- 整える
タンパク質と、何が同じで、どう違う?ジェーン・スーと〈味の素(株)〉社員が語るアミノ酸のこと。
PR
きりっとした表情が、美しい女性である。しかし、「相手を前にするとボコボコにしてやろうと思っちゃうんです」なんてことを、サラリと言ってのける人でもある。山田美諭は、今のところテコンドーでは日本最強にして、最高の選手といえよう。今年2月に行われた全日本選手権の決勝では、女子−49kg級で59-5という大差をつけて優勝。他階級を含めて自身通算8度目となる日本一に輝いた。日本の中では同じ階級に敵なしだった女王。だが、リオデジャネイロ・オリンピックは夢に消えた。決意を新たに彼女は、東京への道を歩み続けている。(雑誌『ターザン』の人気連載「Here Comes Tarzan」、No.763より全文掲載)
「今年5月に行われる世界選手権の決勝の舞台に行くことが今の目標なので、全日本で勝つのは当たり前だと考えていました。世界のレベルは本当に高いので、国内で負けていたら話にならない。
私のテコンドーは攻撃的というのもあるんですが、カラダの柔らかさを生かした蹴りが持ち味。相手が読めない軌道で蹴りを出してポイントを重ねるのが得意なんです。全日本では、そのいい部分が出て勝つことができました」
山田は3歳のころから、父親の道場で空手を始めた。これが、フルコンタクト、寸止めなしの空手だった。つまり、本気でボコボコにするようなスタイルを学んでいたのである。
「保育園の友達がやっていたので、私もやりたいと父に言って空手を始めました。それからは、毎週日曜日は空手の大会に出場していましたね。ただ、私が空手をしていたときは、男女混合の部といって、いつも男子と試合をしていたんです。
高学年になってくると、体格の差がどうにもならなくなった。空手って、階級が細かくなくて、10kg重い子と戦うときもある。私は体型的にも、それほど大きいほうではなかったので、なかなか勝てなくなったんです。そんなときに、私が足技を得意にしていることもあって、父がテコンドーをやったらと言ってくれたんです」
空手では男子と戦いながらも、全国大会で3位になるほどの実力だった。しかし中学校1年のときにテコンドーへと転向することを決意した。
テコンドーは華麗な足技が勝負の重要なカギになる競技で“足のボクシング”ともいわれている。しかも、1988年のソウル・オリンピックで公開競技になり、12年後のシドニー・オリンピックでは正式種目に決定した。空手は東京オリンピックで正式種目になったが、山田がやっていたフルコンタクトはその範疇ではない。そんなことも考えて、父親はテコンドーを勧めたのだろう。そして、父親自身もテコンドーを始めて黒帯を取り、道場で空手と並行して教えるようになっていったのだ。
「私は空手が楽しいと思ったことがなかったんです。フルコンタクトって本当に痛いですし、練習も蹴られるのにひたすら耐える練習とか(笑)。嫌でしたね。
だから、テコンドーを始めたときは、全然痛くないって思ってました(笑)。それに、自分の技がポイントになって出るので、勝敗がわかりやすい。空手が実戦的だとしたら、テコンドーはゲーム感覚。最初は、それが楽しかったんです」
中学校1年から全日本ジュニアに出場する。始めたばかりで、いきなり全国にまでコマを進めてしまったのだ。2年では3位。そして3年では優勝する。
「そのころは空手の延長ですね。蹴りもテコンドーは直線的ですが、空手は振り回すように蹴る。テコンドーだけをやってきた選手は、空手のような当たりが痛いから、やるのは嫌だと思っていたでしょうね」
高校1年生のときに、初めて国際大会に出場する。世界ジュニアだ。海外へ行くことができたのがうれしかったし、テコンドーが楽しくなってきた。そして、もっと強くなりたいという強い気持ちも芽生える。なんといっても、海外選手のスゴさを目の当たりにしてしまったのだから。
「全然、違うんですよ。ハングリー精神っていうか。絶対勝つという気持ちを、剝き出しにして戦っているんです。もちろん、体型だって手足は長いし、パワーも凄い。このときは、減量をしていなくて-52kg級で出場していて、今の−49kg級よりも大きい選手とやっていたから、よけい凄いなぁと思っていましたね」
高校2年生のときに、シニアの全日本に出場し、初優勝を果たす。それから、ずっと日本一になり続けているのだから、その強さはわかっていただけるだろう。このころは、まだ父の指導のもと練習をしていた。
