この連載の筆者・内坂庸夫さんはこんな人
トレイルラニングってなに?
走ることは爽快! 山は楽しい! この2つを一緒にしたトレイルラニング、いつの間にか大人気。山好きの人はもちろん、(多くの人はダイエットのために)ジョギングから走ることをはじめて、次にマラソン完走、サブフォー達成、自己記録更新、その先は? というランナーたちの次のステップがトレイルラニング。コロナ禍が明けて、アウトドアアクティビティが再注目されたせいなのか、日本中でレースやイベントがたくさん開催されている。
さて。トレイルラニングって、いったいどこで生まれた? その歴史は?。そもそも山を走ることがトレイルラニングらしいけど、その定義って? オリンピック種目には? 多くの人が疑問に思うでしょう。ひとつひとつお答えしましょうか。
そもそもトレイルとは。日本では、未舗装の、クルマが通行できないくらい幅の狭い小道を意味します。なので山や海岸の小道、登山道、ハイキングコース、国立公園をはじめとする公園の小道、山道、遊歩道。そして河川敷の散歩道、町の緑道、里山の古道、山奥の寺社への参拝道、地方集落の往来道などがトレイルにあたります。
また、道には幅の大小に限らず所有者(国や自治体、個人など)と管理者(自治体、依託会社など)が存在していて、それらの許可がないと通行できません。
でも、利用されることを目的とした公園内はもちろんだけど、ハイキングや登山のガイド本、観光マップなどに公開されていれば、そして現場に通行止め、進入禁止などのサインがないのなら、所有者、管理者の暗黙の了解で、利用通行OKとされています。ただし、トレイルを使ってイベントやレースを開催するには所有者、管理者への使用申請、許可が必要ですが。
そして、これらの総称「トレイル」の尻尾に「走る」の名詞「ランニング」がくっついて、これらの小道を走ることをトレイルラニング(英語発音)と呼びます。ですからそこがクルマのやってこない未舗装の小道なら、海岸や湖畔を走ってもトレイルラニングになります。
世界最初のレースは?
次に、いつから始まった? だけど、ヒトが2足歩行を始めたとき、そのときからトレイルラニングをしていました、獲物を追って走っていたころ、200万年前はそこら中が未舗装ですから。そう、200万年前からわれわれの「走り」はトレイルラニングでした。
では、もう少し具体的に。そのトレイルを使った競走、トレイルラニングの最初のレースはいつ、どこででしょう? これもむずかしい。未舗装の道で「よーい、ドン!」と競走すれば、もうトレランレースになるので、調べようがありません。世界中の町はずれで、海辺や川っぷちで、そして野山で「かけっこ」が行われていたでしょうから。
さてさて、世界でいちばん古いトレイルレースは見つからないとしても、もっとも伝統ある「100マイル」のトレイルラニングレースということなら、間違いのないものが北米とヨーロッパにそれぞれが存在している。
まずは北米、カリフォルニア州の「ウェスタン・ステイツ・エンデュランス・ラン」、これに「100マイルズ・ワンデイ」というサブキャッチがついてくる大会。あまりに長いので多くの場合は「WSER」と称されている。この「ワンデイ」、24時間とも受けとれるけど、深い意味があります、忘れずに。
この「WSER」、第1回大会開催はいつ? と問われると、いささか込み入っていて、そもそもの背景となる西部開拓史、ゴールドラッシュのあたりから話し始めなきゃならない、覚悟はよろしいかな?
