福島あゆみ(ブレイキン)「始めるのが遅くてよかった」
20歳を過ぎて競技を始めて頂点を極める。その偉業を成し遂げたのが彼女なのである。21歳でブレイキンと出合い、2年後の40歳でパリ・オリンピックを迎えることになるのだ。(雑誌『Tarzan』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.827〈2022年2月10日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.827・2022年2月10日発売
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福島あゆみ(ふくしま・あゆみ)/1983年生まれ。154cm、47kg。19歳でカナダのバンクーバーに留学、『Massive Monkees Day Bgirl Battle』『HipOpsession Bgirl battle』などで優勝し、アメリカ、ヨーロッパなどのイベントでも多くの好成績を残した。2021年に行われた世界選手権で優勝を果たす。
パリ五輪の新競技、ブレイキン
2021年12月に開催されたブレイキン(ブレイクダンス)の世界選手権で優勝を飾ったのが福島あゆみである。ブレイキンは2年後のパリ・オリンピックの新競技だが、まずどんな競技なのかを、福島に教えてもらおう。
「いろんなカテゴリーがあるんですが、パリで採用されるのは、そのなかのバトルという競技です。DJの音楽に合わせて、ダンサーが1対1で交互に踊り、それを審判がジャッジをすることで勝敗を競います」
1回ずつ交互に踊ることを、1ムーブ(ラウンド)・イーチと呼び、主要なコンペティションでは、予選から決勝まで計12ムーブを踊ることが多いようだ。
決して万全ではなかった世界大会
アクロバティックでダイナミックな動きを繰り返す競技であるから、瞬発系の力が必要なのだが、何度も踊るということに関しては、持久系の体力も求められる。なにせ、予選から決勝までが1日で行われるのだ。さらに、2021年の世界選手権は全15ムーブ。福島は同点延長があり、16ムーブも踊り続けた。
「大会の前からスケジュールがすごくタイトだから、それに向けて調整をしなさいと、みんなに言われていたんです。それで、自分でも気をつけていたんですが、当日の朝起きた感じがまずよくなくて。会場でも緊張感があって、全然ノれなかったんです。
昼に2時間ぐらいの長い休憩があったのですが、そのときもメチャクチャに疲れていて、周りから大丈夫ですか、なんて声をかけられてしまうぐらいだったんですよ」
決して万全ではなかった。できるだけ体力を保つために、カラダを温めることを心掛けた。そして、合間には5分、10分の仮眠。長く寝ると、そこからカラダを再生するのが難しいと考えての作戦だ。
がんばろうという気持ちは持ち続けていたが、ダンス自体は空回りするような感じで、福島自身に手応えはなかった。
「自分はこう動きたいと思っていても、カラダが反応しないんです。それがずっと続いた。だから、踊ったあとはどうにかやれたとホッとする感じだった。ただ、その間ずっと“あきらめない”とは思っていました。
バトルは相手との勝負なんですが、結局は自分が力を出し切れたかどうか。最後にやり切れたと思いたいから、それに向かって進んでいこうとずっと考えていたんですね」
気持ちだけで上り詰め、それが優勝へと繋がっていったのである。そして、このとき福島は38歳だった。
全然興味がなくて、はよ帰ろ!という感じ
福島がブレイキンを始めたのは、なんと21歳のとき。競技者としては遅すぎるスタートだ。今の子供なら小学生で始めてもおかしくない。
「ヒップホップダンスといって、ステップを中心にした踊りは中学、高校でやっていたんですが、ただ遊んでいたという感じ。高校を卒業したら海外に留学しようと思っていましたから、そちらに力を入れるようになってやめてしまったんですよね」
最初にブレイキンを始めたのは、姉の梨絵さんだった。彼女も世界が注目したダンサーであり、数々の大会で優勝を果たした。現在は日本代表のコーチも務めている。
