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学校で「健康」を学べればターザンは不要? 早大スポーツ科学学術院・中澤篤史先生に聞く②

体育

写真はイメージです

私たちが体育を再び考え直すための手がかりについて、早稲田大学スポーツ科学学術院・中澤篤史先生にお話を伺うインタビューシリーズ。第2回では、「なぜダイエットや筋トレなどの健康情報は学校できちんと教えてもらえないのか?」をテーマに、体育を取り巻く問題に迫ります。

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現代の体育ではどんなことが教えられているの?

――そもそも大人になって健康やダイエットのために筋トレやランニングなどをしようにも、僕たちは学校で正しくフォームを習った記憶がないんです。そのときになって雑誌や本を活用したりして、自分で勉強しているわけですよ。

でも健康って、社会生活を安心して営んでいくためにも必要な知識ですし、「そもそも学校で健康についてちゃんと教えてもらえれば『ターザン』なんて不要では?」と思うんです(笑)。

中澤篤史先生 早稲田大学スポーツ科学学術院

中澤篤史(なかざわ・あつし)/1979年、大阪府生まれ。早稲田大学スポーツ科学学術院教授。博士(教育学、東京大学)。専門はスポーツ社会学。著書に『運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社、2014年)、『そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義』(大月書店、2017年)、『「ハッピーな部活」のつくり方』(岩波ジュニア新書、2019年、内田良との共著)がある。

中澤:なるほど、ではまずは、今の体育で何が行われているのかを考えてみましょう。今の体育では3つの柱があって、「体つくり運動」「スポーツ」「体育理論」というのをやっていくことになっています。体つくり運動は20年ぐらい前にできたので、30代以上の方はあまり知らないかもしれませんね。これは「私とあなたの身体を通じたコミュニケーションを図ろう」「いろんな体の動かし方を学ぼう」とか、そういったことを目標に据えた授業です。

――実際には、どんなことをやるんですか?

中澤:たとえば二人一組になってストレッチをやるわけです。まず相手を押してあげると「いてててててて! 痛いじゃないか!」と言われる。で、交代して今度は自分が押してもらう側になると「たしかに痛い!」と。それで「ストレッチすると痛い」という体験を通じて、私とあなたの身体が同じだということを認識するわけです。

――なんとなく意図はわかるのですが、そんな授業でいいのだろうかという気が…。

中澤:たしかに「押されたら痛い」というのは誰でも理解できる事実だけれど「だから何なんだ?」で終わってしまって、一回やったら飽きちゃうんですよね。「いきなりスポーツをやるのではなく、自分の身体を認識しよう」というお題目はいいのですが、伝えたいことと実践のレベルにギャップがあって、現場の評判はすこぶる悪い。

一方で「体育理論」は知識を学ぼうとして、そのための材料として保健体育の教科書が用意されています。そこでは「健康を保つにはこういうトレーニングが効果的だよ」ということが解説されています。

現在、中学・高校で使われている保健体育の教科書。(中澤研究室所蔵)

現在、中学・高校で使われている保健体育の教科書。(中澤研究室所蔵)

――おおー、そうなんですね。今の教科書をパラパラとめくってみると、かなり「勉強」っぽくなってきていますね。たとえば「医療サービスとその活用」というページがあるなど、非常に充実してきているように思えます。

中澤:そう、内容はなかなか興味深いんですよ。ただ、実際に教室でこの教科書がちゃんと活用されているかどうかは別。僕の研究室の学生たちに聞いても、中学や高校で教えられるはずの体育理論を学んでいないことも多いですね。昔、「雨降り保健」という言葉がありましたが…。

――保健体育の授業では、晴れの日は外で実技をやるけれど、雨が降ってグラウンドが使えないときは体育の先生が「今日は保健な」と言って座学をやる、というやつですね。

中澤:今、保健体育の教科書が充実してきていて、最新の体育理論を学ぶ環境は整ってきてはいます。でも、実践のレベルではもしかしたら「雨降り体育理論」になってしまっているかも。実際には保健も体育理論も、必修なので「やっていることにはなってる」んですよ。

