「アグレッシブに攻める。世界で戦うにはこれが重要」卓球選手・及川瑞基
ドイツのブンデスリーガで7年間戦った彼は、今年、ようやく全日本選手権で優勝を果たした。世代交代が進む日本の卓球界で彼が進む道とは。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.807〈2021年3月25日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/中西祐介
初出『Tarzan』No.807・2021年3月25日発売
技術と体力、そして強靭な精神力。
「卓球の魅力ですか? 野球でもサッカーでもカーブとかシュートとか変化する球がありますよね。卓球は何ミリ、何センチの違いで球の回転が変わって、ミスをしてしまうことが多い。それが難しいところですが、ボールの回転の複雑さが自分にとって面白かったし、小さいころから追求していきたいと思っていました。
卓球の球はたった2.5gほどですけど、回転が多ければ多いほど腕に重圧がかかるというか、重いって感じるんですよね」
尋ねられた質問に対し、的確な言葉でキッパリと答える。及川瑞基と話をしたときの印象だ。彼は今年1月に開催された、卓球の全日本選手権で初優勝を果たしたが、その試合でも迷いなく(もちろん迷う場面もあったろうが)、思い切ったプレイを随所で見せていたように感じた。
及川は昨年の同大会で三部航平と組み、男子ダブルスで優勝しているが、男子シングルスではこれまで6回戦、ベスト16止まりであった。そして、今年も6回戦でリオデジャネイロ・オリンピックの男子団体銀メダリストである吉村真晴と対戦したが、見事撃破。準々決勝で、今や日本のエース的な存在であり、優勝候補筆頭の張本智和との争いとなった。
実は、及川と張本は同じクラブの出身である。同門であり兄弟弟子ともいえる。張本の父・宇さんが主宰する仙台ジュニアクラブがそれ。同じ環境で卓球の素地を育み、片や日本を代表する選手(張本)、片や専修大学時代には学生最強と呼ばれた男(及川)の対決は注目を集めた。
「彼とは同じクラブだったのですが、これまでそんなに一緒に練習を行ったり、試合をしたことはなかったんです。ただ、動画などをよく見ていたのでプレイのイメージはできていました。彼が得意とするバックハンドと真っ向勝負すれば、自分には分が悪いと思っていたから、打ち込まれるのをうまく外すようにタイミングをずらしたり、前に出てコースを突き、リズムに乗らせないような工夫をしました。
それがよかったのか、相手はなかなか波に乗れずに、自分が押していけました。彼を倒してから勢いに乗りましたし、彼を倒したことで準決勝、決勝も勝って優勝したいという欲も出てきたんです」
そして、決勝まで駒を進める。対戦相手は森薗政崇。森薗は及川の出身校である青森山田中学・高校の先輩であり、プライベートでも食事に行くなど、非常に仲がよい。もちろん、及川が尊敬する選手の一人でもある。この試合、及川は究極まで追い詰められた。ゲームカウント1-3で森薗にマッチポイントを握られてしまったのである。
つまり、相手があと1ポイント獲れば、優勝をさらわれてしまうという場面があったのだ。しかし、そこからの及川の反撃は凄まじく、最終的にはゲームカウント4-3で大逆転を決めた。
「森薗さんとは大学時代にもよく試合をやっていたので、イメージはできていました。ただ、試合では最初は硬くなってしまって、カラダも思うように動かなかった。頭も真っ白だったんです。追い込まれたときは得点板を見て、あと1本獲られたら負けるなと確認しました。
ただ、最後に守りに入って負けたくないとも思っていて、同じ負けるなら攻めようという強気な自分がいた。それがよかったんです。もちろん優勝は狙っていたんですが、現実になってみるとうれしいというよりは、驚きの気持ちのほうが強かったです」
卓球だけの話ではないのだが、一流の競技者になるには、もちろん技術や体力が必要だ。ただ、それだけでは足りない。一番重要なのは、なにより強い精神力であろう。この大会で及川はそれを証明したのだった。
ブンデスリーガ4部は曲者ばかりだった。
及川にはひとつの大事な思い出がある。それが小学校3年生のときに起きた出来事だった。5歳で卓球を始めた及川は、ラリーの面白さに魅せられ、すぐに夢中になっていく。
やればやるほど強くなっていくのも楽しかったし、仙台ジュニアクラブの雰囲気も好きだった。張本コーチもやさしかった。だが、そのコーチが顔色を変えるようなことを、及川はしでかしてしまったのである。
「3年生のときのある大会だったのですが、今でも鮮明に覚えています。その日は朝の練習から、自分が輝いているような感じがするぐらい調子がよくて、これなら優勝するんじゃないかと思っていたんです。ところが予選リーグで2敗してしまって、決勝にも残れなかった。張本さんも期待していたぶんだけがっかりしたというか、すごく怒られましたね」
