松井繁(ボートレース)「もう一度賞金王になる。今はただそれだけです」

ボートレースの世界で戦ってきて、まもなく25年が過ぎようとしている。40億円を稼いだ男が果たしたい夢とは。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」No.869〈2023年11月22日発売〉より全文掲載)

取材・文/鈴木一朗 撮影/中村博之

初出『Tarzan』No.869・2023年11月22日発売

ボートレース ボートレーサー 松井繁
Profile

松井繁(まつい・しげる)/1969年生まれ。168cm、51kg。89年5月13日にデビュー。SG優勝12回。99年、2006年、09年、グランプリで優勝。08年、14年、ボートレースクラシック優勝。96年、01年、ボートレースオールスター優勝。98年、06年、08年、13年、オーシャンカップ優勝。09年、ボートレースダービー優勝。23年、生涯獲得賞金40億円を突破した。

公営競技の中でも最高ランク。ボートレースの絶対王者。

“絶対王者”の異名を取る男がいる。それが、ボートレーサーの松井繁である。とにかく強い。ボートレースでは最高峰のSGからG1、他にも多くのランクのレースがあるが、いちいち彼の強さを紹介すると、キリがない。

で、みんながすぐに納得できる証拠を示そう。これまでの獲得賞金が40億円を超えるのである。なんと、競馬、競輪、オートレースの公営競技の中でも最高ランクの一人なのだ。

ボートレース ボートレーサー 松井繁

最近、ボートレースでは有名俳優を配しCMを盛んに行っているし、東京・六本木から生中継を行ったりして勢いを感じる。

松井は現れるなり、「『ターザン』ってカラダ鍛えるヤツちゃうの。全然、鍛えてへんで、大丈夫か?」と、笑う。

日本最高のレーサー。勝つ理由があるのだ。それが知りたい。とりあえずボートレースの魅力について語ってもらった。

「まず、この競技をまったく知らない一般的な人に知ってほしいのはスピード。それにモーター音の迫力ですね。テレビの画面で見ていても、そこはなかなか伝わらないですから。これを最初に現場で感じてほしい。

この競技を知るようになれば、もっと深いとこまで見ることがあるのですが、そこは順を追って説明できたらいいと思っているんですよ」

公営競技の中で一番ドキドキするんじゃないかと思う。

ボートレース ボートレーサー 松井繁

最高時速は80kmにもなる。コーナーは1マーク、2マークが300mの距離に置かれ、それを3周して勝負を決する。1号艇から6号艇の全6艇で競う水上のレースなのである。

昔は1周1コーナーでトップに立つと、そのままゴールすることも多かった。でも、今はコーナーでの位置取り、立ち上がりによって着順の入れ替わりがあるし、それだけに勝負にはコクがある。

「公営競技の中で一番ドキドキするんじゃないかと思いますね。ただね、僕らは公営競技としてやってきてますんで、スポーツ選手というより、プロの職人という感じでやってますね。スポーツと違って楽しいということは一切ないんで、職人ということはそういうことですね」

モーターやプロペラの調整もレーサーに懸かっている。つまり、車のレースで言えば、メカニックとレーサーを一人で行うのだ。

ボートやモーターはレース場のモノが抽選で割り当てられる。もちろん、いいのも、悪いのもある。それを修正し、推進力の源泉であるプロペラを叩き、削り、好みに仕上げる。

「完璧に調整できたことは何回かあるんですよ。でも、ボートもモーターも抽選ですから、それの頂点を見極めないといけない。やりすぎて逆に壊してしまう場合もある。だから、ここがこのモーターのマックスなのかなというのをわきまえて、調整していかないとダメなんですよね」

「日本一のレーサーになりなさい」師匠の言葉が目標になった。

ボートレース ボートレーサー 松井繁

レーサーになるには養成所で1年訓練をする必要がある。もちろん、松井もこの道を辿った。募集人員に対して何十倍もの応募があり、かつ養成所を卒業できずに辞めていく人も少なくない。

