「傍観者として五輪の代表選考を終えたくなかった」自転車競技・増田成幸
何度も大きなケガをして復活を遂げてきた。そんな彼についたニックネームが「不死鳥」。転び、立ち上がり、未来へと走り続ける。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.805〈2021年2月25日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
初出『Tarzan』No.805・2021年2月25日発売
サービス精神にあふれる男。
ふりかけおにぎり2個、スティックタイプの羊羹10本、餡入り饅頭5個。増田成幸が約4時間の練習で摂取した食料だ。その様子は、走っては食べ、走っては食べという感じ。それほどエネルギーが必要なのか。「よく食べますね」と、声をかけると、
「前の日に200km走って、夜はしっかり食べたんですけど、腹が減っちゃって。インスリンショック(低血糖によるカラダへの悪影響)になると大変ですから、こまめに摂るようにしているんです。それに、寒い時期って、体温を保つためにカロリーが必要な気がします。夏だったらエネルギーより水分なんですけど」
増田の身長、体重で時速30kmでバイクに乗り続けたときの消費カロリーは1時間当たり768キロカロリー(国立健康・栄養研究所 改訂版「身体活動のメッツ(METs)表」参照)。200km走ると、約5,070キロカロリーを消費することになる。
これは、もちろん机上の計算で、ロードレースの練習では坂道を上ったり、わざとギアを重くして負荷をかけたり、逆に回転数を上げてペダルを漕いだりもする。だから、より多くのエネルギーを使っていることが想像できるのである。食べないとやっていかれない、というのが正直なところであろう。
このように厳しい練習を日々続ける増田は、しかしサービス精神にもあふれる男である。バイクを止めて食料を口に運ぶときには、荒い息を吐きながらも、笑顔で質問に答えてくれるし、「さっき撮影したときは、後ろに車が来たから、映り込んでませんでした? 練習後にもう1回撮ります?」なんて気遣いまでしてみせるのだ。
ただ、もちろんこれは決して自分を恰好よく撮ってほしいということではない。
「自分のことはダサいと思っているので、よく撮ってもらいたいということはまったくありませんね。ただ、バイクってまだまだマイナーなので、できるだけ多くの人に、この競技の魅力を感じてほしいと思うんです」
たまらなく優しく、魅力的なのだ。しかし、この優しさとは裏腹に、増田の競技人生は、とにかく過酷であった。それが証拠に、ついたニックネームが不死鳥。小さいケガなら数知れず、大きなものは鎖骨と骨盤の骨折、腰椎の圧迫骨折、胸骨および肩甲骨などの5か所の骨折などなど。しかし、ケガをするたびに一回り大きくなって復活してきたのである。その姿は、まさしく不死鳥なのだ。
文字通りに一度は“折れた翼”。
増田にとって、強烈な印象が残っているのが、腰椎の圧迫骨折である。これは、バイクとはちょっと離れた場面で起こった。
彼は現在37歳だが、かつて日本大学に入学したとき、鳥人間コンテストに出場するためにサークルに加入した。そして、人力飛行機で空を舞いたいという思いから、練習の一環としてバイクに乗り始めたのが、レーサーになるひとつのきっかけだった。
それで日本を代表する選手になったのだからいかに才能があったかわかるが、圧迫骨折の原因は、この人力飛行機だった。2010年、人力飛行機での速度の世界記録に挑戦したときに、主翼が破断して墜落事故に見舞われたのである。
「これはちょっとヤバいと思いましたね。それでも復帰に向けてリハビリを始めました。まずは、バイクどうこうではなくて、一人の人間として、自分の足で立って、歩けるようになること。病院で歩行器などを使って、少しずつ歩数を延ばしていく感じでやっていました」
歩けるようになったら、国立スポーツ科学センターで、泊まり込みのリハビリが始まる。同センターは日本のトップレベルの競技者をサポートするために設立された施設である。
「腰椎に負担がかからないように、体幹を石膏のコルセットで固めて、筋力トレーニングを始めました。まずは脚や臀部のメニューを行い、少しずつ運動の種類を増やしていきます。2か月ぐらいで、ある程度筋力がついてきて、3か月目から有酸素運動も加えました。
このときもいろんなマシンを使いましたね。同じ動きばかりにならないように。バイクマシンだったり、階段を上り下りする動作ができるマシンだったり。時間を長くして、負荷も上げていって、4か月ほどで退院できたんですよ」
ただ復活できただけではない。初めて大きなケガをしたときも、国立スポーツ科学センターでリハビリを行ったのだが、そのときは体型にも変化があった。