福島はカナダのバンクーバーに留学したが、姉は当時アメリカでブレイキンの修業中。姉の大会やイベントを見に行ったりしたが、「全然興味がなくて、はよ帰ろ!」という感じ。ところが、日本に帰省したときに、姉や友達に誘われて練習に参加してみたら、面白くてどんどんハマっていった。
「バンクーバーに戻ったときも、練習を続けたいと思っていました。ただ、言葉も下手で友達もほとんどいなかったから、どうすればいいかまったくわからなくて。そんなとき、ヘルメットをぶら下げて歩いている男の子に、街中で出会ったんです」
当時は踊る場所はストリートで、地面の状態がよくなかった。ブレイキンでは頭で回転するような技があるのだが、それを行うためにヘルメットをかぶるのが当たり前だった。
「思い切って英語で声をかけたら、なんと日本人でした。“ワーキングホリデーで2日前に来たんですが、練習場所を見つけましたよ。よかったら、これから一緒に行きますか”って彼が言ってくれたんですよ」
それからというもの、その場所でひたすら練習した。「友達もできて下手な英語もマシになった」と、福島は笑う。チームができてイベントにも参加するように。みんなで車を借りて、バンクーバーからアメリカのロサンゼルスまで20時間かけて行ったこともあった。青春である。
「ヘルメットの人はチームの先生だった。すごい実力者だったんですよ。私は一番下手で、それでも一緒に踊らせてくれた。ホント、恵まれていたんです。これまでの人生、人との繋がりで続いたと思っています」
実力は少しずつついた。姉の梨絵さんによると、福島は子供の頃から、運動神経はよくなかったという。ただ、それだけにコツコツ積み上げる努力は人一倍できるようだ。ひとつができれば、その次へ。福島は「できないことがありすぎて楽しい」と言う。
こうして過ごすうち、世界でも名が知られるようになっていき、海外のイベントや大会にも個人やチームで参加するようになっていく。トップクラスの選手になると、大会へのゲストとして主催者が招待する場合が多いのである。
「練習の時間は少なくなりました。たくさんのイベント、大会に参加することになり、いろんな場所に行けることも楽しかったです。ありがたい環境ではあったのですが、集中できる時間が少なくなったんです」
そんなとき、新型コロナが襲った。
競技を始めたのが遅かったのがよかった
「籠もりっぱなしでしたが、ありがたいことに練習ができる環境はありました。そして、そこで自分のダンスを見直すことができたし、新しい技に取り組むこともできたのは大きかったですね。もし、あの調子でずっと海外を飛び回っていたら、今回の優勝もなかったと思います」
世界中が沈黙を続けるなかで、福島はダンスだけでなく、自分のカラダに対しても問いかけるようになった。ダンサーはアーティストであり、アスリートの部分もあると、福島は断言する。そして、筋力トレーニングにも力を入れるようになった。
「体幹を鍛えるようにしています。加えてインナーマッスルですね。もともと首の状態がよくなくて、ヘルニアになってしまって踊れなかった時期もあった。だから、今は首と肩まわりのインナーをトレーニングしています。
練習は若い子と一緒だけど、彼らのようにいきなり踊りだすことはできない。歳ですからね(笑)、入念にストレッチをしてから、始めるようにしています」
競技を始めたのが遅かったのがよかったと、福島は言う。まだ、道半ばでやりたいこともたくさんある。もし、彼女がオリンピックに出場すれば40歳になっている。ハードな競技の世界では、驚異的なことだ。
「オリンピックのことはまだ考えていません。いろんな大会で得たポイントのランキングで代表選手が決まるのですが、一試合一試合を全力でやるだけだと思っています。
今、英語とダンスの先生をしているのですが、ブレイキンがオリンピックの競技になったときに、英語クラスの親御さんが、先生のやっているダンスってアレですか、なんて声をかけてくれるようになったんです。もちろん、ダンス教室の子は知っていますけど(笑)。
やっぱり、オリンピックの効果はすごいんですね。興味を持ってくれる人が増えたし、たくさんの人が応援してくれるようになった。自分たちはブレイキンが大好きですし、良さを知ってほしい。だから一人でも多くの人に見てもらい、元気を与えられるようになりたい。これが、私の一番の願いです」