「負けない強さを自分のものにして、金メダルを獲りたい」競輪選手・新田祐大
少年のころから夢見ていたオリンピック金メダル。競輪とケイリンの間で揺れながら、突き進んできた。いよいよ今年、東京での実現を目指している。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.779より全文掲載)
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴
初出『Tarzan』No.779・2020年1月4日発売
そもそも、ケイリンについて。
その非凡な才能は、誰もが認めるところであった。しかし、現実に世界へ羽ばたくためには、少々時間がかかってしまった。ケイリンの新田祐大である。2018年に開催されたアジア競技会の男子ケイリン。世界的な大会で、初めて2位に入る。そして、19年の2月に行われた世界選手権でも、見事銀メダルを獲得した。
33歳、選手として決して若くはない。だが、この出来事で、新田は世界に顔を売ったことになる。まずは、この成果について語ってもらうことにした。
「日本代表として考えたときには、よかったというか、おめでとうでいいと思います。というのは、僕らがオリンピックに行く場合には、まず枠(その国が出場できる選手の数)を取らないといけなくて、それが海外の大会の―世界選手権が一番重要なんですが―ポイントの累計で決まる。そういう意味では、銀メダルの獲得は、日本チームにとって、東京オリンピックへの弾みがひとつついたと考えています」
実は、新田の世界選手権での銀メダルは、2018年に日本人として25年ぶりに2位になった河端朋之に続き、2年連続の表彰であった。そして、前年に河端がトラックで戦っている姿を、新田は目の前で見ていたのだ。そのときの様子を思い出しながら言葉を続ける。
「河端さんはスゴイなぁって鳥肌が立ちました。今まで世界という実感がなかったのに、可能性が見えてきた。ただ、僕らと河端さんでは温度差があった。彼は銀メダルだったのが悔しかったんでしょうね。喜べばいいのにって思ったんですが、自分が銀メダルを獲ったら、ああこういうことかってわかった(笑)。
世界最高の舞台でメダルの可能性がある。6人で走るので、確率は2分の1です。そうなると金メダルを獲りたいという欲と、メダルを獲らなくてはという責任感がせめぎ合ってしまう。自分はレースの最後の最後で考えてしまった。外から差せば金かもしれない。ただ外へ出て、その間を他の選手に次々抜かれたらメダルが獲れない。一瞬、そのことが頭をよぎって動きが遅れた。それで、銀。悔しいですね、やっぱり」
ただ、このような攻防がケイリンの大きな魅力でもある。
ケイリンについて少し説明したい。この競技は日本の公営競技である競輪をもとにした自転車競技だ。だが、2つはまったく別物と言っていい。
まずはトラックの長さ。競輪ではバンクと呼び、333m~500mであるのに対し、ケイリンは250m。カントと呼ばれる傾斜角も周長が長い競輪は約30度であるのに対し、ケイリンは約45度だ。
そして、何より大きく違うのはライン戦と個人戦ということ。競輪では風の影響を避けるなどの理由から、主に同じ地域の選手同士が協力して、一列に並ぶラインを形成する。本番ではこのラインが2~3本でき、勝負が展開していく。
一方、ケイリンは個人個人が互いを牽制しつつ、競技が進んでいく。つまり、選手個人の能力がより試されることになる。新田はこの2つの異なる競技に、同時に取り組んでいるのである。
オリンピックに向けて、いくつも壁を越えた。
新田は1998年に開催された長野オリンピックを見て、自分も出場したいと思うようになった。12歳のときである。当時から、自転車競技では全国大会にもたびたび出ていたので、自転車で目指そうと決めた。当時、自転車で毎日のように通ったのは背炙山。地元・会津若松にある標高863mの山が練習場所だった。
「小学校6年生のときから、会津工業高校の自転車部と一緒に練習させてもらえることになったんです。すごく幸運だったのは、そこの高校生の人たちが面倒見がよくて、家まで誘いに来てくれるんです。僕は気分屋だったし、背炙山の斜度がきついから、練習やりたくないって日も多かったんですけど。彼らは自分たちの練習にならなくても、ずっと僕のペースに合わせて付き合ってくれたりした。
全国大会出場を目標にする以上、時間のロスだったと思います。それでも、見事に目標を果たした。そういう様子を目の当たりにしたときに、どうすれば成功できるのかが漠然とわかったような気がしました。今でもオリンピックを目指していられるのは、彼らと共に過ごした貴重な時間があったからと、とても感謝しているんです」
