この連載の筆者・内坂庸夫さんはこんな人
目次
シャモニという街。
トレイルラニング100マイルレース。アメリカには最古にして、そして誰もが素晴らしいと認める「ウェスタンステイツ・エンデュランスラン100/WSER」が2025年に50周年に輝いている。
欧州では?というのなら、やはり「UTMB」を挙げないわけにはいかない。いまも昔も「UTMB」が世界最高の100マイルレースと呼ばれるには多くの理由があるけれど、なんといっても開催地がシャモニであることが大きい。いや、シャモニだからこそ「UTMB」が開催できている。
なぜなら、シャモニで「山」に登り「山」を楽しむ「文化」が生まれ育てられたのだから。シャモニはヨーロッパアルプス最高峰モンブラン(4809m)の直下の街なのだから。
シャモニはいまも昔もモンブランはもちろん周辺の峰々を案内する山岳ガイドの街、岳人や健脚な旅人をあたたかく迎える街なのだから。そして山を遊ぶことがいかに楽しく、ときにいかに困難なのか、シャモニの人々のDNAには代々の体験として組み込まれているのだから。
「山」に登り「山」を楽しむ「文化」。注意されたいのは、後に「アルピニズム」と呼ばれるこの野外活動は、高度な技術や専用用具(当時はザイルやピッケルなどはなかったが)を必要とする登攀的な活動を意味し=そうでなければモンブランには登れない、平坦な高所を歩くハイキングやトレッキングはその前後のアクセス(アプローチ)としてとらえられる。
とはいえ、モンブランの麓には素晴らしい絶景のトレイルがいくつもつながっているし、たとえその頂きを目ざさなくとも、歩くだけでもそれはそれは楽しい。
選手はその170kmにおよぶトレイルを駆け続け、幾多の艱難辛苦を乗り越え、最後の山を下りシャモニの街に還ってくる。アルブ川沿いを、胸の奥からこみ上げる歓喜とともに進み、サンミッシェル教会の広場にフィニッシュする。
汗まみれの選手たちを迎える街の人々の激励、ねぎらいの声援と拍手は、順位や距離カテゴリ-に関係なく、昼間だろうが真夜中だろうが、熱い熱い。
氷河の発見。
さあ、まずは1741年に遡らねばならない、280年ほど前の話になる。17世紀以前、モンブランを登りたいと思うモノ好きはいなかった。
西ヨーロッパの最高峰であろうがなかろうが、主な街道からはずれた山は人々の往来に邪魔ではないにしろ、日々の生活からかけ離れた高山は、ましてや1年中真っ白な雪と氷で覆われた山は、非日常であるゆえに不気味で、恐ろしい存在で、魔物が棲むと言われてもおかしくはない。地元の人にとってモンブランに登るなんてとんでもない、言葉を変えれば、モンブランは見向きもされていなかった。
ところが冷蔵庫のない時代、大都市の王族や富裕者たちが夏に冷を求めて氷の塊を遠くの山あいから運ばせる、という贅沢が始まった。欧州各地で氷の洞窟や万年雪の谷間の存在が知られることになる。
1741年。英国人W・ウインダムとR・コペック率いる大部隊(召使い5人を含め総勢18人)はアルブ川上流をさかのぼり、モンタンヴェールに到着し、そこで地元の水晶採りから話に聞いていた氷河という摩訶不思議な現象を目の当たりにする。
「なんなのだ、これは?」。ウインダムは多くの文献を調べ、この現象が「グリーンランドの海に行った旅行者の書いた文献」の表現に近いと思い当たる。
「激しい風によって逆立った波がそのまま凍りついたようだ」と。かくして長さ7km、深さ200mにもおよぶフランス最大の氷河は、英国人によって発見されメール・ド・グラス(氷の海)氷河と呼ばれることになる。
モンブランという名前。
翌1772年。英国人ふたりの氷河発見を知ったジュネーブの地図製作者ピエール・マルテルが、英国遠征隊と同じ行程でメール・ド・グラスを探検している。
前年のウインダム・コペック隊との違いは、目的が「発見と見物」ではなく「観察と報告」であった。同行の5人は鉱物、動植物、デッサンの専門家であり、マルテル自身は数学者で測量、地図作りの専門家であった。
マルテルはシャモニ山群の正確な地形図を作成し、いくつかの峰や山に名前をつけた。そして大事なことがある、どの山よりも高い万年雪の山を、その通りモン・ブラン(白い山)と名づけたのだ。
マルテルは氷河旅行の「報告」をデッサンつきで刊行し、欧州各地の好奇心旺盛な富裕層の興味を沸き立たせることになる。地図と絵が、そして探検話に尾ひれはひれがくっついて広まる、「え、氷河? 氷の海? なにそれ」という具合。1785年には1500人が、86年には1700人がモンタンヴェールに足を踏み入れ、氷河を訪れたと言われる。
