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“スリップインするだけ™”じゃない!《スケッチャーズ スリップ・インズ》快適学。
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みなさんは「学校での体育の授業」というと、どんなことを思い出すでしょうか。楽しい思い出よりも、もしかしたら「体育の授業がきっかけで運動が嫌いになった」という人のほうが多かったりする…かもしれません。そこで今回、スポーツ社会学・身体教育学を研究している早稲田大学スポーツ科学学術院の中澤篤史先生に、「体育の授業で運動嫌いが生み出されているのでは?」という疑問をぶつけてみました。※このインタビューシリーズは全3回。今回は第1回です。
――『ターザン』は「快適な生活のためのフィットネス」をテーマに情報発信をしているのですが、身近では「学校での体育をきっかけに運動が嫌いになった」という声もあります。そこで今回は、スポーツ社会学と身体教育学がご専門の中澤先生に「学校の体育は運動嫌いを生み出しているのではないか?」をテーマに、お話を伺えればと思います。
中澤:「『ターザン』で学校体育のことを考えよう」というのは面白いですね(笑)。でも実は体育研究者やスポーツ研究者たちって運動好きが多いので、「なぜ運動ぎらいが生まれてしまうのか」という問いに、きちんと取り組めていなかったかもしれません。
僕は今回、研究者代表としての回答を期待されていますが、研究成果をもとに発言するだけだと答えられない部分もあるので、多分に僕自身の個人的な思いも込みでお話ししたいと思います。
――よろしくお願いします! まずそもそも体育の授業って、逆上がりができないとか跳び箱が飛べないとかいうことでみんなの前で恥ずかしい思いをさせて、運動全般へのトラウマを与えているように思うんです。
中澤:数学や国語のテストができる/できないということであれば個人の中に留まるものですけど、体育って「かけっこしたら遅い」「逆上がりができない」ということが非常にビジブルに、誰の目にも明らかにわかってしまうんです。
――「他の人に向けて暴露される」ということですね。
中澤:体育の授業の場面でも、チームスポーツをやるときにそれが顕著になります。ドッジボールで当てられる、バスケットボールでシュートしてもゴールが入らない、バレーボールでサービスが回ってきたらサーブミスしてみんなが白けちゃう…。
――「うまくできない」ということが、単に恥ずかしいだけではなく、他の人に迷惑をかけることにもなってしまいます。
中澤:できる/できないの問題が個人を超えて、集団の中で評価されるような構造が、体育の授業では生まれてしまっていると思います。そもそも学校という空間は同調圧力が強い。そんな場で「できない子」は非常にストレスを感じ、スポーツをやると馬鹿にされるからスポーツ自体をやりたくなくなってしまっているかもしれません。
――昔は数学や国語などでは「テストの成績を廊下に貼り出す」ことをやっていたけど、少しずつ廃止されていったわけですよね。なぜ体育だけが「体力テストの結果を発表する」ことがOKなのでしょうか?
中澤:いや、OKじゃないかもしれないですね。ただ、スポーツというものが本質的に競争原理を内包していて、数学のテストの成績を競い合うこと以上に「1500メートル走のタイムを競い合う」「ハンドボール投げの数値を競い合う」ということが、体育の授業を実践する体育教師のなかで、どうしても自然に結びつきやすいのでしょうね。
――そもそも、身体能力の異なる児童・生徒・学生を、1〜2人の体育教員が一律に指導すること自体に無理がある気もするんです。
中澤:「それぞれの学習進度や能力に応じて適切な内容を学ぼう」という習熟度別の授業への移行は、数学や英語などでは進んでいますよね。でも体育では習熟度別の授業ってあまりない。むしろ「上手い子が下手な子を教えよう」というふうになっています。
たとえば体育の実践では「ジグソー法」というものがあります。四人一組ぐらいで組んで上手い子が下手な子を教えて、さらにメンバーが移動して違うグループに入ってジグソーパズルのように人間関係を入れ替えながら、全体としてできるようになっていく、というものです。ただ、ジグソー法の実践は「できない子が出来るようになっていくことに価値がある」「できる子がそれをサポートすることが道徳的に素晴らしいことである」ということが前提になっている。
――なぜか道徳教育を兼ねていますよね。
中澤:体育が道徳教育になってしまうことの問題は後で詳しく分析したいですが、まずは「能力差をどう捉えるのか」ということにフォーカスしてみましょう。ひとつ現代の体育で特徴的な問題は、男女共修(男女一緒の体育の授業)が推し進められていることですね。
――「男女を区別せずに一緒に体育をやる」というのは、いいことな気もするのですが。
中澤:もちろん、うまく男女共修が進んでいる事例もあります。でも逆に、「運動が得意な男子」「運動が苦手な女子」というジェンダーバイアスを、授業のなかで強化してしまうことにもなりかねない。
――ジェンダーバイアスの強化とは…!?