それはゴールドラッシュと開拓魂から始まった
1848年。カリフォルニア州サクラメント近郊のコロマの農場。使用人のJ・マーシャルはアメリカン川の水底にきらきら輝くものを見つけてしまう、砂金だ。金が発見され、内緒にしたかっただろうに、あっと言う間にご近所どころか世界中に知れ渡り、カリフォルニア・ゴールドラッシュが沸き上がる。
翌49年、その1年だけで世界中から9万人もの人たちが海を渡り、大陸を馬と馬車で渡り、カリフォルニアにやってくる。後にフォーティナイナーズ/49ersと呼ばれる、大変な苦労を強いられた入植者たちだ。人が増えれば町も増え栄え、さらに大きくなり、カリフォルニアは50年に合衆国31番目の州として加わることになってしまう。
だもの、入植者たちの玄関となったサンフランシスコ。そのNFLフットボールチームは、まさにその名称通り、「フォーティナイナーズ/49ers」チームカラーは赤と「ゴールド」だ。
アメリカ西部には、さらなる開拓の地へ、また新興の町と町、町と都会をつなぐために、トレイルが開拓されてゆく。なかでもゴールドラッシュの中心となったオーバーン(コロマの隣町)と急峻なシエラネバダ山脈を越え、ネバダ州北部をつなぐウェスタン・ステイツ・トレイルは困難にして危険ながらも、急激に発展しつつあるこの地域の重要なルートとして使われてゆく。
やがてゴールドラッシュラッシュは終焉し、そして1860年代に北米大陸東西の海岸を結ぶ大陸横断鉄道が敷設されると、ウェスタン・ステイツ・トレイルは他のトレイルと同様に使われなくなってゆく。
さあ現代、ようやく話は「WSER」に近づいてくるのだけど、舞台は変わらずアメリカ西部開拓の地。「WSER」にはたくさんの「開拓魂」、つまり「前代未聞」「前例のない」「無謀」「非常識」「変人」「パイオニア」「ヒーロー」があったりいたりする。
いちばん最初の「開拓魂」は1955年8月7日午前5時。「馬って1日で100マイルを走れるものか?」、馬自慢、馬乗り自慢のウエンデル・ロビーと4人の馬乗りたちがタホシティ から100マイル先のオーバーン(ほら出た)を目ざして走り出すんだ。そう、ウェスタン・ステイツ・トレイルを。
いまも昔も人は日が昇って明るいときに働き、日が沈んで暗くなったら眠る。1日/ワンデイという区切りがもっともわかりやすい生活の単位だ、特に荒野の広がるシエラネバタの麓ではなおさら。誰もやったことがないワンデイ。人も馬も朝から夕まで、さらに夜も眠らずに、次の朝までぶっ通しで走ることができるのか?
ウエンデルと仲間3人は翌朝4時21分、オーバーンに到着した。これが世界でもっとも過酷といわれる長距離乗馬レース(エンデュランス・ライドと呼ばれる)「ウェスタンステイツ・100マイルズ・ワンデイ・ライド」の始まりだ。
日本では馴染みのない「エンデュランス・ライド」という乗馬競技。馬に乗って野山を、長い距離を駆け続ける。まさに西部劇そのものだけれど、酒場の大喧嘩やガンファイトはなし、順位やタイムを競うもの。馬に無理をさせてはいけないから、途中で何度も馬の身体検査(獣医さんが待ちかまえている)がある。
100マイル/ワンデイ/悪路、あまりにも過酷だからか? 人気が人気を呼び、米国はもとより世界中の馬乗り自慢が集まり、10年も経たぬうちに参加の馬/選手は1000を超えてしまう。世界有数の乗馬大会になってゆく。
そして1959年からは、優勝しそして馬の体調を良好に管理できたライダーに「Tevis Cup/テヴィス杯」が贈られるようになり、この世界一有名なエンデュランス・ライドは「Tevis Cup」と呼ばれ、さらに有名になってゆく。
おまけ。テヴィスとは大会協賛会社「ウェルズ・ファーゴ」の当時の社長の名前。いまでは金融業で知られる大会社だけど、そもそもはゴールドラッシュを機に荷馬車でつなぐ運送業「カーゴ エクスプレス」としてサンフランシスコに創業。大陸西部に3,000マイル以上をカバーする世界最大の駅馬車ネットワーク網を構築している、当時ウェスタン・ステイツ・トレイルはドル箱路線だったのかしれない。クレジットカードの「アメリカン エクスプレス」はこの会社が大元だ。カードなのになぜ「速達」なんだろう? ようやくわかった。
無謀なヒーローと掟破りのヒロイン
1955年にウエンデル・ロビーがそもそもを始めたのだ。とはいえ、それは「馬」の100マイルレースだけど。
さあ、いよいよ人間が走る100マイルレース、話をはじめよう。1974年にこれまた荒野に「前代未聞」「前例のない」「無謀」「非常識」「変人」「パイオニア」「ヒーロー」が登場する。しかもふたりも。
ひとり目。彼の名前はゴードン・アインズレイ。
仲間にゴーディと呼ばれる馬好き大学生(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)は、71年と72年に「テヴィス・カップ」に出場している。73年も走り出すけれど、29マイル地点で馬が脚を痛めてしまい、リタイアせざるを得なかった。
