「記録よりも勝負を選ぶ。福岡での優勝を糧に」福岡国際マラソンの覇者・服部勇馬が目指すゴールの行方
大学4年生でチャレンジした初マラソンは散々な結果に終わった。どん底を経験した彼はMGCへの出場を決め、オリンピックを目指す。2018年12月の福岡国際マラソン覇者となった服部勇馬に密着した。
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
(初出『Tarzan』No.760・2019年3月7日発売)
地道な練習の辛さと量が脳裏に焼きついていた。
それは、ペースメーカーが外れた31km過ぎだった。まず、エチオピアのイエマネ・ツェガエが仕掛ける。15年の世界選手権で銀メダル、2時間04分48秒という記録を持つ高速ランナーである。それに反応したのが、エリトリアのアマヌエル・メセルと服部勇馬。優勝はこの3人に絞られた。
2018年12月2日に行われた福岡国際マラソンである。秀逸だったのは、この後だ。3人が牽制し合い、ペースが上がらないことにいらだったのか、服部は手をヒラヒラと前後に振りながら「さぁ、行こうよ」と促したのだ。日本人ランナーが、世界トップレベルの選手に、である。
「自分の中では、先頭で走って力を使いたくないというのがありました。だから、3人で一緒に行きたかったんですね。もっとペースを上げたかったし、それでも十分、最後まで走れると思っていましたから」
結局、服部は2位のツェガエに1分27秒差をつけ、2時間07分27秒でゴールを切った。この大会では、04年の尾方剛以来、14年ぶりの優勝だった。服部のタイムは日本歴代6位というもの。
これだけを見るとすばらしいの一言なのだが、昨年は設楽悠太、大迫傑が日本記録を更新しているので、その事実を考えると、少々、色あせてしまうというのは言い過ぎだろうか。ただ、特筆すべきは、そのラップタイムだ。35~40kmを14分40秒で走っているのだ。
これは、大迫が2時間05分50秒の日本記録を出したときのラップタイム14分42秒を超えているのである。日本のマラソン強化プロジェクトリーダーである瀬古利彦さんが「(2時間)5分台の力はある、末恐ろしい選手が出てきた」と賛辞を送ったのもうなずける。
そもそも、近年のマラソンはただの持久系のレースではなくなってきている。これまでの日本人のようにペースを守って走り、落ちてきた選手を抜いて上位を狙うことは難しくなっているのだ。
最後にどれほど力を出せるかが、勝敗の大きなポイントになる。その意味では服部の走りは、世界に繫がる走りと言うこともできるだろう。
「練習では長い距離を地道にずっと走ってきました。その辛さと練習量が脳裏に焼きついていたので、絶対に行けると思っていました。ただ、14分40秒という速いペースだったとは、考えもしなかったですけど。ようやく思い描いていたマラソンができた。とにかく、これまでのマラソンのように、不安を抱えて走るのではなく、最後までやれるという気持ちが、大きかったですね」
そう、これまでの服部の走りは、本人も、そして多くのマラソンファンにとっても、決して満足のいくものではなかった。
彼が最初にフルマラソンに挑戦したのは、16年の東京マラソン。東洋大学4年のときであった。リオデジャネイロ・オリンピックの選考も兼ねたこの大会で、彼は日本人トップに立つ。大学生が優勝か、と注目されるが、37km付近で大失速。結果は2時間11分46秒で12位に終わってしまう。そして、リベンジを誓って翌年も東京マラソンに参戦。しかし、今度も38km過ぎで失速。どうにか2時間10分を切るものの、またも大きな課題が残ることになった。
「いつも、30km過ぎまでは、まったく不安がなかったんです」と、服部が言うように、ラスト5kmがこれまでの服部にとって大きな壁だった。そして、これを克服することが、大きな目標となっていたのだ。
自分はすごいんだと思い込んでいた。
服部勇馬の名前は、大学時代から陸上好きの人の間では知れ渡っていた。名門・仙台育英高校から東洋大学へ入学し、1年から駅伝のメンバーとして活躍。2年からエース区間の2区を担当し、3、4年で箱根駅伝2区2年連続区間賞という快挙を20年ぶりに成し遂げた。
マラソンは3年時に初挑戦の予定だったが、アキレス腱痛のために回避。そして、4年になってデビューを果たした。
「大学では20kmをどう走るのかというのが課題でした。駅伝の距離ですね。1年のときには、その距離に全然対応できなくて、少しでも距離を増やしていこうと思って走っていました。スピード練習などは、2年になってからですね。なんで長距離でスピードが必要になるかというと、レースペースより速く走る練習をしていると、本番で余裕を持つことができるからです。とにかく、大学のときは20kmを走るのが基本。マラソンを走るという目標ができてからも、それは変わりませんでした。まず、20km。それにプラス、マラソンの練習を加えていく感じです」
しかし、これでは42.195kmを走るためのベースはなかなか作れない。もちろん仕方がないことでもあった。服部が2年のとき、東洋大学は箱根駅伝で総合優勝を飾っていたのだ。