中澤:男女などの属性に応じた区分けがスポーツの中で正当化されるのは、いわゆるアファーマティブ・アクション(※)の発想があるからです。
たとえば昔のアメリカでは、人種差別によって黒人がスポーツの場から排除されていました。そこで「まずは黒人だけの体育大会をやろう」ということでやって、しだいに白人・黒人の区別をなくしていった。「黒人だけの大会」は一見差別的にも思えますが、歴史的には必要だったとも考えられるわけです。
ジェンダーに関しても同じような構造があって、これまで女子は歴史的にスポーツの場から遠ざけられてきたわけです。そんな状況で、もしいきなりサッカーの大会を「男女一緒にやろう!」と一足飛びにやると、試合に出られるのはすでにサッカー経験が豊富な男子だけになってしまいますよね。
――男子に比べて女子はサッカー経験の浅い人が多いでしょうからね…。女子はなかなか試合に出られないかもしれないですね。
中澤:女子が試合に出られないと、ますますスポーツをする機会から遠ざかってしまいます。そこで、女子のスポーツ機会を確保するために「女子だけの大会をやろう」という発想が出てきた。歴史的には、能力の違いと人種やジェンダーの違いに対応する必要性もあったわけです。
――なるほど。「黒人だけの大会」「女子だけの大会」というのは、社会の差別的な構造をそのまま受け入れているというよりも、黒人や女性というだけでスポーツの場から排除されていた人たちに、スポーツの機会を開くためという意味合いがあったんですね。
中澤:でも、そういう歴史的経緯を無視して、形だけ「男女平等だから体育も一緒にやろう!」というふうに強引に進めてしまうと、うまくいかなくなってしまう。単純に「表面的な違いをなくせばいい」というだけの問題ではなかったりするわけですね。
――ジェンダーの問題は、体育の授業における能力差を考える上で、とても大事な論点なんですね。
中澤:今はたとえば複数のクラスや学年で一緒の時間に体育をして、バスケットボール、バトミントン、サッカーなどいくつかの選択種目を用意する学校が増えています。だけど、そこでは能力差が十分に考慮されていない。たとえば「バスケットボール」の授業では、実際のバスケットボールのルールでしかプレイしないわけですよね。
――それの何が問題なのでしょうか?
中澤:すでにバスケが上手い男子がいて、経験のない女子と一緒に試合をやると、女子がうまくできなかったりして、「男子に申し訳ない」というふうに引いてしまい、またスポーツから遠ざかってしまいます。
こういう問題を根本的に考えると、能力差もまた1つの「差別」につながるんじゃないか、という考えに行き着くかもしれない。もしそうなら能力差を回収するためには、たとえばルールを改変する必要があるでしょうね。
――ルールを改変する…!?
中澤:女子や不得手な生徒に対してハンディキャップを与えながら、対等に楽しめるように工夫をする、ということです。パラリンピックで行われている車椅子バスケットボールは、障害の重さに応じて選手それぞれの持ち点が割り振られ、チーム内でトータルの持ち点数のなかで選手の特徴をどう配分するか、というゲームルールになっています。
勝ち負けを決める競争型のスポーツだけれども、協力しながらボールを落とさずにゴールに運んでいくことがチームの達成として評価される。そうすると、個人対個人で「どっちがうまいか」を比較する構造が消え去っていく可能性が出てくるわけです。
――なるほど、スポーツの「個人と個人の競争」という残酷な側面を緩和することにつながりそうですね。でも、体育の授業でそれをどういうふうにやったらいいんでしょう?
