東京マラソンは災害シミュレーション? メロスは走ってなかった!? 走りにまつわる都市伝説
走るというのは特別なものがいらない原始的な動作ゆえに、今でこそスポーツとして確立しているものの、言ってしまえば日常の延長。歴史を遡ると言い伝え、噂話…さまざまな都市伝説が。走りにまつわるあんなこと、こんなこと、調べてみました。
取材・文/神舘和典 撮影/北尾渉 イラストレーション/上田よう
初出『Tarzan』No.874・2024年2月22日発売
東京マラソンのコースは災害シミュレーションだった!?
2024年3月3日、号砲とともに3万8000人が都心を駆ける『東京マラソン2024』が開催された。100万人が沿道で応援する大イベントだ。当然、東京都も警察庁も厳戒態勢を敷く。こうした状況下、東京マラソンは大災害が都心部を襲ったときのためのシミュレーションではないかという噂が生まれた。
「それはあくまでも噂です。そういう話は、東京都からも国からも提案されていません」
笑いながらもはっきりと否定するのは、東京マラソン財団理事長でレースディレクターも兼務している早野忠昭さん。
教えてくれた人:早野忠昭さん
はやの・ただあき/1958年長崎県生まれ。76年インターハイ男子800m全国高校チャンピオン。現東京マラソン財団理事長/CEO・レースディレクター。日本陸上競技連盟総務企画委員。
「もちろん東京マラソンではさまざまな危機管理のシミュレーションを行っているので、結果的には今後の役に立つかもしれません。でも、大災害に備えたイベントではありません」
そんな早野さんは、レースディレクターとして、コースづくりにも検討に検討を重ねてきた。実績あるエリートランナーには記録が出やすいように配慮。
「勾配の少ないコースを考えたり、交差点を速いスピードで通過しても安全にターンできるようにしたり、考え抜きました」
抽選で選ばれた一般ランナーには、物語性を意識した。
「東京マラソン初回のフィニッシュは佃大橋を渡り、東京ビッグサイトでした。今は東京駅を背景に行幸通り(皇居前)でフィニッシュします。できるだけアイコニックな、走るよろこびを体験できて、思い出にしていただけるコースをデザインしました。楽しみにしてください」
レースディレクターとはどんな仕事?
フルマラソン42.195kmのコースをデザイン、“走る舞台”をつくる。東京マラソンは世界記録を視野に入れるエリートランナーと抽選などで選ばれた一般ランナー、そして応援する人たちを考慮して、安全を最優先し徹底的に検討する。
東京マラソンの開催史上初、“理事長”がペースメーカー指示バイクに乗り先導!
理事長としては初、レースディレクターとしては最後。ペースメーカー指示バイクとは、選手たちが好記録を狙えるように、レース展開・気象状況を見ながらペースメーカーに指示を出すもの。今年は早野レースディレクターの姿にも注目。
ワールドマラソンメジャーズ6大会を制覇しよう!
3月東京、4月ボストンとロンドン、9月ベルリン、10月シカゴ、11月ニューヨークがワールドマラソンメジャーズ。6大大会すべてで完走すると、達成した会場で「Six Star Finisher」認定メダルを授与。
『走れメロス』、実は全然走っていなかった!?
中学の国語の教科書にもよく選ばれている太宰治の短編小説『走れメロス』。
主人公のメロスは自分の身代わりで暴君に囚われている友のために走る。野を駆け、激流を泳ぎ、山賊を倒し、乱暴だが犬を蹴飛ばして走り、ぎりぎりで友を救う美談だ。ところが2014年に一人の中学生がメロスのスピードを算出すると、思わぬ結果になった。
計算したのは当時中学2年生だった村田一真君。一般財団法人理数教育研究所開催の「算数・数学の自由研究」作品コンクールに応募して入賞したのだ。
舞台であるイタリアの季節や天体で算出すると、前半は時速2.7km。徒歩だ。ラストスパートは5.7kmで、平均3.9km。速歩きレベル以下だった。
友の命の危機でも、実はメロスは余裕をかましていた。
ジョギングブームの火付け役は走りすぎて死んだ!?
1970年代、世界的なランニングのブーム(当時はジョギングブームと言った)があった。老いも若きも走り、スニーカーが一気に進化した。火付け役はジェイムズ・F・フィックス。
『ライフ』の編集者だった彼の体重は100kg近くあり、ランで30kg減量。1日40本喫っていたたばこもやめた。著書『奇跡のランニング』は100万部のベストセラーになり“ジョギングの教祖”といわれた。
しかし1984年、米バーモント州の国道でフィックスはランニング中に倒れた。心筋梗塞による発作で、52歳で息を引き取ったのだ。死因はランではないが、教祖が逝きランニングのブームは終焉する。ランは自分の健康状態を把握して行うべきだ。
銃を携行し獣と闘う“郵便屋さん”がいた!?
教えてくれた人:倉地伸枝さん
くらち・のぶえ/郵政博物館学芸員。『郵政博物館 研究紀要』の編集担当も務める。郵政博物館は東京都墨田区の〈東京スカイツリータウン・ソラマチ〉の9階にある。WEBサイト
江戸時代の飛脚は速かった。駅伝のような複数のリレー式とはいえ、江戸-大阪間を2日半で駆けたという。平均時速約9.17kmで走った計算になる。
「江戸時代の飛脚は明治になり郵便逓送人という職業に継承されました。その実録は今も大切に保管されています」
そう話す郵政博物館学芸員の倉地伸枝さんが、千葉県市川市にある郵政博物館資料センターを案内してくれた。
資料を保管する収蔵庫を訪れるとびっくり。明治時代の“郵便ランナー”たちの実録の原本が未公開のまま眠っていた。郵便逓送人の条件は次の通り。(※一部を抜粋)
- 年齢十六歳以上四十五歳以下ノ男子ニシテ身元正シク性質実直ナルモノ
- 身体強壮ニシテ疾走シ得ルモノ
「前科のある人、酒癖のよくない人も不採用とされています」
彼らは常に命がけだった。
「鉄道や道路の整備が進められた明治期とはいえまだまだ不便な時代、灯りの乏しい深夜の道中は野生動物や盗賊の危険が伴います。郵便物を守るために銃も貸与されていました」
熊や野犬に襲われたり、毒蛇に嚙まれたりで命を失った記録も資料センターに残されていた。
そんな時代、英雄も生まれた。1922年、冬の北海道で豪雪のなか釧路局から昆布森局へ郵便物を運んだ吉良平治郎だ。
「吉良さんは深夜、今でいうホワイトアウトのなか郵便物を運ぶ途中に息絶えました。翌朝捜索隊が遺体を発見しますが、吉良さんは外套を脱いで郵便物を包み守っていたそうです」
彼の殉職は『責任』というタイトルの紙芝居で子どもたちにもずっと語り継がれた。
紙芝居『責任』(郵政博物館蔵)の一部
平治郎が郵便逓送人の仕事を得たのは30代半ばのとき。平治郎はまじめに働くことを自分に誓ったが、運がなかった。この冬、釧路は豪雪に見舞われた。職を得て3日後の深夜、暴風雪のなか、平治郎は釧路局から昆布森局へ郵便を運んだ。距離は16km。荷は17kg。平治郎は息絶えた。