――実際には授業できちんとやっていなくても「やったことにする」わけですね。でも、本当なら体育の授業で、この保健体育の教科書に載っているようなトレーニングを習えればいいなと思うのですが…。

中澤:体育教師がウエイトトレーニングを教えたいと思っても、人数分のダンベルがないとか、ベンチプレスの器具が足りていないとか、学校によって設備に差があるという問題があります。逆に部活の強豪校だと、ジムの設備を揃えていて専門的なトレーニングができたりするけれど、運動部員だけがそれを使っていて、一般の生徒たちにちゃんと実践が行き渡っていなかったりもする。体育理論のような勉強と、実践、そして社会のニーズがうまく繋げられていない、というのが現状ですね。

「体育」と「スポーツ」、実は違うもの?

スポーツ用具

写真はイメージです

――うーむ、なるほど。お話を伺っていてちょっと思ったのが、「体育」と「スポーツ」って、もしかして違うものなんですか?

中澤とても大事な論点です。前回の最後で言ったとおり、体育というのは教育なんですよね。教育というのは、今は学校教育の枠組みで行われていることです。そして学校というのは、権力装置です。

――学校は権力装置、とは!?

中澤:学校生活が楽しかったら、たしかにハッピーですよね。でも、学校というのは嫌でも行かなければいけないし、不登校は許されない風潮があるし、「遊んでないで勉強しなさい」と怒られる場所ですよね。その勉強という「強いられるもの」の中に、体育という教科があるわけです。であれば、体育というのは好き嫌いを超えた、嫌かもしれないけれども大切なことをやらせている時間なのかもしれない。

――他の授業はすべてそうですね。学校で教わる国語も数学も、やらされるものであって、必要だからやらなければいけない――ということにみんなが合意していることになっているから、成り立っている。

中澤:はい、ところが体育の場合、ある時期から学習指導要領に「体育を楽しむ」という言葉が表れ始めるんです。たとえば体育で水泳を行うにしても「遠くまで泳げる身体を作るために水泳を習う」という意味付け方と、「いや、泳ぐ楽しさを味わうために水泳をやるんだ!」という意味づけ方がありえます。「体育は必要だからやる」のではなく、「体育を楽しむ」というふうに目標を変えたときに、かえって体育という教科の教育的基盤が大きく揺らいでしまったと僕は考えているんです。

――どういうことですか?

中澤:たとえば教育行政でいうと、もともと「スポーツ庁」なんて役所はなかったんですよ。昔は文部省の中に「体育局」という局があり、そこに「競技スポーツ課」という部署があって、体育という概念のなかにスポーツがあった。やがて文部省が文部科学省に変わる時に体育局が廃止されて「スポーツ・青少年局」ができて、体育とスポーツの区別が曖昧になっていったんですが、文部科学省の中にスポーツ局があるから「教育の中にスポーツがある」という枠組みは維持されていたんです。

ところがその後、スポーツ庁という文部科学省の外局ができて、スポーツ庁の「政策課学校体育室」の中に「教科体育」と「運動部活動」がある、という構造になってしまった。さらに現在進められている「部活動の地域移行」政策に絡んで、学校体育室は「企画調整室」というネーミングに変わり、運動部活動は「地域スポーツ課」が預かることになった。もはや教育としての体育の面影は消え去ってしまったように思います。昔は「体育の中にスポーツがある」という構造だったものが、今は「スポーツの中に体育がある」に逆転してしまったんです。

文科省組織図、スポーツ庁組織図より一部抜粋した概念図(編集部作成)

文科省組織図スポーツ庁組織図より一部抜粋した概念図(編集部作成)

