
憧れの先輩と、ダブルスを組む。
初めてラケットを握ったのがいつだったのか、はっきりとは思い出せない。バドミントンのプレイヤーだった両親の影響から、二人の兄が既に始めていたため、物心つく前から体育館が遊び場だった。
「バドミントンをする、したい。そういう気持ちの前に当たり前にありましたね」
廣田彩花にとってバドミントンは自分が選び取ったものではなく、幼い頃から生活の一部のようなものだった。
始めるのが早かったから、それからもちろん努力と才能のために、小学生の頃から抜きん出た存在で、地元・熊本県の代表として全国大会に出場している。後にダブルスを組む福島由紀を知ったのも、小学生の頃だった。
「同じ熊本の出身で、一つ上の先輩です。すごく強いなあって思っていました。初めて対戦したのが、中学2年生の時。試合で当たりたいと思っていても、福島先輩に当たる前に負けてしまうことが多かったので、なかなか対戦できなかったんです。本当に強かったから、どれだけ強いんだろうなって肌で感じたかった。中2で初めて対戦して、その次の対戦が高校生の時かな。対戦したら強すぎて『あ、無理だ』って思いました」
福島は名門校である青森山田高校に進学し、3年時にはダブルスで全国優勝を果たしている。廣田は実家から通うことのできる地元の玉名女子高等学校を選び、卒業後に二人は同じ実業団で再び出会った。
ダブルスを組むようになって初めて国際大会で優勝したのが、2015年。徐々に国際舞台でも頭角を表し、2017年には当時の世界最高峰の大会だったスーパーシリーズのマレーシア・オープンで初優勝。同年の世界選手権では中国ペアと対戦し、セットカウント1-2で敗れたものの、日本代表としては40年ぶりとなる準優勝を果たす。
以降は日本代表に定着し、順調にキャリアを積み上げ、2018年には世界ランキング1位にまで昇り詰める。東京オリンピックの選考対象となる国際大会でも優勝を重ね、出場権を獲得する。コロナ禍のために1年間順延となった東京オリンピックでも金メダルが期待されていた。
東京オリンピック直前に、人生で初めての大怪我を負う。
それまでの競技人生ではほとんど怪我をしたことがなく、「丈夫な体に生んでもらったな」と両親に感謝していたが、東京オリンピックを翌月に控えた2021年6月18日、代表合宿中に、廣田は人生で初めての大怪我を負う。
2対2で、どこにシャトルを打ち込まれるのか決められていない「フリー」と呼ばれる練習中に、左奥に飛んできたシャトルをバックで突いて返した。強く踏み込んだ右膝に「バーンという衝撃」があった。
「着地して内側に捻ったような感じですかね。そこで切れるってバドミントンではあまりないシチュエーションなんです。ただ合宿も終盤で、すごく疲れも溜まっていて、身体が重いなあと思いながらやっていたせいかもしれません。オリンピック直前の追い込み時期だったのもあって、やっぱり監督、コーチも気合が入っていたし、私も身体と気持ちが違ったのかな、というのはありました」
身体的な疲労を気力でカバーしていた、という意味だろうか。今から振り返れば、そのギャップが怪我の原因だったのかもしれない。金メダルが期待されるオリンピアンへの重圧が、判断を鈍らせたのか。「バーンという衝撃」は凄まじかったが、その場に崩れ落ちるほどの痛みがあったわけではない。歩くこともでき、次のラリーにも参加している。けれど、後方に下がった際に右脚に体重をかけると「何かグニャグニャ」となってしまった。そのまま病院に直行し、MRI検査をすると、右膝前十字靭帯断裂と診断された。
「『オリンピックが無理なんだ』という思いが一番にきて、その後は泣き崩れてしまってあまり覚えていないんですけど、トレーナーさんとコーチと一緒に福島先輩に伝えに行って、申し訳ない気持ちだけでしたね。『どうしよう、先輩、困っちゃうな』って。先輩と二人で金メダルを目標としていたのに、出場すらできないかもしれないって、ものすごく申し訳ない気持ちでした。『なんて言うことをしたんだろう』って、自分を責めるというか」
自身が怪我をして悔しいという感情は、不思議なほど湧いてこなかった。ただただ福島に対して申し訳ないという思いだけがあった。
前十字靭帯が切れている廣田、その死角をフォローする福島。
オリンピックのコートには立つことすらできないと思っていたが、その後、医師と打開策を探った監督とコーチから「手術をせずに保存治療ができる」と教えてもらう。あと1ヶ月、綿密に計画を立てれば、コートに立つことができるかもしれない。その微かな希望に、廣田は救われたという。
パンパンになった膝から血を抜き、1週間経過すると少しずつ腫れが引いた。2週間が経った頃から動き始め、プロテクターを装着してコートに戻った。
「前十字靭帯が切れているので、ストップができないんですね。なので、プロテクターは止める役割。それから膝が内側に入らないようにするため。練習の中でどこまで動くことができるのか、どこまで動いたら痛みが出るのか確認しながら、話し合っていく感じでしたね」
東京オリンピックまで2週間あまりという差し迫った状況で、試合形式の練習を繰り返しながら、動きを確認していく。どの方向に飛んでくるシャトルには対応でき、どのエリアではレシーブすることができないのか。その可能/不可能のラインを細かく確認していった。
そして、どのようにローテーションすれば、廣田の死角を福島がカバーできるのか、スタッフを交えて話し合い、戦略を組み上げていった。そのプロセスに感情が入り込む隙はなかったという。
