小山直城(陸上)「タフなレースになればちょっと有利だと思う」

過酷な状況下のMGCで優勝し、パリ・オリンピックの出場権を得た。彼はどのようにして道を拓いてきたのか?(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」No.879〈2024年5月9日発売〉より全文掲載)

取材・文/鈴木一朗 撮影/吉松伸太郎

初出『Tarzan』No.880・2024年5月23日発売

Profile

小山直城(こやま・なおき)/1996年生まれ。170cm、55kg、体脂肪率10%。埼玉県立松山高校3年時に全国都道府県対抗男子駅伝で4区区間賞。東京農業大学へ進み、1年時に関東インカレ2部5000mで5位入賞。4年時は2部5000m5位、10000m2位。本田技研工業に入社。2022年、ニューイヤー駅伝で9人抜き、初優勝に貢献。同年、東京マラソンで初マラソンながらサブテンを達成。23年はエース区間4区でトップに出る快走で連覇に貢献。同年、東京マラソンで2時間8分12秒のタイムを出し、MGC出場権を奪取。MGCでは優勝し、パリ・オリンピック出場を摑む。

みんなが強い選手。彼らの走りも見ていたし、厳しいレースになると思った。

昨年10月15日に開催された『MGC』(マラソングランドチャンピオンシップ)で優勝し、パリ・オリンピックの出場権を得た小山直城(ホンダ所属)。この大会で上位2位まではオリンピック行きが決まり、あとの1人はその後の選考レースと『MGC』3位とのタイムによって競われた。小山は、どのようにこの試合前の時間を過ごしていたのだろうか。

「レースをする東京には2日前に入りました。『MGC』にはホンダから3人出場したので、彼らとスタッフとウナギを食べて寝ました。このときは緊張は感じてなかったです」

翌日は、代々木公園でジョギング。60分で13kmほどを、彼にとってはごく軽く走った。このころから、レースに対して具体的に考え始める。

「気象条件も雨の予報だったので、10月にしては気温も低くてスローペースになると思っていました。記録よりも順位が大切ですから。だから、そのまま大集団でラストスパート合戦かなと予想していました」

記録的には小山を上回る選手は多い。今や日本で一番有名な長距離ランナー・大迫傑もその一人である。

「大迫選手には、トラック勝負になったら負けると思ったので40km過ぎ、ラスト2kmぐらいから仕掛けなければいけないと考えていました。他の選手もみんな強いですし、持ちタイムもわかっている。ゼッケン番号が若ければ若いほどいい記録を持っていて、その人たちの走りも常に見ていましたから、自分には厳しいレースになるとは思っていました」

代々木公園のジョグの後、食事をして2時間の昼寝。翌日の本番は朝8時スタートなので、逆算して夕食を4時半に摂り、夜8時には眠りについた。翌朝、起きると東京は予報通り雨。スタート前の7時45分の時点で、気温は17.5度だった。

マラソンは接地が重要。カラダの真下に足を着く。

実は『MGC』に出場するには関門があり、『MGCチャレンジレース』と呼ばれる指定大会で記録が出なければ、出場ができない。小山は『東京マラソン』を選んだ。ただ、この時点でパリのことはまったく考えていなかったという。なぜか? 彼は『MGC』の出場自体が目標だったのだ。小山には憧れの先輩がいた。それが同郷の設楽悠太だ。

小山は高校3年生のときの都道府県駅伝で設楽と襷を繫いだという経験もあり、設楽がいたホンダで走ることを決めた(設楽は現在西日本鉄道所属)。設楽が走った東京オリンピック出場を決める20年の『MGC』では、沿道で応援をした。このレースで設楽はスタートから飛び出して快走。最大で先頭集団から2分以上の差をつけて独走するが、37kmの上り坂で集団に吸収されて、残念ながらオリンピックを逃したのだ。

「ああいうすごいレースをして、応援も多くて、だから『MGC』には一度は出てみたいというのがありました。設楽さんは走りのリズムが本当にすばらしくて。時計をあんまり見ずに設定タイム通りに走れたり、一緒に練習していてもとても走りやすい。なかなか真似できないです」

小山直城 MGC

『東京マラソン』で『MGC』出場権を摑み、小山はパリを頭に描き始める。やることは多い。強豪ホンダの選手であるからには、駅伝とマラソンを両立させなくてはならない。

「駅伝とマラソンは、足で蹴るか蹴らないかの差です。短い距離の駅伝では、ペースが速くなる。その点、マラソンではあまり蹴らずに足の接地を重視します。カラダの真下に着くと、地面から上手く反発が受けられるので楽に進める。それが頭の位置を上下させないことに繫がるし、体力の消耗も抑えられるんです」

走り方の違いで、当然ケガのリスクも変わってくる。地面を蹴れば、脚はより強い衝撃を受ける。社会人の駅伝といえば毎年1月1日に開催されるニューイヤー駅伝だ。小山は毎年秋に入ったころに、駅伝の練習に切り替えるようだ。ただ「あんまり好きではないんです」と苦笑いするのだが、こればかりは仕方ない。

残り3kmだったら、どうにかなると思った。

『MGC』の本番、レースは小山の予想とまったく違うものとなった。

「カワさん(川内優輝)が飛び出して、1km3分のペースになって。これだと持たないと思ったけれど、いつか落ち着くと我慢していました」

それでも25kmほどまで川内は独走状態。すばらしい走りであった。

「25kmを過ぎ、カワさんが吸収されて集団が7人になってからはスパートのタイミングを考えていましたね。でも、35kmまではこのままと思っていました。余裕はありましたよ。タイミングを窺って、39kmでみんなが横一線になったとき前に出たんです。残り3kmだったら、どうにかなるんじゃないかと思って」

小山直城 MGC

残り2kmを切ったとき、後方とは10秒の差があると沿道から声がかかる。勝った、と思った。ただ、優勝のテープを切った瞬間には、まだパリに行けるという実感はなかった。疲れていた。寒かった。タオルを肩に掛けられ、国立競技場の優勝インタビューの舞台に小山は立った。受け答えは覚えている?と聞くと、記憶にないという。そこで語ったのは「力勝負では負けてしまうので、集団の力を利用しようと思っていた。運もあったがしっかり勝てたのがよかった」という喜びの言葉だった。

パリまで2か月と少し。まだまだやることは多い。標高900mの山梨県の西湖、1300mの長野県の菅平、最後は2600mのアメリカのボルダーへと練習拠点を移していく。心肺機能向上のための高地トレーニングである。これは、小山にとっても初めての体験だ。はっきり言うが、日本は昔のようなマラソン強国ではない。ただ、パリのコースは150mもの高低差があり、レースが行われる8月10日は気温もかなり上昇するはず。難しい状況であれば、日本選手にも期待できるかもしれない。小山も上位を狙っている。

「とにかく、世界との差は大きいと思っています。最後まで走り切るってことが、まず大前提。タフなレースになりそうなので、日本人にも少しは有利かなと思っています。2時間ちょっとというタイムは無理だけど、8位入賞になら手が届きそうだと考えている。もちろん、その上も狙っていますけど。とにかく、あと少し練習を重ねて、納得のいく結果を残せたら最高ですね」