ゲーテもジョセフィーヌも。
1800年代に入ってからは、もはや冒険探検ではなく奇勝景勝への旅行、物見遊山という扱いだろうか。「凍りついた逆立った波」をこの目で見てみたい、欧州の文化人が、いまで言うセレブたちがこぞって詣でるようになる。
1779年にはあのゲーテが、1805年にはシャトーブリアンが、1810年にはナポレオン王妃ジョセフィーヌ皇后が、1814年にはマリ・ルイーズ妃がメール・ド・グラス訪れている。
もう、おわかりだ。深い谷あいの村シャモニは氷河のおかげで欧州有数の観光名所になり、セレブたちを泊めるホテルが作られ、氷河を案内するガイドやポーターが誕生した。
眺める山から登る山へ。
そして、氷河の発見はさらなる歴史をシャモニにもたらしてゆく。氷の海すなわちシャモニを訪れる人が増えるにつれ、マルテルが周辺山域の正確な地図を作ったこともあり、「高い山を眺めるために」「高み」に多くの人が登ることになった。ドリューやモンブランを眺める絶好のポイントはここだ、とばかりにシャモニとその山塊は開拓されてゆく。
かつて魔の山、恐い山だと思われていた山々の正体が白日の下に晒されてゆく、モンブランもしかり。このヨーロッパアルプスの最高峰に登れないものか、考える人々があらわれる。
1779年に文豪にして詩人ゲーテはイタリア旅行のついでに、ジュネーブの貴族にして自然科学者そして文人にして政治家、大のシャモニ好きのH・O・ソシュールを訪ねている。
ゲーテはソシュールからシャモニの氷河の話を聞き、前述の通り、メール・ド・グラスを訪れ、その絶景のすべてを誰よりも優れた言葉に置き換えている。
富裕貴族のソシュールはジュネーブ市内にもっとも豪奢な邸宅を構え、あのナポレオンがジュネーブ滞在の際にはこの邸宅を利用したという。ゲーテやナポレオンが訪ねてくるソシュール、この才人ソシュールこそがモンブラン初登頂のフィクサーであり、スポンサーであった。
賞金登山。
ソシュールは1760年、1761年にシャモニを訪れた際に、モンブランの頂きへのルートを見つけた者には十分な報酬を出す、という告知をシャモニ渓谷全域に広める。
ルート発見に失敗しても、その日々への日当も支払うとまで。実際のそれらの金額を知ることができないのが残念なのだけど。その後15年間、1775年の夏までに挑戦された登頂はP・シモンの2回だけ、そして失敗に終っている。実に難攻不落モンブラン。
モンブラン初登頂。
「氷河」が発見された45年後。1786年8月8日晴天、ついに魔の山モンブランの山頂に、地元シャモニの水晶採りのジャック・パルマと山好き若き医師ミシェル・パカールが立つのである。
その一部始終はシャモニの街から望遠鏡で見ることができたという。登頂成功はあっと言う間にヨーロッパ全土に、いや世界中に知られるところとなる。翌87年には彼らのスポンサーである偉大なるソシュールがパルマのガイドによって登頂に成功している。
ふたりは初登頂に成功しただけではない、次に登る人のための登山ルートを開拓したのだ。つまり、バルマとパカールの快挙以降、案内さえあれば、そして山のご機嫌が良ければ(これがむずかしい)誰でもモンブランに登れることになった。
シャモニに行けば、ガイドを頼めば、ヨーロッパアルプス最高峰に登れる、万年雪のモンブランに登れる! この夢のようなニュースは富と時間を自由に使え、好奇心と冒険心を持った人たちの間にじわじわと広がり、欧州の金持ちたちはこの街を訪ね、ガイドを頼み、モンブランを目指すようになる。
すでにシャモニには「氷河」という観光名所があり、多くのセレブたちはシャモニの素晴らしさを知っていたことから、シャモニは山の街としてますます賑わってゆく。
そして前述の通り、シャモニで「山」に登り「山」を楽しむ「文化」が生まれる。街にはモンブランだけでなく周辺山峰のルートを案内するガイドが職業として成り立ち、1821年にガイド組合ができ、最先端の用具用品が作られ売られ、ホテルが次々に建てられてゆく。シャモニの大きな山、深い谷はスキーにうってつけだった、1924年に第1回冬期オリンピックが開催され、1946年には国立の登山ガイドとスキー教師の学校が設立される。そしてアルピニズムを生んだ街、シャモニは世界一の山岳リゾート、スキーリゾートになっていく。