――体育は「嫌かもしれないけど、やらないといけないもの」で、サッカーやバレーボールなどのスポーツは「楽しいからやるもの」なわけですよね。

でも今は「体育の日」が「スポーツの日」に、「国民体育大会(国体)」も「国民スポーツ大会」に変わるなど、「体育」という言葉が嫌われて、「スポーツ」というなんとなくイメージのよさそうな言葉に言い換えられている感じがします。

中澤:そう、今は体育の「嫌かもしれないけど、必要なことだからやろう」というロジックが消え去って、「楽しいからやるもの」というふうになった。いわば、まがいもののような楽しさによって支えられた教科になってしまっているわけです。

なぜ学校で体育を学ばないといけないの?

――体育の中のスポーツから、スポーツの中の体育へ、逆転してしまっている状況がある、と。そうすると本来なら、「学校教育のなかで体育をやる意味は何なのか」「体育のなかでなぜスポーツをやるのか」が、議論されないといけないのではないですか?

中澤:まったくその通りです。先に結論を言ってしまうと、そこの部分のロジックはあんまり固まっていないんですよ。

僕は以前、「体育の教科の中で何を勉強させたがってるのか」ということを、保健体育の教科書を分析して論文を書いたことがあるんです(中澤篤史「なぜ体育でスポーツを学ぶのか -保健体育教科書の試論的分析- 」『体育の科学』71(10)杏林書院、2021年)。

するとわかったことは、教科書の中の正当化のロジックって大きく2つあって、1つは「スポーツが健康の役に立つから」とか「スポーツは仲間づくりに役立つ」とか、スポーツ以外の外在的な価値に訴えて、そのための道具として「スポーツは役に立つんですよ」と正当化するパターンです。

でもこれにはすぐにツッコミが入る余地がある。スポーツをすると怪我するじゃないですか、するとスポーツは健康に悪い、かもしれない。だから「健康」という外在的価値だけで単純にスポーツを正当化できない。そのため教科書では、「健康に良いスポーツをするために、怪我をしないようなスポーツのやり方を学ぼう」という奇妙なロジックになっているんです。

――なるほど。

中澤:そして2つ目は、これはもうロジックとは言えないんですが、わざわざ外在的価値を持ってくるわけではなく、ある意味自然な流れでスポーツの学習がはじめられていることです。たとえば教科書本文1ページ目1行目が「スポーツの歴史」で始まるんですよ。「スポーツを何のために学ぶべきか」という話をすっ飛ばして、いきなり「皆さんも楽しんでいるスポーツですが…」というふうに始まる。

――「世の中にはスポーツ嫌いな人もいる」、という想定がない…。

中澤:そうです。たしかにスポーツを知らない人はおそらくいないし、スポーツを知っていて学校生活を送っているという想定もそれほどズレてはいないかもしれません。でも突き詰めて考えたときに、「何でスポーツをやらなければいけないのか」という理由が、学習指導要領でも固められていないわけです。

これはスポーツが学校教育の占有物ではない弱点なんですよね。学校でしか学べないことだったら、みんなゼロスタートで学び始めるんだけど、「スポーツを学ばなければいけない理由」が、「学校の外でもうみんなスポーツを知っているよね」ということで構成されてしまっている。サッカークラブでサッカーを習っている子とか、スイミングクラブで水泳を習っている子に授業を手伝ってもらう、ということを前提に体育の実践が行われてしまっているわけですね。

――うーん、それはスポーツというものの「驕り」のようなものを感じてしまいますね…。

中澤:スポーツ業界やスポーツ愛好家たちの驕りは大問題だと思いますよ。私なりの“愛”を込めて、「スポーツよ、あんまり調子に乗っていると足下すくわれるぞ」と警句を放っておきましょう。

個人主義をベースにした体育観を

ストレッチをする子供

写真はイメージです

――体育の授業で本当にやるべきことというと、たとえば「ダイエットをどういうふうにやるか」というテーマはとてもニーズが高いはずです。

もちろんルッキズムの問題もありますし、「太っていたって構わないじゃないか」という意見も尊重されないといけないですが、肥満の健康リスクが高いということも医学的には確かなことなので、公教育でやってみてもいいはずですよね。

