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今こそ「米」のパワーを見直そう! 戦国武将の勝負メシ

名だたる戦国武将が好んだ「米食」は、現代からみてもの栄養バランスに優れたメニューが揃っている。あらためて、勝負めしから「米」のパワーを見直そう。

信長から家康まで。武将が愛した勝負メシ。

織田信長は桶狭間の戦いで今川義元の大軍勢に奇襲をかける際、湯漬けで腹ごしらえして勝ちを収めた。湯漬けとは、冷や飯に湯をかけてサラサラと食べられるようにしたもの。天下布武への道のりは、「米」の力で動き出した。

その信長が本能寺の変で頓死した後、次なる覇権を握るべく家臣同士が対立していくなか、豊臣秀吉が切り札にしたのも「米」だった。

柴田勝家と雌雄を決した賤ケ岳の戦いで、別の戦のために岐阜の大垣にいた秀吉軍は、近江の木ノ本まで52kmの道のりをわずか5時間で行軍したと『川角太閤記』や『天正記』に記されている。

これほど速く移動することができた理由は、道中の村々の庄屋や大百姓たちに「倉の米を炊いて、沿道通過の兵に供せよ。後日、十倍にして返す。馬具、松明も用意せよ」と使者を出し、行軍する兵士に握り飯を食わせたから。補給路を確保して食事や休憩のために進軍を止めることなく、一気に移動して敵の柴田勝家を滅ぼした。

豊臣秀吉の勝負メシ
豊臣秀吉の勝負メシ「豆味噌の握り飯」/米に麦を混ぜて炊いた麦飯を握り、豆味噌(八丁味噌)を塗ったものを豊臣秀吉は好んだ。足軽にまで十分に飯を行き渡らせつつ、敵の兵糧を断つ名手だった。

「農民から身を起こして天下人になった秀吉は、兵糧攻めや水攻めで人の命を無駄に奪わず敵を降参させる武器として、米を使うのが上手だった。自分の軍の米は確保して敵の米の補給は断つ。その集大成が、10万人ともいわれる軍勢で小田原城を包囲し、宴を催しながら北条氏を降伏させた戦です」

と語るのは、食文化史研究家で〈日本人の長寿食研究会〉の会長、永山久夫さん。永山さんによると、秀吉は麦飯に豆味噌を塗った握り飯を好んだ。米に麦を混ぜて炊き、握った飯に大豆100%の豆味噌(現在の八丁味噌)を塗ったものだが、質素に見えて栄養豊富。

糖質をエネルギーにする戦国時代のパワーフード。

「握り飯の糖質をエネルギーとして戦うにはビタミンB1が欠かせません。麦や豆味噌にはビタミンB1が豊富に含まれているので、戦場でのエネルギー効率がよく、存分に戦うことができたでしょう」

男たちはなぜ「天下取り」に命を懸けるのか。それは自分の望む理想の国造りをしたいから。現代でも、武将の天下統一と同じく政治、ビジネス、スポーツなどの各分野で頂点を目指すには、食を通して体内に取り込んだ成分を活用するしかない。「米」が重要なのだ。

「生野菜を食べる機会が少ない昔の人が栄養失調にならない理由は、白米よりビタミン豊富な麦飯や玄米、雑穀米を食べたから。戦う男に不可欠なテストステロンも、これらに含まれるアミノ酸から体内で作られます。戦乱の世を勝ち残るのはテストステロンが十分に出ている武将。枯渇すると天下取りから脱落して、死ぬか余生を送るしかない。粗食に見える戦国時代の食を見直すべきです」

安芸国(広島県西部)の小さな領主から、下剋上で中国地方ほぼ全域を支配する大名になった毛利元就の好きな食べ物は餅だった。『吉田物語』という書に「元就は常に餅を用意していた」とある。

「餅はアルギニンが豊富でテストステロンの元になる。餅腹三日という言葉があるように、腹もちがよく高カロリーで戦場にも携行しやすい。白米の飯だと食べて2、3時間後には空腹になりますが、餅なら戦場で臨戦態勢が保てます。元就は生涯に二百数十回もの戦を勝ち抜いたと伝えられる剛の者ですが、その勝ち戦を支えた兵糧こそは餅だったといえるでしょう」