「ツール・デュ・モンブラン/TMB」
さあ、現代に戻ろう。雪と氷に覆われ山頂に立つ難しさから魔の山とも呼ばれていたモンブラン、ヨーロッパアルプスの最高峰4807mである。いまや、手前のエギューユ・デュ・ミディ3777mまでロープウェイが架かり、麓のシャモニの街から30分で上がれてしまう。最高峰に1000m足らずとも、その眺めの素晴らしいこと、言葉にはできない。
もちろん見事なのはモンブランだけではない、モンブランとその山群の絶景を楽しむための150~200km(サブコースがある)におよぶ、ぐるり一周のハイキングコースがある。
フランス、イタリア、スイスをまたぐ「ツール・デュ・モンブラン=TMB」がそれ。ガイドを頼みおよそ7~10日間をかけ、山小屋や麓のホテルに泊まりながら、ヨーロッパアルプスの中でも特に絶景といわれる7つ谷、71の氷河、400のピークを堪能するのである。
ハイキングとはいえ標高差累積(上りの合計)は7500~12650mになるし、もっとも標高の高いところはイタリア・スイス国境の大フェレ峠2537m、かなりタフなコースである。
半分で終えるもよし、途中バスを使うもよし。どのようにも歩けるので年齢性別を問わず大人気で、1995年からの計測によると、この「TMB」を毎年6月15日から9月15日の3ヶ月間に2万5000人が巡るという。
走ってみようぜ。
そしてここはフランス、冒険家の国だ。そこに道があれば、しかも険しくてあきれるくらいに長ければ、モチベーションはますます上がる、「走ってみようぜ」と。はじめてノンストップで「TMB」を走ったのは1978年のC・ルーセルとJ・デュク、25時間50分。翌79年、ルーセルはJ・ベルリエと共に21時間48分でフィニッシュ、前年記録を4時間も縮めている。
はじめて「TMB」を競走のコースとして使ったのは1987年(ターザン創刊の翌年)、「第1回スーパーマラソン・デュ・モンブラン」が開催されている。優勝はあの、知る人ぞ知る、ウェルナー・シュバイツァーさん、15時間08分。
彼は「NHK放送2009年/激走モンブラン」の名脇役として登場し、クールマイユールの大エイドで奥さんに日焼け止めをつるつる頭にこってり塗られて、ぴかぴかになっちゃうなんとも愛嬌のある人物、放送やDVDでご存知の方も多いはずだ。
さて、この「第1回スーパーマラソン・デュ・モンブラン」。
1987年10月に行われたステージレース形式で
1)シャモニ~クールマイユール。2)クールマイユール~シャンぺ・ラック。3)シャンぺ・ラック~シャモニの3区間を3日かけて行われている。
動画をごらんいただければわかるけど、現在の「UTMB」コースをそのままなぞっているわけではないにせよ、そんな軽装備(というか手ぶらに見える)でよく走ったなあ、というのが正直なところ。
「マラソン」の名に恥じず、ランパン、ランシャツ、ロード靴。装備はなにひとつ携行していない(ように見える)、まずザックを背負っていない。だから収納する水も食料も、着替えも、ヘッドライトもエマージェンシーシートも、マップもコンパスも持っていない(ように思える)。
行く先々にサポートカーが先回りして、水や食べ物を提供するスタイルだけど、「UTMB」でも重要な区間とされるセーニュ峠(フランス・イタリア国境)、大フェレ峠(イタリア・スイス国境、コース最高峰2537m)はちゃんと走り通してゆく、つまり天気次第、体調次第ってところがある。
参加ランナーすべてがモンブラン山塊1周コース「ツール・デュ・モンブラン」の距離はもちろん山岳高所の「厳しさ」を理解していたとは思えない。レース前日に生まれてはじめてシャモニに来たというアメリカ選手もいるし、セーニュ峠ではイタリア選手が疲労と低体温症になってしまい救助が間に合わず死亡している。
「アイアンマン第1回大会」
そういえば、この1978年はトライアスロン「アイアンマン」第1回大会(オアフ島)が開催されている。主催者のジョン・コリンズはスタートのピストルを鳴らしたあと、ピストルを砂浜に投げ捨て、他の14名の選手とともにワイキキの海に飛び込んでいった。
のちにこのレースは「ハワイ・アイアンマン」と名を変え、スポーツビジネスの運営会社に委ねられてゆく、やがてその会社は「UTMB」をも運営していくんだから、おもしろい。そして、モンブランを巡る3区間3日間競走は1994年に「クラブ・デュ・スポーツ・シャモニ」の運営で7人の選手によるリレーレースになってゆく。