「めちゃくちゃ必死すぎて、怖いとか、なかったですね。自分が痛いとか怖いとか言うよりも、とにかく二人でコートに立ちたいっていう気持ちだったから。あの時は、精神力で補えていたのかな。余計なことを考える暇がないくらい、本当に追い詰められていたんです」
福島から何か特別な言葉をかけられた記憶もない。だが二人は、コートに立つことができれば、互いの心情が手に取るようにわかるという。廣田は、福島が何も言わずにシャトルを追う姿を見ながら「あえて表に出さずに頑張ってくれているんだろうな」と思っていた。
「絶対にどこにもぶつけられない思いを持っていると思っていました。でも、ずっと隣で笑顔でいてくれるし、全力でカバーもしてくれる。私は、私ができることを精一杯やるしかないと思っていました」
リハビリの支えは、福島先輩からの言葉。
2週間の集中的なトレーニングによって、右膝前十字靭帯を断裂した状態での身体の動かし方、ローテーションをどうにか習得し、オリンピックが開催された時には、全力の7〜8割レベルでプレーできるまでになっていたという。
「試合では気持ちも上がっていたので、練習時よりももっと動けていましたね」と当時を振り返る。
予選ラウンドではイギリスペア、マレーシアペアを下し、準々決勝の相手は、2017年の世界選手権決勝でも対戦した中国ペアだった。コロナ禍のために無観客の静まり返ったコートに、ラケットの風切り音とシャトルを打ち返す音が響く。後衛に構える福島の息づかいも、いつもよりもよく聞こえただろう。極限の集中力と言葉に頼らないコミュニケーション。廣田は、敗退したにもかかわらず、最高の達成感を得た。
「試合が終わった瞬間、悔しいという気持ちよりも、最後までやりきったって素直に思ったんです。何より、あの試合は楽しかったから。今までで一番楽しめた試合でした。自分のすべてを使ってバドミントンをやっていたし、福島先輩も同じように全力でやっているのがわかったんです。でもそれを上回る対戦相手だった。全ての要素が重なって、本当に楽しかった。バドミントンをやっていてよかったなって、心から思いました」

東京オリンピックに出場した際の写真。廣田の右膝には、大きなプロテクターが装着されている。集中した表情、健闘を讃え合う二人。
東京オリンピックで金メダルを獲得し、現役を引退するという、思い描いていた理想とは違う結果だったが、「やりきった」のは間違いない。ただし、万全の状態で出場できなかったために、時間が経つほどに「少しずつ悔しい気持ちが出てきて、このままでは終わりたくないと思うようになった」という。
「怪我から復帰して、もう一度、福島先輩と並んで試合がしたい。そう思って、手術することに決めました。その決断の後には一緒にご飯に行って、直接、話もしましたね。もしかしたら福島先輩もバドミントンを辞めるかもしれないと思っていたから。でも『廣田を待ちたい』って言ってもらった。素直に嬉しかったです。ああ、待っててくれるんだって。その気持ちを聞いて、私も頑張ろうって思えたんです」
東京オリンピックでの敗退から、およそ1週間後。いくつかの候補を周り、チームトレーナーと相談して決めた病院で、廣田は内視鏡による手術を受ける。下半身麻酔のために意識はあり、ずっとモニターを見ていた。医師から「ほら、これが前十字、切れてるでしょ?」と言われたが、よくわからなかった。
手術後は、痛みで眠れなかった。痛み止めを処方されても効かず、我慢するしかない。それでも次の日から歩く練習は始まった。歩行器を使って歩き始め、1週間ほどで松葉杖が取れた。それから、およそ7ヶ月間続くリハビリの生活に入った。
「とにかく膝の曲げ伸ばしですね。めちゃくちゃ痛くて、でも曲げなきゃいけないからトレーナーさんに押してもらうんですけど、痛くて曲げられない。ほとんど変化もないですし、何なら悪くなる日もあるし。ちょっと進んだかもと思ったら、次の日には曲がりが悪くなっていたりする。痛いし、苦しいリハビリのモチベーションは、ファンの方から『復帰を待ってます』っていう言葉もいただいて、それも力になってましたけど、やっぱり一番は福島先輩のあの言葉でしたね」
「廣田を待ちたい」という言葉を頼りに、「こんなに痛いこと、絶対にもう二度とやりたくない」というリハビリ生活を乗り越えていった。
復帰戦ですぐに怪我以前と同じプレーができるわけではない。自分のイメージと実際の動きが同調するまでには、およそ1年半の歳月がかかったという。
2021年8月に手術を行い、7ヶ月のリハビリを経て復帰したのが2022年春。1年半の試行錯誤を経て、ようやくパフォーマンスが向上し、パリオリンピック選考の二番手から「これから上がっていくぞ」というタイミングの2023年12月、遠征先のインドでの大会中に左膝前十字靭帯を断裂してしまう。廣田は「なんで、今なんだろうな」と思ったという。

Profile
廣田彩花(バドミントン選手)
1994年生まれ熊本県出身。2013年高校最後の公式戦で、実業団の選手を破り、熊本県総合バドミントン選手権女子シングルスで優勝。卒業後に、福島由紀と同じチームに。2015年フクヒロペアで、スコットランドオープンで初めての国際大会優勝。以降、四度の全日本総合選手権優勝ほか、二度のアジア選手権金メダルなど、国際舞台でも優勝多数。右膝前十字靭帯を断裂したまま出場した東京オリンピックでは5位入賞。岐阜Bluvic所属。二度目の怪我から、2025年5月に復帰を果たした。