研究結果:運動すると記憶力が増す(歩くだけでも)
トレーニング後に頭が冴えたような感覚になるのは、決してプラシーボ効果ではない。これには運動によって分泌される物質が大きく関わっている。カラダの中で何が起こり、脳機能にどう影響するのか、エビデンスを元に探究しよう。
取材・文/石飛カノ イラストレーション/松原 光 取材協力/橋本健志(立命館大学スポーツ健康科学部スポーツ健康科学科教授)
初出『Tarzan』No.811・2021年5月27日発売
目次
脳の認知機能ってなんだ?
雨雲が近づいてきたから洞窟に帰ろう。獣のフンを辿って狩りのルートを決めよう。このように、外部の情報を集めて処理をするのが脳の認知機能。知覚や記憶なども認知機能の一部だが、人が生きていくために最も重要視されているのが「実行機能」と呼ばれるものだ。
これは目標を達成するために適切な行動を実行する能力のこと。単一の機能ではなく外部情報や過去の経験をすり合わせ、最適解を導き出すというハイレベルな機能だ。
さっきライオンの姿を見かけたので(短期記憶)、別の道を選び(柔軟性)、日暮れが近づいたので獣の深追いをやめ(抑制能力)、ドングリを拾って帰ろう(判断能力)。という具合に、さまざまな情報をフィードバックさせて最適な行動を選択する。
サッカーのゲームでパスかシュートかドリブルかを瞬時に判断するのも実行機能のなせる業。
この能力を統合し、調整しているのが脳の前頭葉。『SPARK』の著者、ジョン・J・レイティ博士が言うところの「脳のCEO」だ。
運動で前頭葉の神経活動が高まるのであれば、よりよく生きるために最も必要な実行機能が鍛えられる可能性も大ありということ。
脳はカラダで一番の大食漢。
ヒトが1日に消費するエネルギーの6〜7割を占めているのが基礎代謝。これは何もせずにじっと横たわっているとき、全身の臓器や骨格筋などで消費されているエネルギーのこと。成人男性なら約1500キロカロリー分の熱量だ。
で、この基礎代謝量のうち約20%の取り分をさらっていくのが脳。27%の取り分の肝臓の重さは約1.5kg、25%を消費する骨格筋は約25kg、これに対して脳は約1.4kgなので全身の中でもかなり大食らいの臓器といえる。
1000億個もの神経細胞が常に情報をやりとりするには、それだけのエネルギーが必要ということだ。
その脳が消費するエネルギーとして平常時に最も活用されているのが、3大栄養素のうちの糖質。飢餓状態では脂肪分解の際に作られるケトン体もまた、脳のエネルギーとして消費される。
運動は脳の神経細胞を増やしもするし、神経細胞の活動を高めもするが、その働きを支えるエネルギーなしには立ち行かない。運動するならまず栄養が必要という話。
運動開始直後に、脳から神経伝達物質が分泌される。
脳の神経細胞同士は神経伝達物質という化学物質を介して交信している。とくに精神状態を安定させるために必須とされているのが、ノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニンという神経伝達物質だ。
運動とこれらの物質との関わりを、まずおさらいしておこう。運動は脳やカラダにとってはある意味、ストレス。安静時に比べて心拍数は上がり、呼吸は速くなり、ときには発汗する。つまりシンドい。
この事態に対処するため、脳の交感神経でドーパミンから合成されたノルアドレナリンが放出される。ノルアドレナリンは副腎という臓器に働きかけてアドレナリンというホルモンの分泌を促し、心拍や血圧を上げて呼吸を速める。同時に覚醒、意欲、注意力を呼び覚ます。
一方、有酸素運動で脂肪が分解されると、脂肪酸がトリプトファンというアミノ酸とくっついていた輸送タンパク質を奪い取る。身軽になったトリプトファンが脳に送られて精神安定作用のあるセロトニンが合成される。走った後、スッキリするのはこうした理由。
認知症の最大の原因は、日頃の運動不足にある?