毛利元就の勝負メシ
毛利元就の勝負メシ「餅」/餅、鰯の塩焼き、里芋とゴボウの煮物、根菜の汁椀、香の物。腹もちがよくカロリーも高い餅は戦場の兵糧に最適。元就は餅を好み、副食物として頭から食べられる鰯の塩焼き、滋味豊かな根菜などをバランスよく食した。

上杉謙信の軍記『北越軍談』には「兵糧丸のたぐいを腰の小袋に貯えておくのも、各自の才覚なり」と記されている。作り方は家によって異なるが、米、ソバ、大豆、麻の実などを粉末にして酒に浸し、丸薬にして行動食とした。

「戦になると、部隊の集合場所までは各自、腰弁当で移動しなければならなかった。握り飯を持っていったり、干し飯を持っていったり、兵糧丸を持っていったり。

戦場に入ったら、飯を用意する専門の部隊があって大釜で米を炊きます。だいたい1日1升ずつ、全員に支給されますね。朝2合5勺、昼2合5勺、夕2合5勺、夜2合5勺、毎日4回食べます。貧しい農民の子など、ごはんが食べられるという理由で足軽になる。現代人の何倍も米を食べて戦っていました。

明智光秀はちょっと例外で、自分の兵に米を8合しか支給しなかったと記録が残っています。なぜか他の大名より2合少ない。ケチだったのかもしれません」

生涯、麦飯を食した家康が安定した世の中を築いた。

人間五十年といわれた戦国時代、平均寿命は37歳から38歳ぐらいだった。その中で260年余り続く幕藩体制の礎を築いた徳川家康は75歳まで長生きした。

家康は、若い頃から晩年まで一貫して麦飯を食した。『名将言行録』には、家康が岡崎城にいた頃、家臣が忖度してお椀の底に白飯を盛り、上に麦飯をかぶせて出したところ、家康が激怒したというエピソードがある。

「余計なことをするな、自分はポーズで倹約をしているわけではない。率先して倹約すれば、いささかなりとも戦費の足しになり、戦場で満足な寝食もできない下々の者のいたわりになるのだ」というのが家康の真意だったが、その麦飯こそ栄養価が高く、結果として長寿になった

徳川家康の勝負メシ
徳川家康の勝負メシ「麦飯」/麦飯、豆味噌の汁椀、焼き鳥、香の物。生涯、麦飯を食べ続けた家康の趣味は鷹狩り。獲物の渡り鳥を焼き鳥にして食べ、強壮な肉体で天下人に。渡り鳥の肉は現在では手に入らないので鶏肉で代用。

「家康もそうですが、名の通った戦国武将はみんな鷹狩りをしています。そして獲物を食べました。当時は鶴がよく獲れて、戦国武将は大いに食べた。あれは渡り鳥ですから胸肉が多くて、イミダゾールペプチドなどの栄養がある。身体壮健になるわけです。

家康など75歳の正月まで鷹狩りに出かけた。そこへ京都から豪商の茶屋四郎次郎が来たので、家康が何かうまいものはないかと尋ねると天ぷらを勧めるんですね。正月だから鯛を天ぷらにしたら、その晩から腹をこわして寝込む。

4月に亡くなりますが、死ぬ間際に刀を持ってこさせて、徳川の世の守り神になる儀式として刀を振り回して死にました。75歳にして、それだけ体力があった。天下を取る人は身体壮健でないと、家臣がついてこない。家康は武家の鑑です」

飯と汁と鳥肉と香の物。これだけ揃えば天下の勝負飯だ。その気になれば今日から真似ができる。

取材・文/坂田滋久(本誌) 撮影/小川朋央 料理・スタイリング/渡邊美穂 取材協力/永山久夫(日本人の長寿食研究会会長)、鈴木晴香(味の素KKビクトリープロジェクト科学スタッフ・管理栄養士) 撮影協力/UTUWA (tel. 03-6447-0070)

初出『Tarzan』No.783・2020年3月12日

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