「常に4分1桁台を出し、初めて世界のスタートラインに立てると思う」陸上選手・田中希実
今年、2つの日本新記録を樹立した彼女の目標は、選手なら誰もが憧れるオリンピックの舞台ではない。彼女はシンプルに、世界と戦える選手になりたいのだ。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.799〈2020年11月5日発売号〉より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
初出『Tarzan』No.799・2020年11月5日発売
中長距離の面白さを知ってほしい。
今年、陸上界に衝撃が走った。いきなり2つの日本記録を樹立した選手が現れたのである。田中希実だ。
まずは、7月8日に行われた『ホクレン・ディスタンスチャレンジ2020』。女子3,000mに出場した田中は、8分41秒35でゴールし、18年前に福士加代子が記録した8分44秒40を3秒以上更新した。
そして、翌月の8月23日。今度は新装した国立競技場で開催された『セイコーゴールデングランプリ』の女子1,500mで小林祐梨子の持っていた日本記録を2秒以上縮める4分05秒27をマーク。これは、新しい国立競技場での日本記録第1号でもあった。
衝撃の理由はタイムだけではない。そのレース展開にあった。どちらのレースも、スタート後すぐに先頭に立ち、一度もその座を譲ることなくゴールを果たしたのだ。ラストスパートでは、後方の選手を置き去りにするオマケ付きで。
まさに圧巻という言葉でしか語れない内容。こんなレースは、ほとんどお目にかかったことはない。まずは、田中にこの2試合について聞いた。
「レースプランに関しては、ほとんど考えていませんでした。日本記録を目標にしてかなりきつい練習をしていたので、それができていたぶんレースではタイムを気にせず自分の走りに集中できました。私がやってきた練習を他の選手がやっていたら、同じような記録は出せると思います。
1,500mのときは、ホテルにスパイクを忘れてしまって、父がギリギリで持ってきてくれたんです。あのときは、間に合うかどうかを心配していて、かなりストレスになっていましたね。それで、逆に開き直れたという部分もあったんですが」
精神的なタフさを見せた田中。その一つの要因は、新型コロナウイルスにあったのであろう。全世界を恐怖に陥れたこのウイルスは、トップアスリートの生活も一変させた。
「コロナ前は、練習やレースがあって当たり前でした。だから、一つひとつへの覚悟というのが、そこまでできていなかった。でも、今は練習やレースをしっかりと意識しながら行えるようになった。それが今回の結果に繫がったんだと思います」
田中が挑戦する種目は中長距離。海外では人気があるが、日本ではそれほど注目されていない現状がある。なんといっても、日本人は大のマラソン好きだからだ。この種目の面白さを知ってほしいと田中は言う。
「私自身、テレビで最初から最後までマラソンを観戦したという経験がなくて、長いレースを見るのは得意ではないんです。確かに、面白い場面もあるのですが、中長距離は選手に力さえあれば、細かい駆け引きができるし、それだから躍動感があって選手たちも生き生きしている。そういうところを見てほしいですね」
高校時代に練習の意味を深く考えるようになった。
田中の父は3,000m障害で日本選手権にも出場した実力者であり、母は国内のメジャー大会である『北海道マラソン』で2回優勝したトップアスリートである。この両親のもとで育てられた彼女は、記憶にも残らないときから、いろんな大会に足を運んで楽しい日々を過ごした。
「子供たちのランニングクラブに入って、両親がやっているイベントなんかに駅伝チームを組んで出ていたりしました。それに、いろんな大会でも、個人的に手伝いとかもして、市民ランナーの人と身近に触れ合ったりとか、楽しい経験をさせてもらっていましたね」
楽しんで走る。それがすべてだった。だから、疲れたら両親に抱っこしてもらったりとかも当然アリだ。だが、小学校6年生のときにガラリと心境が変わる。オーストラリアの『ゴールドコーストマラソン』の4kmのレースで優勝したのである。
「そのときは国内の小学生のレースは3kmまでしかなくて、とても不安だったんです。でも、スタートしたら、あっという間に終わってしまった。国内の3kmのレースよりも全然短い感じでした。ゴールドコーストに滞在したことも、レースもどちらも楽しかった。
国内では優勝できるかできないかぐらいの実力になっていたんですが、海外で通用するとは思っていませんでした。だから、中学では陸上部に入り、もっと強くなりたいと考えるようになりました」