中澤:ダイエットということでいうと、僕自身が大学生だったとき、生理学の授業のテーマが「ダイエット」だったんです。半年間、15回の授業でいろんな論文を読んで、人間の体重の恒常性や、栄養と代謝メカニズム、摂取カロリーのバランスなどを学んでいった。その授業の先生が「最初の授業でみんなで体重測定をして、15回目の終了の時に一番ダイエットできた学生が優勝にしよう」という裏メニューを用意していた。学びながら、自分の体重を落としていくバトルをするわけですね。

――おー、なるほど。

中澤:やってみると、途中で「我慢できずにラーメン食べに行っちゃった」とかそういうことが起きる(笑)。結局、最後の授業前に断食して水分を摂らないという、減量中のボクサーみたいなことをみんながやり始める。それで授業が終わってみんなでチムニーで飲み会をするんだけど、誰もトイレに行かないんですよ。もう体内の水分がカラカラだから。

――「体重を減らすには絶食して水分を摂らなければいいだけ」ということを、実体験で学ぶわけですね。でも、そこから「たしかに体重は減ったけど、それでいいんだっけ?」という、新たな問いにもつながりそうです。

中澤:そんなふうに自分のカラダに引きつけて、または日々の生活に落とし込んで、体育的な知識を身に付けることも可能なはずです。今はスマートフォンやスマートウォッチなどで歩数や心拍数など、さまざまな数値を見ることができます。そういったモニタリングテクノロジーを活用して、自分のカラダを客観的な指標で記録したり、ある刺激や介入でどう変動していくのかを知ったりして身体を探求する。そうすれば、「楽しいスポーツ」なんて言わなくても、主体的な関心を引き出せる授業ができるはずなんですね。

――考えたこともなかったですが、たしかにそれも立派な「体育」の授業ですよね。

中澤:ただ、また別の問題があって、現場の体育カリキュラムって非常に他者関係を重視するんですよ。

――どういうことなのでしょう?

中澤:第1回で話したジグソー法の実践のように、「上手い子は下手な子を教えてあげよう」「みんな仲良くやろう」「フェアプレー精神を身に着けよう」といったことを、授業のなかで展開したがるわけです。もちろんそれはそれで大事なことですが、出発点を他者関係ではなく、「まず自分のことを自分で知る」という方向に振ってもいいはずなんですよね。でも、なかなかそうはなっていない。

――体育会系の人は「集団のなかの個人」という発想が好きな傾向がありますよね。でも非体育会系の人は、スポーツの競争的な部分とか、チームスポーツの中で迷惑をかけてしまうことで、苦手意識を感じてしまう。

面白いのは、そんな彼らでもランニングや筋トレなどの一人でできる運動は継続できたりするんです。そう考えると、「一人でのスポーツ」って、実は大事かもしれないですね。

中澤:僕も昔はサッカーをやっていましたけど、もし今サッカーをやろうと思っても、11対11のサッカーはなかなかできない。先日、久しぶりに10人ちょっと集まることができて、フットサルをやるのが精々でした。ラガーマンたちが40歳になって15対15で集まってやっているのも、見たことないですからね。

生涯スポーツとして楽しむにはもう少し少人数、もしくは「個人でやる」ということを基盤に置いたほうが継続しやすいわけです。最近の大人のスポーツ実施率は増加しているんですが、何が伸びているかというとジョギングとウォーキング。要するに、「個人で行う軽運動」が盛んになっているわけです。

――なるほど、もし学校体育を組み直すのであれば、「個人で行う軽運動」、たとえばウォーキング、ジョギング、さらに加えるなら自体重を使った手軽な筋トレなどにフォーカスしたほうが、教育という公的なものとしては成立しやすいのかもしれないですね。

