慣や文化、歴史的背景とともに、“座り”の歴史と、その進化をひもといてみよう。
人類が直立二足歩行を始めた瞬間、骨格にどんな変化が起こったのか?
「紀元前700万年〜600万年前のアフリカ中部に生息していた霊長類の1属サヘラントロプスは、頭骨の大後頭孔が目の位置からほぼ垂直の位置にあることが確認されています。
大後頭孔は脊髄が通る孔なので、これが下方にあるということは脊髄が下に延びていたことを示し、直立していた証し。一説ではサヘラントロプスは最古の人類といわれています」と、生物学者の池田清彦さん。
その頃からヒトの骨盤は、大きな頭と上半身の重みを一手に支え続けているのだ。
「四足歩行の動物が上半身の重みを背骨と四足で分散して支えているのに対し、人間は骨盤で一手に支えなければいけない。それだけでも腰には大変な負担。24時間直立し続けるのは到底無理な話で、たまには腰を下ろして休みたくなる。これが座るという行為の始まりですね。
そのうえ、大きく発達した脳みそのおかげで重たい頭蓋骨を細い首で支えるのだから肩も凝る。腰痛と肩こりは、人間特有の病ですね」(池田さん)
生活、そして権威のため。座る行為を進化させた。
約1万年前、人類は食用植物採集や動物狩猟を基盤としながらバンドと呼ばれる数十人程度の集団で遊動生活を送るようになる。「その頃から、座る行為が社会的な意味を持つようになった」と池田さんは話す。
「人間は獲物を分け合い、みんなで一緒に食事をする習慣を身につけます。その際、車座になって座り、目線を合わせることで“寛ぐ”という状態を覚えたのです。
と同時に、目線の高さを変えることで社会的統制を図ることも学びます。高いところに立つ、切り株のようなものに腰掛ける、地べたに座る。高・中・低と目線の高さを変えることで地位や階級の違いを示し、社会性の起源が作られたと考えられます」(池田さん)
やがて人類は、椅子という人類最大とも言える発明をする。その歴史は古代エジプトに遡り、「玉座」という言葉が示すように、椅子はその国家や民衆が持つ哲学的、あるいは宗教的なイデオロギーと結びつき、人類の長い歴史の中で君主と神々のシンボルとされてきた。
「古代シュメール文明には紀元前2000年期から職人や楽士ら庶民が使用する椅子のレリーフも残っています。また中国でも椅子文化の歴史は古く、紀元前2世紀頃に前漢の宮廷で『胡床』と呼ばれる椅子が流行し、宋代には中国全土に椅子が広まります。そして明代の14世紀頃には注目すべき様式美がすでに確立されていた」と、日本身体文化研究所の矢田部英正さんは言う。
「明式椅子の最も代表的なもので『圏椅(クワンイ)』というものがあります。装飾性を削ぎ落としたシンプルな構造でありながら、背面はS字状に削り出されていて、心地よく座るための論理が広く普及していたことがわかります。
家具デザインの巨匠ハンス・J・ウェグナーは、このクワンイをモデルにして1943年に“チャイニーズチェア”をデザイン。その後幾度も改良を重ね、彼の代表作の一つとして知られる“Yチェア”に辿り着くことになります。
人間工学という概念が生まれるずっと以前から、座の理想を探求してきた名工が数多く存在したことに驚きと感動を覚えます」(矢田部さん)
日本にも椅子の使用は古墳時代からあったのだが、庶民一般に普及するようになるのは戦後の高度経済成長期以降。椅子の需要が伸びなかった原因として、
「畳や床の上に直接腰を下ろして座る“床座”の習慣が、日本人の伝統的な生活の形であったこと。そして和服という服飾と椅子との相性に原因がある」(矢田部さん)
「そのため日本には、実に多様な座法が生まれ、それに基づいて独自の文化も生まれました」と続く日本の座文化については、本誌『ターザン』で詳しく紹介している。
現在、そして未来。「座る」はどう進化する?
現代人のライフスタイルが急激に変化するなかで、2000年頃から長時間座ることのデメリットが世界中で論じられるようになる。冒頭ページで触れた、岡さんによる「座る時間と総死亡率に関する研究結果」は実に恐ろしい内容だ。
「座りすぎが健康リスクを高める仕組みについては、長時間の座位姿勢によって筋交感神経活動が高まり血管機能が低下。座りすぎることで大腿部の筋活動が低下し血流も悪くなり、代謝疾患や心血管疾患リスクを高めるなど、さまざまな研究報告がなされています。ある研究では、1時間座り続けるごとに平均余命が22分ほど短くなるというデータも報告されています」(岡さん)
「週末ジムに行ってウォーキングをしているから大丈夫」「日頃から適度な運動をしているから問題ない」と考えている人もいるかもしれないが、残念ながらそれでは座りすぎによる悪影響は解消されない。
「ジムなどでの運動はやったほうがいいのは当然ですが、週末にトレーニングに励むだけでなく、仕事中に低刺激を与える。30分に1回、少なくとも1時間に1回立ち上がって少し動くだけで、健康リスクがかなり軽減されることが最新の研究結果から分かりつつあります」(岡さん)
肉体労働から離れ、デスクに座りっぱなしの現代人。二足歩行を始めたサヘラントロプスの姿にこれ以上近づく前に、座りすぎを見直そう。
話を聞いた人
- 池田清彦(いけだ・きよひこ)/生物学者。東京都立大学大学院生物学博士課程修了。現在、早稲田大学名誉教授。
- 矢田部英正(やたべ・ひでまさ)/日本身体文化研究所。大学で体操選手として活躍。当時の姿勢訓練をきっかけに身体技法の研究へ進む。
- 岡 浩一朗(おか・こういちろう)/早稲田大学スポーツ科学教授。博士(人間科学)取得。専門は健康行動科学。座りすぎの現代人に警鐘を鳴らす。
- 藤森泰司(ふじもり・たいじ)/家具デザイナー。家具デザインを中心に据え、建築家とコラボ、プロダクト・空間デザインを手がける。