勝てるはずの試合に負ける。それは、対戦相手に負けたのではなく己に負けたということ。張本コーチの怒りはこのことから発せられたのだ。「もっと勝ちたいという思いを強く持たないといけない」。そう考えた及川はそこから、練習量を増やし、これまでよりもより真剣に卓球と対峙するようになっていった。
そして、小学校高学年になると大きな大会で優勝するなど、頭角を現していったのだ。その及川に注目したのが、名門青森山田中学の板垣孝司監督(当時)だった。小学校6年生のときに卓球部への誘いを受けたのである。
「もっと強くなるためには、さらに厳しい環境に行かなくてはダメだと思っていました。最初はホームシックとかにもなったんですが、上手くなりたいという気持ちのほうが強かった。ただ、学校は厳しいだけではなく、練習以外は自己管理というのが基本。だからわりあい自由だったんです。寮と練習場が繫がっていたので、気になることがあったら、夜中でも練習できる。環境的にもとてもすばらしい場所だったんですよ」
そして、及川が中学校3年生のとき、さらなる飛躍を約束するような話が飛び込んでくる。世界屈指の名コーチで、現在は及川が所属する木下グループ卓球部の監督、邱建新(キュウ・ケンシン)氏が「ブンデスリーガの4部に留学しないか」と、打診してきた。ブンデスリーガはドイツのプロリーグで、世界最高峰レベルの戦いが繰り広げられている。4部といえども、15歳の少年には、得られるものは大きいだろう。
「4部ですから、世界ランクがついた選手だけじゃなくて、これだけで金を稼いでいる人もいたり、家族を持っていて40歳、50歳の人もいて、これまでやってきたタイプとはまったく違う卓球をする曲者ばかりだったんです。だから、いろんな戦型に対応する力を養うことができました。それに、会場まで2時間、3時間、選手全員がバスに乗って移動する。英語も話せないなかで、そういう日々を送っていくことで、精神面もすごく鍛えられたと思っています」
及川はこれまで都合7年、中学、高校、大学に通いながらブンデスリーガに参加してきた。そして、大学2年では念願の1部昇格を果たした。そして、その翌年にはドイツの皇帝の異名を持つ、当時世界ランキング5位のティモ・ボルに勝利した。
「観客も2部と違って多いですし、世界ランクも上位の選手ばかりでした。だから、自分は逆に気負いなくできたし、常にチャレンジャーとして戦っていましたから、それがいいプレイに繫がっていったのだと思う。こんなにすごい舞台に立つことができた。だから、もっと勝ちたい。そういう気持ちで戦っていましたね」
ブンデスリーガのオフシーズンには大学の大会にも出場した。学生日本一を決める全日本大学総合卓球選手権、インカレともに2連覇。当然といえば当然かもしれない。世界のトップと戦ってきた彼は、学生最強と言われるようになったのである。
木下グループ卓球部では、吸収するものも多い。
及川は昨年の6月から、木下グループの卓球部に所属し、活動している。そのメンバーが凄い。日本の絶対的王者として君臨した水谷隼、若きエース・張本智和、過去には丹羽孝希もいた。この3人は東京オリンピックの代表でもある。
「毎日刺激を受けているし、吸収するものも多い。いい環境でやらせてもらっていると思います。とくに水谷さんは中高の先輩でもありますし、自分が上手くいってないと感じれば質問もしますし、毎回試合のあとには辛口なんですが(笑)、アドバイスももらっています。それが、自分に必要なことだとわかっているので、素直に聞いて参考にしています」
先にも述べたように、東京オリンピックの代表はすでに決まっている。だから、この大舞台にはこれからどんな活躍をしても出場はできない。ただ、張本をはじめとする若手の台頭によって日本の卓球界は世界でも強豪と呼ばれるようになったし、世代交代が始まっているのも確かだ。
「今、自分のプレイは、相手をよく見て、100%の力で打ち返せないように、ボールを外しにいって勝つスタイル。相手にとってはやりづらいと思います。ただ、守りのほうは長けているんですが、世界の選手と戦っていくためには、もっと攻めの部分でアグレッシブに行って、自分で得点を獲っていくことが必要。そこが強化されれば、世界選手権でも戦っていくことができると思っているし、しっかりと鍛えていきたいですね。
それから、世界ランキングも少しずつでも上げていきたい。現在、新型コロナの影響で大会がなくなったり、出場できる選手が制限されたりしていて、なかなか難しいのですが、1つでも上を目指していきたい。そうすれば、必ず24年のパリ・オリンピックへの道が開けてくると思っているんです」