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年表で紐解く、人類と感染症の歩み

見通しのつかない、病原性微生物と共に生きる未来。先人たちの轍を辿れば、学ぶべきことがあるはずだ。

① 狩猟採集時代

感染症の大流行はなかった?

ヒトは約20万年前にアフリカ大陸で誕生。その後、世界各地に散らばっていくが、誕生当時から病原性微生物による感染症はあった。

原始時代のヒトは、数百人規模の小さなコミュニティを保ち、移動しながら動植物を得る狩猟採集の生活をしていたと考えられる。このような小規模な集団では感染症は単発に留まり、滅多に大流行を起こさない。また、つねに移動しているので環境汚染の影響は最小限に留まり、感染症の原因となる糞便に接触する機会も少ない。原始時代というと不潔で不健康な時代という先入観を抱きがちだが、意外に健康的な生活だったのかもしれない。

そうした状況下でも蔓延していたと考えられるのは、ハンセン病、マラリア、住血吸虫症、炭疽症、ボツリヌス症といった感染症。

狩猟採集時代と感染症
蚊やハエなどが媒介となり、ヒトにも野生動物にも感染する人獣共通感染症は、狩猟採集時代にも多く見られた。

ハンセン病は、らい菌の感染で起こる。感染者の体内で数年から数十年にわたって感染力を維持するため、広がりやすい。マラリア、住血吸虫症はヒト以外の野生動物にも感染する人獣共通感染症で、動物から繰り返しヒトに感染する恐れがある。同じく人獣共通感染症の炭疽症とボツリヌス症は、感染した動物の毛皮や肉などからうつる経路がある。

そして今から1万1000年ほど前、ヒトと感染症との闘いは大きな転換点を迎えた

「それは農耕の開始、定住、野生動物の家畜化によってもたらされました」(長崎大学熱帯医学研究所の山本太郎教授)

② 農耕と定住

年表に見る感染症の歴史

正の側面と負の側面があった。

農耕と定住により、人類の数は爆発的に増える。農耕で安定的に食べ物が生産できるようになり、定住で移動の手間が省けると育児が十分できるようになったからだ。

農耕と定住によって生まれたのが古代文明。メソポタミア文明、インダス文明、中国文明、エジプト・ギリシャ文明がその代表である。

年表に見る感染症の歴史
人びとが家畜とともに働き、暮らすようになって接触機会が多くなると、動物由来の感染症に罹るリスクも上がってくる。

農耕と定住の開始には負の側面もあった。

人口が増えて密集して定住すると、感染症の流行が恒常化する条件が整う。一か所に長く留まる生活は環境を悪化させて、糞便に触れる機会が増えることで寄生虫感染も増えた。

農耕で生み出された余剰の食べ物は、ネズミなどの小動物の餌となり、ネズミと共生するノミやダニは感染症の運び屋となる。後述するペストもネズミのノミが広めたものだ。

野生動物の家畜化はさらに感染症を増やす結果を招く。牛や馬は耕作面積を広げて農作業の効率を上げたし、その糞便は農地の肥料となって肥沃化を助け、酪農も可能にした。それは人類の成長にとって望ましいことだったが、家畜化は動物に起源を持つ病原体がヒトにうつるきっかけにもなる。天然痘はもともと牛の感染症。麻疹は犬、インフルエンザはアヒルの感染症にルーツを持ち、そこからヒトへ伝播したものだ。

③ 感染症が歴史を大きく動かした。

年表に見る感染症の歴史

ペストとルネサンス

古代文明には各々固有の感染症があった。その一つが中国文明にオリジンがあるとされるペスト。ペスト菌が起こす未知の感染症は中国と地中海世界を結ぶ交易路シルクロードを介し、世界的広がりと社会的影響を及ぼす。

ペストと感染症の歴史
17世紀のヨーロッパでペスト患者を診る医師は独特の防護服を着た。空気感染すると信じられていたので、くちばし状のマスクで鼻を覆い、そこに香辛料を詰めていた。

542〜750年にかけて、ペストは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を何度も襲った。とくに最初の流行時には、時の皇帝ユスティニアヌスも罹り、最盛期にはコンスタンティノープルだけで1日1万人が死んだという(皇帝自身はなぜか治癒した)。これにより東ローマ帝国は衰退し、イスラム教徒が西アジアから地中海世界へ侵入する端緒となる。この頃、発生源の中国もペスト禍の只中にあり、4世紀ぶりに中国統一を果たした隋が滅亡する一因となる。

謎の沈黙期間を経てペストは再び登場する。14世紀から4世紀近く、ヨーロッパで断続的に猛威を振るう。まず上陸したのは、またもコンスタンティノープル。1347年だ。当時は海上交易が盛んであり、港町がハブとなってペストは内陸へ広がり、わずか3〜4年で北欧やロシアを含むヨーロッパ全土を覆う。