中澤:まずはルールは疑っていいんだ、という発想を持つことが大事ですね。その上で、既存のスポーツが楽しめなかったら、たとえばこんなのはどうでしょう。生徒たち自身で既存のスポーツを分類してみて、どういうふうにルールを変えればもっと面白くなるかを考えてみるんです。
体育の授業で、オリンピックルールに従ったスポーツをそのままやる必要は全くありません。教育なのだからそこは改変していいし、むしろ「スポーツをどう変えていくか」「新しいルールをどうするか」を子どもたち自身が考えていく。既存のルールにただ従属するだけではなく、授業のなかで「スポーツをクリエイトする」んです。
――「スポーツをクリエイトする」体育の授業ですか。たしかにそれは可能性として大いにありえそうですが、今までなぜその発想がなかったんだろう…!? と思ってしまいました。
中澤:僕もふだんの授業やゼミで、体育会系の学生を教えることが多いですが、ルールを変えるのに臆病なスポーツマンは多いですよね。学生を批判するわけじゃないけれど、彼らは「質問」を積極的にするところがあります。もちろん質問すること自体はいい面もあるんだけど、質問したら答えを与えてくれると思っている節がある。
――なるほど、私も学生スポーツの経験者ですが、体育会系出身者は「無理にでもルールに合わせて頑張る」ということを美徳としてしまって、ルールそのものを疑ってかかったり、ルールを創り変えるのが苦手な傾向はある気がします。
中澤:でも、世の中の課題には答えがないことも多いわけです。「自分で答えを創る」――それこそがクリエイティブであるということですよ。
先生に質問して答えをもらうのではなく、「こんな風な答えを作ってきたんですけど、先生はどう思いますか?」という発展的なコミュニケーションができるようになっていくといいのですけどね。
――ルールを遵守することがスポーツマンシップだという刷り込みが強すぎて、問題設定そのものを組み替える思考に慣れていない、ということが体育会系気質の問題なのかもしれないですね。
――今まで考えてもこなかったですけど、体育やスポーツをめぐる問題は「前提を徹底的に疑う」ということから始めないといけないんですね。
中澤:前提を疑うということで言うと、みなさんがよく言う「体育教育」という言葉って、本当は間違った言葉使いなんですよ。
――どういうことなのでしょう?
中澤:「体育」は江戸時代まではなかった言葉で、明治になって初めて作られた言葉です。
明治の近代化の際に、教育にはインテレクチュアル・エデュケーション(Intellectual Education=知育)、モラル・エデュケーション(Moral Education=徳育)、フィジカル・エデュケーション(Physical Education)の3つがあるという、いわゆる三育思想が欧米から輸入されました。
そのフィジカル・エデュケーションを翻訳するときに「身体教育」という四文字熟語が作られて、それを省略して「体育」という言葉ができたんですよ。
――なるほど、「体育教育」というのは「身体教育教育」という、変な言葉になっているわけですね。でも「体育教育」とついつい言いたくなっちゃう感じがあります。
中澤:おそらく多くの人は「体育」をもはや教育とは思っていない。それは「運動すること」「辛いトレーニングをやらされること」というように、教育とは別の修行や苦役だと感じているのかもしれません。
でも、近代化当初には「人を育てるためには身体を育てることが不可欠だ」という認識があったんです。その感覚が、今はかなり薄れてきているのでしょうね。「体育」をその前提から疑って考えていくためには、実はこういう言葉の歴史を押さえていくと見えてくることは多いです。
――うーむ、ではその点から次回、伺っていきたいですね。中澤先生、次回も引き続きよろしくお願いします!
取材・文/中野慧、『ターザン』編集部 撮影/安田光優