山西利和(競歩)「その一瞬一瞬を、 わくわくするのが大事」

第一人者として日本の競歩を牽引してきたが、パリ・オリンピックへの出場は叶わなかった。2025年、見事に復活した彼が今思うこととは……。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」〈2025年4月17日発売〉より全文掲載)

取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文

初出『Tarzan』No.891・2025年4月17日発売

山西利和 競歩
Profile

山西利和(やまにし・としかず)/1996年生まれ。164cm、55kg。京都市立堀川高校で競歩を始める。高校3年時に世界ユース陸上競技選手権の1万m競歩で優勝。京都大学に進学し、4回生時に夏季ユニバーシアードの20km競歩で優勝。卒業後は愛知製鋼に入社。同社陸上競技部所属。2019年、22年の世界陸上選手権で2連覇。21年の東京オリンピックでは銅メダルを獲得。

オリンピック・チャンピオンが拾ってくれたと思った。そのことですごく救われた。

25年の2月16日に開催された、日本選手権・男子20km競歩で優勝したのが、愛知製鋼の山西利和。その記録、1時間16分10秒は世界新で、これにより彼は25年9月に東京で行われる世界陸上への出場権を得た。レースが行われる当日の午前中、天気予報は雨。厳しい戦いが予想されたが、実際は夜明け前に上がり、長距離競技には大敵の風もなく、気温も9.5度という絶好の条件が整った。スタート地点に立ったとき、彼はどのような気持ちだったのか。

山西利和 競歩

「わりとリラックスしていて、気負いはなかったと思います。のんびりという表現が正しいかわかんないですけど。ブラジルから来ていた選手がいたんです。スタート前に1分前とか言っているアナウンスがあって、ワンミニッツとか教えてあげたり(笑)。20kmあるので、最初から行ってもしょうがないですから」

レースは、1km3分46〜48秒というハイペースで、日本を代表する選手が集団を作りながら進んでいく。ただ、このなかで山西は自分本来の歩きがなかなかできなかった。

「前に見えているものを、自然に追っちゃうんですよね。それに自分の足音って案外聞こえなくて、人の足音は気になる。だから、そのリズムに引っ張られたりして。嚙み合っていないのかなという感じでしたね」

こうなると、精神的にも肉体的にも消耗してしまうのが普通だ。しかし、山西はしっかりと歩き続け、12km過ぎに同じ愛知製鋼に所属する丸尾知司を引き離す。そこからは一人旅でゴールを果たしたのだ。

山西利和 競歩

「世界記録はラストの2、3kmで、もう出るんだろうと確信していました。あの記録(前世界記録・2015年に鈴木雄介が出した1時間16分36秒)はインパクトが強いし、価値も高いと思うんです。ただ、やっぱり10年という長い間、スポーツとしての日本の競歩チームが成長を示せていない感じもしていた。多くの大会でメダルを獲ってきたのは、いいことですが。そろそろ誰かが行かないといけないというのは、勝手に自分で思っていたんですよね」

喜びを露わにするわけでもなく、淡々と語る山西を見ていると、何事にも動じない強さを感じる。それは、彼自身が「一回死んでいますから」と語るような経験をしたことに大きく関係しているのであろう。

競歩を生業とする者として、どこでラインを引くのか。

日本の第一人者だった。19年、ドーハで行われた世界陸上で優勝。東京オリンピックの出場権を得る。新型コロナの影響で21年に行われたオリンピックでは銅メダル(このときゴールした山西はとにかく悔しそうだった。当然金メダルを狙っていたのだろう)。そして、翌年のオレゴンでの世界陸上でも優勝する。ところが、23年のブダペストの世界陸上では24位。この結果は「フレッシュな気持ちで臨めなかった。自分の中に閉塞感があった」、ココロの問題だったと振り返る。一流選手も失敗する。そこから、再出発すればよい。ただ、その再出発のための新たな選択肢が、山西を苦しめることになった。それが、底の薄いシューズから厚底シューズへの変更だった。

山西利和 競歩

「ブダペストのあと9月から、厚底のシューズを3か月ぐらい試したんです。競歩選手は踵でしっかり地面を踏んで、逆に前側では体重は乗っているけれど踏み込まないし、強く蹴り出さない。でも、厚底では踵側を着いたのはいいけれども踏ん張ることができず、前に体重が移動していったときに、もう一回爪先側が沈み込む。すると、その分だけ膝が前に出てドロップして(落ちて)しまう。こうなると、膝が曲がってしまうので本当に難しかったんです」

競歩には反則がある。それが、両足が地面から離れてしまうロス・オブ・コンタクトと、膝が曲がってしまうベント・ニーだ。レース中はずっとジャッジされていて、反則を繰り返すと失格になる。だからフォーム、つまり歩型が重要になる。山西は11月まで厚底で練習したが、いったん元のシューズに戻した。翌年の2月にパリ・オリンピックの代表を決める全日本選手権があったからだ。だが、歩型は元に戻らなかった。反則により失格となり、パリへの道も断たれた。

山西利和 競歩

「競歩を生業としている者として、どこにラインを引くのか。実業団に入って最初に決めたのはそこでした。代表を逃したら考えなきゃダメだろうなって。ずっと凌いできたけれど、あのときはできなかった。いろいろ試した結果の自滅です。ただ、実力で負けていたならあきらめもついたでしょうが、そうではないからもうちょっと続けさせてもらおうと思えるようになったんです」

練習するだけのオレにそんな価値があるんだ。

幸運だったのか? いや、そうではない。山西の実力がこの出来事をもたらしたのだ。パリ・オリンピック直前、イタリア代表で東京でも金メダルに輝いたマッシモ・スタノから一緒に練習しようと誘われた。

山西利和 競歩

「オレ、まだそんな価値があるんだみたいな。何もなくてただ練習するだけみたいな感じのときに、オリンピック・チャンピオンが拾ってくれたと思って、すごく救われました。元から親交はあったんですが、トレーニングのプログラムも刺激的だったし、本人(マッシモ)がどんなメンタリティで取り組んで、そこ(パリ)に向かっているかもよくわかった。貴重な経験だったと思います」

今は一回死んで延命措置状態。出し惜しみしている場合じゃない。大切なのは興味、好奇心、衝動。

約1か月を一緒に過ごした。日本ではどういうバランスで行えばいいかわからなかった筋力トレーニングも、こんな感じでやればいいんだと実感できた。それも、今の山西の大きな力となっている。さらに、厚底にも少しずつ適応できるようになってきたし、自分の歩型に合ったシューズも見つけることができた。そのすべての結果が、今回の世界記録だったのだ。この先、山西はどのような競技人生を歩んでいくのだろう。

山西利和 競歩

「自分なりの矜持としていたラインがなくなって、その延長線上にはいられなくなりました。本当に一回死んで延命措置状態なんで、来年までに何とかすればいいという、先のあることではない。半年後にまた死ぬかもしれないし、出し惜しみしている場合でもない。大切なのは興味、好奇心、衝動。その一瞬一瞬をわくわくすることが大事。それを続けていった先に世界選手権などの結果がついてくればいいとは思っています。ただ、そのために半年前からスケジュールを緻密に組むみたいなことは、今は考えていないんですけどね」