懸かる期待も大きかったし、たすきを繫ぐ重さも当然ながらずっと感じてきただろう。だから、初マラソン、東京マラソンでの大失速は、もしかしたら必然のことであったかもしれない。ただ、このとき服部は大きな勘違いをしてしまう。
「駅伝のためにハードなトレーニングをしていたので、疲労が溜まって走れないんじゃないかと考えてしまったんです。今よりもずっと走る量が少なかったのに、自分としては、けっこうやれていると考えていた。それに、箱根駅伝で有名になって、スター扱いしてもらえるようになって、立場を理解できなくなっていたんですね。自分はなんかすごいんだ、と勝手に思ってしまっていた。だから、2回目の東京マラソンのときも、そんなに練習をしていたわけではないのに、2時間8分台で走れるなんていう、わけのわからない自信を持っていたんですね」
結果は前述した通り。ただ、この状況のなかでも、練習量が足りないとは思わなかった。しかし、その後はトラックレースに出場しても結果が出ない、故障も増える。3か月以上走れない時期もあった。そして、ここでようやく気づくのである。
「ベースができていない。それからは、原点に戻りました。練習でも、ひとつひとつの意味合いを探るようにやっていくようにした。そして何より、走ることでカラダを強くしなくてはと思うようになったんです」
服部が苦手だった練習に、ジョギングがあった。ゆっくりと長く走るのが好きではなかったのだ。テンポよく軽快に走るほうが好みに合っていたし、同じ距離を走るなら、速いほうが短い時間で済む。そのほうが、効率的だと考えていたのだ。しかし、今はゆっくり、そして淡々と走る。
「運動としては、ゆっくり走るより、速いほうが強度は高いかもしれない。でも、それは僕にとっては簡単にできること。それとは違って遅く長く走るということには、精神的な苦痛が伴う。この苦痛をカラダに染み込ませたいんです。マラソンを走って精神的にきつい状態に陥ったときに、これが生きてくると思うんですよ」
また、ジョギングを行うときに、フォームに気をつけるようになった。ジョギングでのカラダの動きと、レースペースでのカラダの動きが、できるだけ一緒になるように、心がけているのだ。これは、簡単なことではない。なぜなら、遅ければストライドや腕振りは小さくなり、カラダは沈んでしまうのが普通だからだ。
「だから、まったく一緒というのは無理かもしれないです。ただ、できるだけ揃えたい。それをやることで、どんなスピードで、どんなペースになっても、同じフォームで対応することができる。マラソンではペースの上げ下げは当たり前ですからね」
結果を出している選手は、メチャクチャすごかった。
このように考え方を変えた服部に、新たに強い刺激を与えたのが、昨年7月に日本陸連がアメリカのボルダーで行った合宿だった。そこには、昨年2月の東京マラソンで2時間08分08秒の記録を出した木滑良や、この合宿後の8月に行われたアジア大会で優勝した井上大仁がいた。
「そのときは合宿メンバーのなかでもマラソンの持ちタイムは自分が一番遅かったんです。それに今まで外部(所属するトヨタ自動車以外)の人と一緒に練習する機会もなかった。結果を出している選手はどういう練習をしているかに興味がありました。メチャクチャすごかった(笑)。自分もやっているつもりだったけど、全然、違う。合宿では1日に3回練習するんですが、いつも集合してからは、各自それぞれということになるんです。それで、毎回最初に(練習を終えて)戻ってくるのは自分。他の選手はその後、30~40分経っても戻ってこなくて…。もう、ビックリでした、こんなに走るのかって。この合宿のあと、井上さんが金メダルを獲ったのですが、合宿ではアジア大会を想定した練習を積んでいた。それを見ることができたのも、自分の大きな糧になったんですよ」
合宿を終えてから福岡国際までの3か月。走行距離は飛躍的に延びた。月間の走行距離は、最大で1,000kmを超えた。それまでは700km前後だったというから驚異的だ。
40km走は計7本。その間にはアクティブレストを挟みつつ、最大150分のスロージョグ。これは苦手なやつだ! スピード練習も積極的に行った。練習の一環としてレースにも出場した。そして、この努力が実ったのが福岡国際なのだ。
そして今年、東京オリンピック出場を懸けた、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)が開催される。これは、指定された大会で決められた記録を達成した選手だけが出場でき、上位2位までがオリンピック代表に内定する。服部は福岡でMGCへのキップをつかんだ。オリンピックへの夢は広がっているのだ。
「今の日本は強い選手が大勢いますが、MGCは最低でも2番に入らないといけない。だから、記録よりも勝負になっていくと思います。自分は福岡での優勝を自信にして走っていきたい。まだ、東京オリンピックのことまでは考えられないのが正直なところで、まずはもっと力をつけて代表になりたいと思っています」