惨劇。
1999年3月24日、欧州北アルプス地域の輸物資送の1/3をまかなうモンブラン・トンネルの中で、走行中に小麦粉とマーガリンを大量に積んだベルギーのトラックの燃料が漏れ、大爆発を起こした。トンネル内はいっきに大きな炎と高温に満たされ、20台のトラックと11台の乗用車がつぎつぎに燃え上がる。死者39名、負傷者27名という史上最悪の火災事故となった。
あまりの高熱にトンネル内のコンクリートは砂状化し、鉄骨は溶解してしまう。トンネルが修復され交通が回復されるまでに3年を要した。
モンブランの真下をぶち抜き、フランス・シャモニとイタリア・クールマイユールを30分でつなぐこの11.6kmのこのトンネルが使えないことには「TMB」を使ったレースは運営できない。
3年の空白の間にウルトラトレイルの世界は急変していった。超長距離のレースは好き者同士の集いから、観光・集客ビジネスとして成り立つスポーツイベントに変わりつつあった。
その現状をグランレイド・レユニオンなどの100マイルレースに自ら参加して、肌で感じたクラブ・シャモニのメンバー、ミシェル・ポレッティを中心に、リレーでもなく、宿泊することもなく、単独で、ぶっ通しで「TMB」を走るレースが具体化されてゆく。
完走は10人にひとり。
「TMB」の頭にULTRA-TRAILをつけた「ウルトラ・トレイル・デュ・ツール・デュ・モンブラン」が2003年に開催された。当日の天候に応じて選択できるように70km、113km、153kmのコースが用意されていた。722人がエントリーし、実際にスタートしたのは660人。そして153kmを走り終え、シャモニに戻ってきたのはわずか67人だけだった。
優勝はスイスに住む山岳ガイドのダワ・シェルパさん、20時間5分。いうまでもなくエベレストの麓に暮らす世界最強の山岳民族の血を引く若者である。とにかく660人走って戻ったのは67人、およそ10人にひとりしか完走できなかった。
あくまで推測だが、この苛酷さがうけた。優勝がスイスのガイドであることも、フランスの山男たちには気に入らなかったのかも知れない。当時の「アイアンマン」人気と同じように、あっという間にその名は世界に知られ、熱狂的なアスリートが集うようになっていく。
あまりにも大掛かりになった「UTMB」、運営はこの「クラブ・デュ・スポーツ・シャモニ」から枝分かれた「UTMBオーガナイザー」が専門に行うことになった。
そして「第1回スーパーマラソン・デュ・モンブラン」優勝のウェルナー・シュバイツァーさん、2003年の第1回にももちろん出場している、当時64歳で5位(!)だ。以来、2009年まで連続出場し、すべてを完走している。ガンをおしてのまさに「激走・・・」の2年後、レジェンドは星になってしまった。2011年その年のUTMB表彰式は彼の追悼式でもあった。
翌2004年には参加申し込みは前年2倍の1594人となった。この年からレース名を「ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン=UTMB」と変えている。「ツール」が外れた、「トレイル」と同じ意味だからだろう。
「2006年になると人気が人気を呼びエントリー数は3354人に膨れあがるが、全員を出場させるわけにはいかない、あぶれた選手を救済する意味もあって「TMB」の後半をまわる86kmのCCCを立ち上がる。
08年には「TMB」の外側をまわるPTL(280km、2~3人でのチーム参加)が、09年には「TMB」の前半分の外側をまわるTDS(111km)が、そして14年にはスイスのオリシエールをスタートするOCC(50km)が加わった。
かくして世界中から集まった7000人を越えるトレイルランナーが8月最後の1週間を、時刻とスタート場所と走る向きを変え、「TMB」を基本としたモンブラン山群のトレイルを走るのである。
ややこしいのだけど、UTMB」は大会名であり、同時にその中の距離カテゴリーの1種目である。「UTMB」という大会の中に「UTMB」や「CCC」や「TDS」というレース種目があるのだ。
初めてUTMBを走った日本人はターザンが知る限り2005年の石川弘樹さん13位。07年に鏑木毅さんが出場して12位だった、08年に4位、09年に3位になっている。
嘘っ!