くやしいなあ、ゴーディは翌年も出場したい、けれど馬が見つからない。だいいち山岳悪路100マイル、それも一昼夜ぶっ通しで走れる(可能性のある)馬は希少だ、見つかったとしても簡単には手に入らない。困った。
そこにふたり目の「前代未聞」が登場する、ドルシア・バーナー。女性だ。ドルシアは「テヴィス・カップ」を主催運営する「ウェスタン・ステイツ・トレイル財団」の秘書で、同時に「テヴィスカップ」初代女子チャンピオン。
なんと、彼女はゴーディに「馬なしで走っちゃえば?!」と、掟破り、ルール無視のとんでもない作戦をけしかける。世界有数の乗馬レースの主催スタッフが、しかもそのレースの初代チャンプが、そんなことを言っていいのか。いいわけはないのだが、そこはそれ、西部開拓魂というやつ。
「ウェスタン・ステイツ・トレイル」を馬なし、自分の足で悪路100マイル、眠らず24時間以内で。ゴーディもゴーディで、誰もやったことがない、そのとんでもないアイディアを真に受けてランニングの練習を始めちゃうからすごいと言うか、無謀というか。
コロラドの「キャッスルロック50K」に出場し(すでにトレイルランナーだ)、乗馬とランの「デュアスロン」にも参加する。そして翌74年、トレーニングを積み上げ、試走も終え(馬でも2回走っているし)、コース前半52マイル(めちゃ暑いことを知っている)に分散してゲーターレード(合計9・5リットル)をデポしておく。
そしてゴーディは、198頭の馬とともに走り出すのだ。レース途中でいまと変わらぬ灼熱にやられるものの、見事に復活して23時間42分でオーバーンにフィニッシュする。
「WSER」の起源は「馬なしで走ったことから」を知る人は多いかもしれない。そしてこんなイメージかもしれない・・・馬がスタートラインに並ぶときに馬が脚にケガをして、ここにきてリタイアするのはくやしい、周囲が止めるものかまわず、ええい、自分で走っちゃえ。実際は違う。その場の思いつきや勢いではなく、長期にわたる準備周到な計画で、しかも共犯者がいるのだ。ゴーディが出走を許されたのは、財団秘書のドルシアが裏で手をまわしたからに違いない。
「ゴーディにできるなら、オレだって」、と西部開拓魂は次々に「ならず者」「負けず嫌いたち」に知れ渡り、ついに3年後の77年に公式にランニング種目を同時開催ことになる。14人が出走し3人がフィニッシュしている。優勝のM・ゴンザレレスは22時間57分、残りのふたりP・マッティとR・パフェンバーガーは28時間36分もの悪戦苦闘を強いられた。
そしてWSERは100マイルレースの教科書になった。
この大会はワンデイを目ざすものだけれど、彼らふたりの壮絶な努力に報いるために、また後に続く多くのランナーのために、30時間以内をフィニッシャ-とすることになった。 完走した選手に贈られるのは、ベルトバックル。もともとは「・・ワンデイ・ライド」という馬のレースだったし、そのアワードがベルトバックルだったから。そしてフィニッシュがワンデイ/24時間以内であれば「ライド」と同じくシルバーに輝くそれが贈られる。
アメリカの多くの100マイルレースの賞品がベルトバックルであるのはこの「WSER」発祥の経緯をリスペクトしているからにほかならない。78年からは馬との混乱を避けるために「テヴィス・カップ」とは日を変えて、その1ヶ月前に単独で開催するようになる。
人はワンデイで100マイルを走ることができる、を証明した「WSER」。この大会にはあのドルシア・バーナーの存在のごとく、勇者を助ける人や仕組みがいくつもある。たとえば、環境保全という理由で出場できる選手は400人に満たない。これに対して彼らの世話を焼くボランティアスタッフは1600人以上、ランナーひとりにつき4人以上のスタッフが用意されている。
そして、いまでは国内レースでも当たり前のレース後半で選手に伴走するペーサー、このシステムも「WSER」が始まり。なんとあのゴーディが最初のペーサー役をやっている。76年の大会(つまり3年目だ)の馬なし走者ケン・カウマン・シャークの最後の25マイルをゴーディが励まし伴走。
ケンは24時間30分でフィニッシュしている。「WSER」はペーサーを強く強く推奨している、もし選手が用意できないのなら大会側がペーサーを用意してくれる。そのくらい「WSER」はフィジカルにもメンタルにもきついのだ。
ゴーディが最初に走った74年を始まりとすれば今年で50年の歴史を誇る「WSER」。そのなかで、多くの素晴らしい選手が登場し、たくさんの素晴らしい記録が残されている。とりわけ1999年から2005年まで7年連続で優勝したスコット・ジュレク、女子なら1989年から2003年まで通算14回の優勝を飾ったアン・トレイソンを忘れてはいけない。
==以下『Tarzan』が2002年に取材したWSERより==