2050年には世界で1億人を突破するといわれている認知症患者。ひと口に認知症といってもさまざまな種類があるが、その約7割を占めているのがアルツハイマー型認知症。アミロイドβというタンパク質が脳に蓄積し、脳の神経細胞が死滅していく病気だ。
アメリカの報告ではアルツハイマー型認知症の最も影響が大きいリスクファクターは、喫煙でもなく肥満でもなく、なんと「運動不足」だという。実際、日本の厚生労働省の研究では、軽度の認知症グループに運動を行わせたところ、10か月後には認知機能が明らかに回復したという報告もある。
神経細胞の死滅によって萎縮が始まるのは、記憶に関わる海馬という部位。果たして運動で海馬の萎縮は防げるのか?
老いても脳は成長する。歩くと海馬が大きくなる?
結論から言おう。運動で海馬の萎縮は防げる。それどころか、運動によって海馬の容積は拡大する。下のグラフがその証拠だ。
長い間、脳の神経細胞は青年期で成長しきったら一生そのまま、飲酒や加齢で一部が死滅したらもう元には戻らないと考えられてきた。ところが90年代に、大人になっても神経細胞は新たに作られることが分かった。脳神経学の世界ではまさに世紀の大発見だ。
さらに同じ頃、脳内で新たに発見されたのがBDNF(脳由来神経栄養因子)という物質。ノルアドレナリンやセロトニンが神経細胞同士の情報伝達役とすると、BDNFはもともと持っている神経細胞の成長や学習機能の向上を促す肥料のようなもの。それだけでなく、新たな神経細胞を作る手助けをしていることも今では明らかになっている。
で、このBDNFが、運動することによってとくに海馬周辺で大量に増えることも分かった。90年代の半ばにはホイールランニングで長く走ったマウスほど海馬でBDNFが増えるという画期的研究があり、2000年以降のヒトによる実験でも運動後に脳のBDNFが増え、学習機能もアップしたという結果が報告されている。
老いてなお、ぐんぐん歩けば脳は成長するわけだ。
筋肉が出すマイオカインも、脳の認知機能をアップさせる。
2000年代以降、運動生理学の分野で俄然注目されるようになったキーワードが「マイオカイン」。「マイオ」はギリシャ語で「筋」、「カイン」は「作動物質」。筋肉から分泌されるさまざまな生理活性物質の総称だ。
もちろん、ただぼーっとしていてはマイオカインの恩恵は受けられない。運動して収縮・伸展を繰り返すことで初めて骨格筋から分泌されるものが多い。運動による代謝アップや生活習慣病の改善、認知症の抑制などはマイオカインがもたらしている可能性が高いと考えられている。
これまでに数十種類のマイオカインが報告されているが、とくに脳の成長に有効と考えられている代表格が「BDNF」と「IGF-1」という物質。そう、BDNFはすでにご紹介した海馬周辺で増える脳由来神経栄養因子。実は運動時の筋収縮がその分泌を促しているのだ。
IGF-1はインスリン様成長因子といって、インスリンと協力して糖質を細胞に運ぶのが役割だが、脳内では神経細胞を活性化したりBDNFの受け皿を増やして学習能力を強化しているという。脳は運動で直接刺激され、筋肉の援護射撃でさらに成長するのだ。
ランニングの実験で証明された、記憶力を増すマイオカインとは。
時代はさらに下って2016年、脳の働きに有効であるとされる新たなマイオカインが登場した。その名は「カテプシンB」。
マウスにホイールランニングをさせた実験では血中のカテプシンB濃度が上昇、さらにカテプシンBの分泌が少ないマウスはそうでないマウスに比べて空間記憶能力が低いという結果が出たという。
同じ研究グループではヒトによる実験も行われている。4か月間のトレッドミル運動を行ったところ、運動強度が高いほどカテプシンBが多く分泌された。また、運動後に一度書き写した図形を30分後に再現するというテストを行った結果、血中カテプシンBの濃度が高いほどテストの成績が向上したという。
運動が脳に及ぼす影響を示す新たなマイオカインの登場はトピックとなっているが、本当に筋肉の収縮によってその物質が分泌されるかを証明するのはかなり難しい。カテプシンBの実証実験はまだこれから始まろうとしている。
歩きつつ走りつつ朗報を待ちたいところだ。