福島県立白河高校に進学すると、背炙山効果が如実に表れる。インターハイの1kmトライアルで優勝、アジア自転車競技選手権ジュニア部門・スプリントで2位など数々の成績を残す。この実績が認められ、技能試験免除で日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)に入学するのである。この学校、当時は鬼の指導と、厳しい規則で有名だった。しかし、新田にはそれ以上に気になることがあった。
「規則に縛られる生活は苦痛ではありませんでした。それより、自分が成長できているのかがわからないのが、もどかしかった。外部の大会には一切出られなかったから、大学で競技を続けている選手や、高校の後輩とも“今戦ったら勝てるのか”というのが不安でした。学校では厳しい練習をしていたので、勝てるかもという期待もありましたが…そんな入り混じった気持ちで1年過ごした感じだったんですよね」
卒業後は競輪選手として出発する一方で、オリンピックを目指した。だが、08年の北京への出場は叶わなかった。というか選考にも入ることができなかった。このとき、あることを痛感した。「競輪で活躍できない選手は、日本代表に選ばれない」と。そこから、競輪でトップを目指すようになる。
11年にS級S班(競輪の最高ランクのS級の中でもとくに実力を認められた選手に与えられる)に初めて選出され、最高グレードのGIレースで優勝する。自らの名を高みへと上げ、12年のロンドン・オリンピックにチーム・スプリントという競技で出場を果たすのである。結果は8位だった。
「オリンピックを経験できたことはよかったです。ただ、主催国のイギリスが圧倒的に強かった。それに比べると僕たちは、今だから言えるけど最初からメダルを獲れる可能性はほとんどないと感じました」
練習で疲れ切るので、他には何もできない。
ロンドン後、新田の胸に、競輪とケイリンの両立は、このままでいいのかという思いが広がっていった。当時は、月の3分の1が競輪のレース日で、全選手がこの日程をこなさなくてはいけなかった。その間を縫うように、唯一の木製トラックがある伊豆でナショナルチームの合宿が組まれるのである。どっちつかず、そんな感じだった。
「継続せずに、単発的に合宿を行うことに意味があるのかなと思いました。だから、よりよい環境を作りたくてドリーム・シーカーというトラックチームを立ち上げたんです。それが、リオ(デジャネイロ・オリンピック)の年の4月でした。このチームとともに海外のレースに積極的に参加しようと考えたんです」
結局、新田はリオに出場できなかった。そして日本チームは惨敗に終わる。ところが、その年の秋、状況が一変するのである。日本自転車競技連盟と公益財団法人JKA(競輪とオートレースの振興法人)が、自転車競技の選手育成を目指し、大胆な改革を行ったのだ。リオ五輪で中国女子にチーム・スプリントで金メダルを獲らせたブノワ・ベトゥをヘッドコーチに招聘し、競輪の負担を減らして自転車競技に専念できる環境を整えたのである。これで、新田がずっと考え、望んだことがようやく叶った。
現在は、レースがある日以外は伊豆でベッタリとトレーニングに打ち込むということになる。月・水・金曜日は午前中に筋力トレーニング、月・火・木・金曜日の午後がトラックでの練習。そして、水曜日の午後と土曜はロード(街路を走る)のトレーニングだ。日曜は完全休養。年間数日の休み以外は、これが16年の冬からずっと続いているのである。まるで、競輪学校同様に籠もりっぱなしの生活だ。
「疲れすぎちゃって何もできないですね。朝、起きるだけで大変。自分で望んだことだけど、やっぱりイヤになりますよ。最初のころは、あと3年も続けるのかってうんざりしました。しかし今は残りあと何日しか練習できない、という思いの方が強いです。
現状は誰が東京オリンピックに出場できるか、出場枠すら決まっていません。選ばれたら金メダルを獲りにいかなくてはならない。そのために、これからの期間で本当の強さを身につけることが大事。この前、柔道の大野将平選手が言ってたんです。“圧倒的に強ければ、負けない”って(笑)。確かにその通りだし、僕たちにはそれが足りないと思う。何があっても負けないような状態を作ることができれば、自信を持ってオリンピックに挑めると思っています。
これからの半年あまり、まずケガをしないこと。したら終わりですから。次に、日々のトレーニングを確実にこなす。これは最低限で、それ以上にできるように努力する。そして、レースへのモチベーションを作っていくことです。僕にとっては最後のオリンピック。絶対に出場して金メダルを獲りたいんです」