1377年、ヨーロッパ随一の港湾都市国家ベネチアは、ペスト流入を防ぐため、外国から入港する船を沖合で40日間留め置く措置を始める。検疫を英語でQuarantineと言うが、これはイタリア語の「40日間」に由来。当時のベネチアの施策に語源を持つのだ。

この間ペストによる死者数は2500万〜3000万人とされており、ヨーロッパの人口の4分の1から3分の1に達する。大半を占めた腺ペストでは感染者の皮膚が内出血で紫黒色になることから「黒死病」と恐れられた。

ペストの衝撃はヨーロッパ社会に変貌を迫った。人口が減って賃金が上がり、感染に無力だった教会の権威が失墜。農民たちは移動し、土地に縛りつける封建制が崩壊する。

「ひと言でいうなら、人間一人ひとりの価値が上がった。それがルネサンスによる文化的・人間的な復興に結びついたと私は考えています」

ペストがなぜ始まり、なぜ終わったのかは、いまだに判然としていない。いずれにしても、ペスト禍を機にヨーロッパでは中世が終わりを告げ、次々に中央集権的な国家が出現したことは間違いない。近代を迎える。スペインやイギリスといった強国は争うようにアフリカ大陸や南北アメリカ大陸へ進出し始める。

④ 人類史上もっとも残酷な交換。

年表に見る感染症の歴史

コロンブス交換

16世紀以降、ヨーロッパという旧大陸と、南北アメリカ大陸という新大陸の間で、大西洋を跨いだ「コロンブス交換」と呼ばれる感染症と作物のダイナミックな交換が起こる。

南アメリカ大陸にはアステカ帝国とインカ帝国という強国があり、数千人以上の兵士を抱えていた。ところが、1521年にスペイン人コルテスは、数百人の軍勢でアステカ帝国を制圧。続く1533年には同じくスペイン人ピサロがわずか200人ほどの手勢でインカ帝国を滅ぼしてしまい、ヨーロッパ人による南アメリカの植民地支配が始まる。

コロンブス交換
「コロンブス交換」というネーミングは、1492年にヨーロッパ人として初めて新大陸に到達したコロンブスに因んでいる。

衆寡敵せずの大原則がひっくり返ったのは、冷酷な征服者(コンキスタドール)が新大陸にない馬や鉄砲で戦った点以外に、彼らが無自覚に持ち込んだ天然痘などの感染症により、免疫を持たないアステカ帝国やインカ帝国などの先住民の人口が激減したことが大きい。天然痘以外にも、麻疹、発疹チフス、インフルエンザ、ジフテリアなどが猖獗(しょうけつ)を極めて、免疫がない南アメリカの先住民の人口は10分の1以下になったといわれている。

減った人口を補うため、ヨーロッパ列強は同様に進出していたアフリカ大陸の先住民たちを、新大陸へ奴隷として連行した。この無慈悲な奴隷貿易で、アフリカからマラリア、黄熱、デング熱といった伝染病とそれを媒介する蚊なども新大陸へ渡り、より一層犠牲者を増やすことになる。17世紀にはアンデス山脈に自生するキナという植物の樹皮が、マラリアの治療効果を持つと判明。ヨーロッパ人はキナの有効成分キニーネを活用し、それまでマラリアに阻まれて遅々として進まなかったアフリカのさらなる植民地化に成功する。

旧大陸の征服者は、新大陸から新たな植物を持ち帰った。それがのちに世界中で栽培されるようになったトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、トマトといった作物である。「交換」とは通常、相互に同等のメリットをもたらすものだが、「コロンブス交換」でメリットを得たのは旧大陸側ばかりだったようだ。

⑤ 都市化の光と影

年表に見る感染症の歴史

大都会こそ感染症の揺り籠だ。

ペスト禍後、イギリスで18世紀後半から19世紀にかけて産業革命が起こる。工業化に伴い、地方の農村から多くの人びとが労働者として都市部へ流れ込み、それが2つの感染症の大流行を招く。コレラと結核だ。

コレラ
コレラは汚染された飲み水、結核は空気感染によって都市内で拡散した。コッホがコレラ菌と結核菌を見つけたのは、19世紀末になってからである。

コレラはインド・ベンガル地方の風土病。イギリスの植民地支配による軍隊の往来などにより、ヨーロッパへ拡大。イギリスでは1831年に最初の患者が発生し、全国で14万人が死亡。首都ロンドンでいちばん感染者が多かった。ロンドンはその頃世界最大の都市だったが、人口流入に都市機能が追いつかず、衛生環境は劣悪を極めた。水洗トイレはあったが、下水はそのまま市内を流れるテムズ川へ流され、悪臭を放つ水は何ら処理されることなく市民の飲料水となるありさま。コレラは空気感染すると信じられていたが、ロンドンの医師ジョン・スノウは、感染源は汚染された飲み水と看破。