そして2010年には悲願の・・・と、万人が鏑木毅さんに期待する。4位、3位ときたからには、今年は2位はもちろん、もしかしたら表彰台の真ん中かも。選手がシャモニをスタートした後、サポーターたちは21km先のサン・ジェルヴェ、もしくは31km先のレ・コンタミーヌのエイドステーションをめざし、大急ぎでサポート装備一式を積み込んだクルマに乗り込む。街から国道に出たとたん、どしゃ降り。
まるでバケツをひっくり返したような大雨、クルマのワイパーが間に合わないくらいだ、この大雨の中、選手たちは大丈夫なのか?、雨は止みまた降る。レ・コンタミーヌに真っ先にやってきた日本人は松永紘明さん。3分ほど後に鏑木毅さん、横山峰弘さんが到着する。
おかしい、先に進ませてもらえない。昨年2位のセバスチャン・セニョーさんがふたりを見つけてやってきた。こう言った。「レースはキャンセルになった」鏑木さんは「嘘っ!」と天を仰ぎ、横山さんは声にならない悲鳴を上げる。
鏑木さんが頭を振り、びしょ濡れの髪から雨が弾け飛ぶ。セバスチャンさんがふたりを抱きしめる。泣き崩れる。31km地点で2010年の「UTMB」は荒天のため中止となってしまった。ただ、UTMBオーガナイザーは、その翌朝「CCC」のコースを使った88kmのレースを開催しているから、すごい運営力である。
ブランドの戦い。
2008年。スペインの大学生、キリアン・ジョルネさんが圧倒的走力をもって優勝する。大学生とはいえ山岳スキーのナショナルチームの代表、いってみれば本物の山岳アスリートの登場である。
彼は09年、11年をも制してしまう。この頃から多くのアウトドアブランドがトレイルラニングを新しいマーケットとして捉え、自社の用具用品を纏わせた山岳アスリートを出場させるようになってゆく。
エイドステーションごとに繰り広げられるその迅速にして完璧なサポートぶりはF1レースのピットのよう、「UTMB」は世界一のトレイルランナー決定戦となってゆく。トップ選手たちの身につけた服や用具、靴は多くの場合プロトタイプであり、UTMBは本気のテスト現場にもなった。
もっとも、あまりにトップ選手への「お世話」が過剰すぎて、そうでない選手との差が大きくなってしまった。いまでは公平をはかるため、サポートできる人の数やエイド入場時刻がきっちり決められている、それはもう厳しいのなんの。
「UTMB」。最初から変わらないものがある。選手への愛とリスペクトだ。前述のようにここは登山という文化を生み育てたところ。170kmの「TMB」をノンストップで走ることがどれほど苛酷であるか、地域の人たちは百も承知だ。
辛く苦しく、膝を折り、泣き出しそうな選手に勇気を与え、前に進ませる現場のスタッフたち。トレイルの先々で声をあげ、励まし、拍手し続ける各国の山の男たち。牧場の女たち、そして子供たち。どしゃ降りにたいまつを燃やし、行き先を示す村の人たち。暖をとれと、大きな焚き火を燃やす町の人たち。
繰り返しになるけれど。
選手はその170kmにおよぶトレイルを駆け続け、幾多の艱難辛苦を乗り越え、最後の山を下りシャモニの街に還ってくる。アルブ川沿いを、胸の奥からこみ上げる歓喜とともに進み、サンミッシェル教会の広場にフィニッシュする。
汗まみれの選手たちを迎える街の人々の激励、ねぎらいの声援と拍手は、順位や距離カテゴリ-に関係なく、昼間だろうが真夜中だろうが、熱い熱い。そして待ちわびた家族、恋人、仲間との再会。街は興奮に沸き返り、友は一緒に行進し、子供はしがみつき、恋人は抱き合う。それはもう涙がこぼれるほどうれしい、ほんとうにうれしい、感涙まさにそれ。この大会はフィニッシュも世界一である。
前述の通り、現在「UTMB」はトライアスロンの「アイアンマン」を運営する会社の傘下に入っている。シャモニの「UTMB」はシリーズの最終戦という考え方をされていて=「アイアンマン」のハワイ・コナ大会と同じ。出場するには世界各地で開催されている姉妹レース「BY UTMB」に出場して「ストーン」なるポイントを貯めることで距離カテゴリーに応じたエントリー資格を得ることができる。
手持ちの「ストーン」が多いほど(=「BY UTMB」にたくさん出場するほど)当選確率は高くなる。「UTMB」、ビジネスとしてもうまくできている。