中学に入るとジュニアオリンピックの全国大会に出場して、全国中学校体育大会の1,500mでも優勝を果たした。着実に実力をつけていったわけだ。ただ、その頃は、練習一つひとつの意味を、じっくりと考えてやっているわけではなかった。
「とにかく、全部ガムシャラにやって、それに結果がついてきたという感じです。何も考えずに、与えられた練習をこなすだけ。スピード練習とかはそれなりにキツかったのですが、練習時間も短いし、仲間とワイワイ楽しくやっていたんですよね」
高校は兵庫県の西脇工業高校。陸上の名門である。チームメイトには強い選手が多くいて、ただ楽しいだけの練習ではなくなる。しかし、ここで考えることを学んでいくのだ。
「駅伝の強豪校なので、中学校とはガラリと変わりました。それまで常識だと思っていたことが、常識でなかったりして。
練習メニューとかも、先生が与えてはくれるのですが、それをどう生かしていくかは個人に任されていて、練習の意味を考えるようになりました。練習日誌を先生とやりとりしたりして、いろんな理解を深めていくこともできたんです」
田中の出身地である兵庫県小野市は、先輩ランナーの小林祐梨子の故郷でもあった。それも、高校時代の発奮材料のひとつとなったようである。小林が出した高校時代の記録を見て、そのタイムに驚かされたのだ。
「祐梨子さんとは家も近くて、今も食事に行ったりします。日本のトップを走り続けていた人ですから、いろんな話を参考にさせてもらったり、レース前には必ず連絡をくださるので、それがココロの支えになっています。
高校の頃の祐梨子さんの記録は本当に驚異的で、まったく考えられないようなタイムでした。ただ、いますぐには抜けないけど、いつかは抜きたいと思っていました」
そして今年、小林が持つ1,500mの日本記録を抜いたのである。
自分の走りの感覚を一番理解してくれるのは父。
現在、同志社大学に通う田中だが、陸上部には所属していない。高校を卒業した1年後からは、父の健智さんがコーチを務めている。
健智さんは、母・千洋さんのマラソンの練習サポートはしていたが、本格的な中長距離のコーチはそれまでしたことがなかった。そんな父に練習を任せることに不安はなかったのか。
「活動の幅を広げたかったんです。そのためには柔軟にいろんなことができる環境が必要だった。陸上部には参加しなかったのも、そんなことからなんです。
そして、自分の考えを共有してくれて、陸上に深い知識を持っている父にコーチをしてもらうのがいいと思った。中学、高校でも父のアドバイスが役に立っていたし、自分の走りの感覚を一番理解してくれるのも父でしたから。ただ、二人とも怒りの沸点が低いので、ケンカもしょっちゅう。
でも、言い合うことでわかることがあるし、父は原因となったことを温めて、整理して新たな提案をしてくれたりする。それはありがたいと思っています」
ただ、練習は過酷なものになった。「私と同じ練習をしたら、私と同じぐらいのタイムが出せる」と言うぐらいに。具体的には、どのような練習の日々を送っているのだろう。
「時間的には短いんです。午前中と午後に1~1時間半ほどですね。今は変化をつける練習が大事だと考えています。インターバルというと休みを挟んで何度も走る練習ですが、私がやっているのは休みの部分も短い距離を速いペースで走ります。
たとえば1,000m走るとしたら、300mを2本と200mを1本、それぞれの間に100mを2本挟むといったような。300mと200mはキロ3分前後で、間の100mはそれより少し遅いペースで走ります。休みたいけど休めないというところがしんどいんですが、それだから普通の選手が回復できないときに、回復できるような力がついたと思います。
それに、フォームも変わってきました。今までは跳ねるような走り方だったのですが、上下の動きがなくなってきた。これも、キツい練習をしているうちに、自然と効率のよい走りになったんでしょうね」
意外なことに、田中はオリンピックに対して強い思いを持っていない。今回も東京でやるなら、参加してみたいといった感じなのだ。彼女が望んでいることはシンプルそのもの。世界で戦える選手になることだ。
「世界の選手を見ると、1,500mは4分1桁台、5,000mは14分台が当たり前です。1,500mは練習で調子がいいときに、なんとか4分1桁台で走れることもありますが、どんなときにもそのタイムで走れる力をつけたい。そうなって、やっと世界と戦えるスタートラインに立てると考えています。
とりあえず日本で一番にはなったのですが、いつでもそうなれるのかと聞かれたら、まだ不安が大きい。だから、日本では敵なしになれることも目指したい。東京オリンピックに出場できたら、速い外国人選手の胸を借りることになります。
そういう気持ちで伸び伸びと走ることができれば、いいタイムが出せるかもというワクワク感もあります。記録を引き出してもらうためにも、まずは世界選手権など大きな大会に出場していきたいです」