コレラが集団発生した地区を調べて、下水が混入していた同じ井戸を使っていた事実を突き止める。スノウの発見を踏まえてロンドンは上下水道の整備を進め、コレラは下火となる。スノウは感染症の蔓延から社会を守る疫学の創始者の一人だ。

一方の結核も産業革命後の都市への人口流入と衛生環境の劣化を背景に、栄養不足で過酷な労働を強いられた貧困層を中心にヨーロッパ各地で大流行する。とくに多数の労働者が工場に集まって働く工場制機械工業の発展で結核は広がり、多くの人命を奪って「白いペスト」と恐れられた。

「100年ほど前まで、都市化は衛生環境の悪化を伴い、感染症で溢れていました。そこへ働き手としてやってきた免疫を持たない農村出身者は感染症に倒れて退き、それを補充することで都市は成立していた。この教訓から衛生環境が改善され、新規流入者の死亡率が下がって現代都市の巨大化が進むのです」

⑥ スペイン風邪と戦争

年表に見る感染症の歴史

真の敵はインフルエンザだった。

次に目を向けるのは、およそ100年前にパンデミックを起こしたスペイン風邪。風邪といっても実態は凶悪なインフルエンザ。全世界で最大1億人とも推定される命を奪った、中世のペストと並ぶ史上最悪の感染症だ。

スペイン風邪の起源もおそらく中国。1918年、中国から渡米した労働者を通じてアメリカ各地に広がり、そこで罹患したアメリカ軍の兵士が、第一次世界大戦への参戦でヨーロッパに出征。ヨーロッパから全世界へ広がり、3波に分かれて世界を舐め尽くした。

スペイン風邪の由来
戦線が膠着した塹壕戦を勝利に導くべく、イギリス軍が秘かに開発した秘密兵器が戦車。しかし、どんな新武器もスペイン風邪には敵わなかった。

第一次世界大戦では、敵も味方も地面を掘った塹壕に身を潜めて対峙し続けた。塹壕は典型的な「三密」で、それも被害を拡大させたのだろう。スペイン風邪という名前が付いたのは、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカといった交戦国が戦意維持のために実態を隠蔽したため、中立国だったスペインでの被害ばかりが報道された結果だ。

大戦の戦死者の約6割に当たる1000万人は戦病死。その3分の1がスペイン風邪によるものであり、結果、戦いの終結を早めた。戦争と感染爆発で疲弊したヨーロッパから、戦場とならなかったアメリカへ覇権が移る契機ともなる。

ちなみに、現在も流行っている季節性インフルエンザ(H1N1型)はスペイン風邪の末裔。劇症化して感染者が死ぬと、寄生するウイルスも共倒れになる。それを避けるため、ヒトからヒトへの感染を重ねる間に、重症化しないようにマイルドに変化したものだけが生き残ったのだろう。

⑦ 共生への道のり

年表に見る感染症の歴史

効率一辺倒の生き方を見直そう。

長い歴史を経て、私たちは感染症を起こす病原体を特定し、対抗するために種痘に始まるワクチンの数々を作り、多様な抗生物質や抗ウイルス剤を生み出してきた。しかし21世紀に入ってからも、SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)、そして新型コロナウイルスと新手の感染症は次から次へと立ち塞がる。

ヒトの祖先が地上に現れたのは、前述のように約20万年前。それに対して細菌などの微生物が出現したのは、40億年前とされる。ヒトは新参者だからこそ、微生物と仲良く共生するほか、生き残る道はない。逆に言うなら、微生物と共生できる生物だけが自然に選ばれ、進化できたのかもしれない。人類は新型コロナウイルスともいずれ共生するのだろう。

地球は微生物の王国
地球は微生物の王国。微生物がいなくなると、おそらくヒトも生きていけないだろう。この星で暮らすには、微生物と共存共栄する以外の道はない。

こうした新しい感染症と平和に共生するためのヒントは、太古の狩猟採集の時代にあるのではないか。山本先生は最後にそう語る。

「効率化を追求して都市に集まって住み、都市間の移動が自由で盛んになると、新型コロナのような新たな感染症には脆弱になる。狩猟採集時代のように、少数の自律的なコミュニティに分かれて、それぞれの環境を守りながら生活していく社会の方が感染症には強く、微生物と共生しやすい健康的なライフスタイルに近づけるのではないでしょうか」

テレワークしながら、田舎でスローライフを楽しんだりする人がもっと増えたら、未来はよりヘルシーに変わるのかも。

PROFILE

山本太郎(やまもと・たろう)長崎大学熱帯医学研究所教授、医師・博士(医学、国際保健学)。長崎大学医学部卒業。専門は国際保健学、熱帯感染症学でハイチなどで感染症対策に従事。著書に『感染症と文明―共生への道』(岩波書店)。

取材・文/井上健二 イラストレーション/寺西晃

初出『Tarzan』No.788・2020年5月28日発売

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