もともと増田は細身で上り坂に強いクライマータイプの選手だった。ところがリハビリのトレーニングを重ねたことで筋力がつき、「自転車選手に必要なエンジンが一回り、二回り大きくなった」印象を持ったという。ケガのおかげで成長できたと言い切るのである。
「ケガをしたときに、不安がまったくなかったと言うと噓になりますが、リハビリを通して復帰に向けて努力できている自分を感じることができた。だから、ネガティブな感情になることはありませんでした。
日々、積み重ねていくことで、1週間前にはできなかったことができるようになっていくし、来週はよりよくなっていると期待も持てる。小さな成功の積み重ねというような感じで、前向きに考えて取り組めたんですね」
2017年にバセドウ病と告げられた。
ところが、こんな増田が絶望の淵に立たされる出来事が起きる。2017年にバセドウ病に罹患したことが判明したのである。この病気は甲状腺ホルモンが過剰に分泌されることで、動悸や息切れ、手足の震え、疲れやすさやだるさなど、さまざまな全身症状に襲われる。病状が進むと新陳代謝が活発になり、エネルギーの消耗も激しくなっていくのだ。
「17年のシーズンが始まったばかりのレースのスタートで、隣り合った選手から“増田さん、カラダがすごい絞れてますね、絶好調じゃないですか”と、言われたんです。自分でもそう思っていたのですが、走ってみると、すぐに心拍が上がって呼吸も荒くなる。これは貧血だろうということで、病院に行ったら病名を告げられて…、ショックでした」
物理的なケガであれば、いつかは回復するし、そもそも全治3か月といったような診断も下される。ところが、病気というのはいつ治るのかがわからない。先の見えないトンネルを走っているようなものなのだ。
「医者は1年もしないうちに復帰できますよ、なんて勇気づけてはくれるんです。でも、治療を続けていくなかで、病気をコントロールすることが難しいのがわかるたびに、暗い気持ちになった。当然、競技からも離れざるを得なかった。バセドウ病では、スポーツは禁忌ですから」
自宅療養である。酷いときには寝るときも心拍数が上昇して苦しいときもあった。「このままじゃ、死ぬかも」と思ったこともあったという。投薬治療を続けている間、2か月間はまったくバイクにも乗らなかった。
「それでもだんだん動けるようになって、少しずつ自転車にも乗れるようになっていきました。ママチャリから始めて、スーパーへ買い物に行ったりとか。そこからロードバイクに乗り替えて30分走ったり、1時間に延ばしたり。長いスパンで少しずつ練習の質と量を増やしていったんです。
今は元通りになって練習できるようになったのですが、改めて考えると、また競技ができるようになったことはありがたいことですね」
一回の挑戦で重圧も大きかった。
さて、東京オリンピックでのロードレースの男子出場枠は、開催国枠での2枠。増田は2019年の2月の時点では選考ランキング2位だった。このままいけば手が届く。そんなときに新型コロナが襲う。
世界的にレースが中止になり、日本自転車競技連盟は代表選考期限を5月末から10月中旬まで延ばすことを決定した。ただ、8月に再開されたレースはほとんどがヨーロッパで、国内やアジアを主戦場にする選手には、走ることができるレースがなかった。増田はこれを不服として日本スポーツ仲裁機構に申し立てたが、その請求は棄却される。そして、レースがないままランキングは3位に落ちる。
「一傍観者として代表選考が終わってしまうのは避けたかったんです。それで、チーム(宇都宮ブリッツェン)がいろんな交渉や努力をしてくれて、選考期限直前のスペインのレースに出場できることになった。飛行機はキャンセル待ちだったのですが、どうにか乗ることができた。
ただ、たった1回の挑戦なので、プレッシャーが大きかったし、もし失敗したらという後ろ向きな気持ちになりました。それでも、資金を提供し、後押ししてくれた地元・宇都宮の多くの企業や、チームの人たちのことを考えると、やらなくてはという気持ちが湧いてきましたね」
ヨーロッパの強豪が集うこの大会で、増田は20位に入り、ランキング2位に上昇。代表枠をつかんだのである。年齢を考えれば、最初で最後のオリンピックとなるだろう。37歳で、ロードレースという過酷な競技を続けている選手は、ほとんどいない。増田は今、何を思っているのか。
「選手として脂が乗っている時期に、自国開催のオリンピックに出場できるのは本当に奇跡的なことですし、光栄なことだと思っています。自分の夢でもあったし、舞台に立つまでは、故障などせずにしっかり気を引き締めていきたい。そして、本番では日本を背負って立つ選手として、ふさわしい走りをしたいですね。
ロードレースはとにかくヨーロッパの選手が強い。だから、メダルというのは簡単ではないです。ただ、決して可能性はゼロではない。コンマ数パーセントかもしれないけど、可能性があるのであれば、そこを目指していかなくてはダメだし、つかみ取りにいきたいと思う。とにかくベストを尽くすこと。これが、一番大切なことだと、今は考えています」