その意味では、ここから戦いが始まっているといえよう。

「訓練していたときに勝ったよろこびというのは自分の中にはありますが、本当のレースとなると、とんでもないレーサーがいますから全然違います。それでも、この世界で食べていけるというのはデビュー戦で思いました。

ただ、レーサーは師匠につくのですが、僕の師匠である金谷英男さんに“日本一のレーサーになりなさい”と言われた。日本一ってとてつもなくハードルも高いし、ごはん食べるだけの世界とは違うでしょ。

だから、今の自分があるのは、師匠に巡り合ったことがきっかけなんですよ」

師匠の言葉が目標になった。それからは、ただ必死の一言。他のレーサーも必死だろうが、その度合いが違った。何といっても、本気で日本一を狙っていたからだ。

それは結果に表れる。デビュー半年でB1級、1年半でA級へと昇級するのである。そして、1995年に松井にとって、大きな転機が訪れることになる。

「瞬間です。住之江のレースだったんですけど、その瞬間に賞金王になれると思いました。モンキーターンです。それまでの乗り方はボートに正座をしているような姿勢でターンをしていました。それを競馬のジョッキーが馬に乗っているような姿勢にしたんです。

ボートに乗っているのは足の裏だけ。こうすることで、水面とボートの接触している部分が半分ぐらいになる。

正座のときはボートがベタッと水についていましたから、抵抗がなくなってターンが速くなったし、小回りも利くようになった。ボートもよりコントロールできるようになりました」

そこから快進撃が始まる。ボートレースで一番のレースであるグランプリに10年連続で出場を果たしたのだ。

実戦を繰り返すしかない。だから僕の仕事量は、他のレーサーより多い。

ボートレース ボートレーサー 松井繁

ただ、それだからといって、松井のボート人生は順風満帆だったかといえば、まったく違う。

「膝の手術も2回しているし、骨折も何回かしています。普通のレーサーだったら2~3か月は休みますよ。ボートレースではフライングをするとだいたい30日休まないといけないんですが、僕はその期間に入った瞬間に手術をして30日経ったらいきなり出るわけです。賞金王を目指すためには絶対に休めないんですよ」

フライングのペナルティーは厳しく、ときにはレーサー生命も左右するので、わざとやるレーサーはいない。

松井はフライングの回数は少ないので、その間でのケガとの闘いも苛烈だったろう。そして、加齢という問題も出てくる。松井は今年54歳。衰えはどう感じているのか。

「体力は大丈夫、やる気もある。でも、動体視力とか判断力は確実に落ちてきているので、それをどういうふうに補うかは、実戦を繰り返すしかない。だから、仕事量としては他のレーサーよりめちゃくちゃ多いですよ。試運転してプロペラ叩いて、試運転してレース行って、また試運転してプロペラ叩く。

みんなトレーニングなんて恰好いいこと言うけど、僕は休憩させてって思う。家に帰ったら動くということすら嫌です」

取材に伺った日の練習メニュー

ボートレース多摩川で開催されたウェイキーカップの模様を間近で取材。松井が語った通り「試運転して、プロペラを叩いて、レースに行って」というルーティーンをひたすら繰り返す。

この日は2回レースに出場したが、それ以外は他のレーサーとあまり話すこともなく、黙々と作業を続けた。勝負師の緊張感がこちらにも伝わってくるような時間だった。

次の目標は50億超えか? “75歳まで現役という記事を見ましたが”と問うと、松井の表情が少し曇った。

「うっとうしいんですわ。常にいつ辞めるのとか聞いてくるから。自分が決めるからほっとけということで、質問されんように75歳だって。歳行ってるから、いつ辞めるのとかあまりにも失礼。

一生懸命やってるんですから。今はもう一回賞金王を狙っています。自ら全力を出して、必死でやって、それでももう賞金王になれないと自分で思ったら辞めます。ただ、それだけ。今はとにかくやっていくだけです」

もちろん金のためにではない。自らの名誉のための賞金王だ。なんたってもう40億もある。「いや、税金払ったり、使ったりして40億はありませんよ」と、ニヤリと笑った。