中澤:チームスポーツを中心にスポーツ像を語っているせいで、今の実社会でのスポーツの潜在的需要を取り逃がしているという状況はあると思います。だから体育の授業を再構想するのであれば、「個人で行う軽運動」をメインに考えていく必要があるでしょうね。

僕も大学で体育実技を教えたことがあります。「ウォーキング」という授業を立ち上げて、どうすれば快適に歩けるかを各々考えてもらうために、服装や格好を自由としました。すると女子学生がハイヒールでやってきて「先生、これでも良い?」と聞くので、想定される怪我などの危険性を伝えながらも、本人の希望を尊重して「ええよ」と答えて、ハイヒールのまま歩くことに。90分歩き回った後、その学生は「もう足がくたくた。今度からスニーカーにするね」と、大いなる学びを得たようでした。こんな失敗経験も、実社会に出る前のウォーキングの“練習”として意義があったかなと思いますね。

『ターザン』が(逆に)政策提言を出すべき!?

――逆にこれまでの体育ではなぜこれほど、競争的なスポーツが取り入れられてきたんでしょう?

中澤:今も昔も体育の実技でやる内容は、球技、水泳、陸上が大半を占めています。そこには世知辛い事情があって、各スポーツにはそれぞれ競技団体があって、「うちの競技を体育でしっかりやってください!」ということがあるわけです。学校体育で何をどれぐらいやるかは、それぞれの競技を普及させたい団体の綱引きによって変わってきます。ニュースポーツやマイナースポーツの競技団体は体育に入ることを強く希望していますが、既存のメジャースポーツの壁が分厚く、希望はなかなか叶わない。

――なんとも世知辛い(笑)。

中澤:一方で最近の若い学生には優しい子が増えていて、「スポーツで競争をして勝ち負けをつける」ということの暴力性を、非常にネガティブなものとして受け止めていたりする。「ぼくはレギュラーじゃなくていいよ。試合に出られない他の子がかわいそうだから」と考える子どもが現にいるわけです。

社会全体がそうなっていくと、「スポーツの競争性を薄めた形でスポーツ的なものを楽しめるようにする」という方向性か、あるいは「競争性を完全に脱色した個人のジョギングのようなものとして実践する」という方向性になっていく。政府やスポーツ界が「スポーツ、スポーツ」と言っている裏側で、そういった無意識下での人々の選択が進んでいるように思います。

――おそらく教科体育の問題をも超えた大きな流れとして、競争型のスポーツの矛盾や欺瞞に人々の目が向けられるようになっていて、スポーツというものを成り立たせていた基盤自体が、実はかなり脆弱になってきているということがあると思うんです。

そうなってくると、逆に『ターザン』が発信しているような「個人で行う軽運動」は、実は社会のニーズに合っているのかもしれないですね。それに『ターザン』を読んで内容を実践するかしないかは、学校教育と違って自由なわけですし、選択の余地があるという意味ではいいのかも(笑)。

中澤:うん、むしろ『ターザン』が持っている情報やノウハウを学校体育に売り込んでいったっていいわけですよ。公教育に入っていくときには、もちろん利益誘導の問題が出てくるけれども、実際に学校が供給できている教育内容と社会のニーズにギャップがあるのであれば、読者のニーズに向き合っている『ターザン』のようなメディアがそれを埋めていくという方向性は、ありだと思います。

――…なるほど!? 今回は「『ターザン』不要説」から始まったのですが、考えたこともなかったですけど「『ターザン』が学校体育に対する政策提言をする」ということだって、あってもいいのかもしれないですね…!

しかしお話を伺っていて、私たちは「体育」「スポーツ」「身体」「健康」ということについて、言葉にできていなかったことがあまりにも多く、解像度が低かったんだなと思います。それには歴史的な経緯もあるんじゃないかと思うのですが…次回はそこも詳しく、聞かせてください!

取材・文/中野慧、『ターザン』編集部 撮影/安田光優

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