「だから、全日本で初優勝したときは、まだテコンドーというよりは、蹴りにしても空手みたいでした。自分の感覚だけでやっていたんですね。ただ、父とずっとやってきたことで、基礎体力がついていったり、打たれ強くなったりしたことが、今に繫がっていると思っているんです」
大学は強豪の大東文化大学。ここで、テコンドーの技術を金井洋監督のもと、本格的に学び始めたのだ。
「蹴り方ひとつとっても、全然違うんです。でも、私はわりとすぐ取り入れることができて、そこからは、本当にテコンドーを追求していきたい、オリンピックにも出場したいと思うようになりました。
でも、そのときは、まだ甘い気持ちだったんですね。金井監督に“お前、本気でオリンピックに出たいのか”と怒られたことがあるんです。自分では本気だと思っていたのですが、全日本では勝っているものの、国際大会になると結果が残せない。オリンピックで本当にメダルが獲れるのかなぁ、とかそういう不安は正直ありました。監督はそれを見抜いていたんです」
監督を見返してやりたい気持ちがあったかもしれない。そこからは、積極的に練習するようになり、山田の大きな特徴でもある蹴りにも磨きがかかっていく。目標はリオデジャネイロ・オリンピックである。大学の4年間をこれに懸けてきたと言ってもいい。だが、リオの代表選考会に出場するための大事な試合で、思わぬ落とし穴が待っていたのだ。
「日本では負けないと思っていたので、ケガをして準決勝で負けたときには、何が起きたのかわかりませんでした。相手と蹴り合いになったときにバランスを崩して、両膝から床に落ちたんです。すごく痛くて、立ち上がるまでにも時間がかかりました。そして、立っても蹴りを出せないんです。結局、負けてしまったのですが、敗者復活戦ができることになった。やるしかないと思って出場しましたが、全然ダメでしたね。膝の靱帯を損傷していたのです」
これで、すべてが夢と消えた。当時の山田の頭の中には、リオ以降の競技人生はまったく描かれていなかった。手術を受けることになったのだが、そのとき脳裏をよぎったのは、テコンドーをやめることだった。
「毎日、ケガをしたときの試合を見返して泣いたり、親にも当たったりして。手術から復帰するまでの1年で、それまで応援してくれていた人の中で、離れていってしまう人がいました。山田はもうダメだ、なんて声があることも知りました。ただ、そんな中でも、自分のことを支えてくれている人もいた。それで、そういう人たちに、恩返しがしたいと思うようになっていったんです」
現役続行、そう決断した。そして、山田はこのケガでひとつ大きなモノを手に入れた。それが、強い気持ちである。「これ以上悪いことは、この先、テコンドーをやっていってもないだろう」という、開き直りに近い心が生まれたのだ。これが競技者にとって重要なのだ。山田自身も「もう、何でもがんばれると思います」と言っているのだから。
山田は今、城北信用金庫の社員として週1日働きながら、練習は母校の大東文化大学で行っている。どのようなことをやっているのであろう。
「基本的には、テコンドー部の練習に参加させてもらっています。ランニングしてアップ、それからミットを使って技術練習、スパーリングなどですね。サーキットトレーニングもやります。フッキン、背筋、腕立て伏せなどメニューを決めて、20秒動いて10秒レストだったり、20秒レストなしで繰り返したりです」
大学の練習は夕方から。午前中は国立スポーツ科学センターに、筋力トレーニングのために通っている。
「ベンチ、スクワットなどベーシックなトレーニングと、テコンドーで必要な筋肉の強化ですね。蹴りに重要な内転筋などです。それと、テコンドーでは相手のカラダを押すことが許されている。私の得意な蹴りも、膠着状態になったときに相手を押して、中段、上段に入れるというもの。そのために、仰向けに寝て、上からボールを投げてもらって、それを押し返すようなトレーニングもしています。トレーナーの方に、いろいろメニューを考えてもらってます」
山田はテコンドーで一番必要なのは体幹の強さだと考えている。これがあって初めて技にキレが出るし、力勝負にも負けなくなるのだ。
「テコンドーは何度も言うように、蹴り技が中心となります。つまり、片脚になっている時間が多い。とくに女子がそうなのです。蹴りと蹴りがぶつかったあと、いかに脚を上げた状態のままで次の攻撃に移れるかが重要。そのためには、相手の力に耐えてバランスを取っていられる、体幹の強さが必要になるんです」
日本の中では最強の名をほしいままにしている山田だが、海外には強い選手が大勢いる。昨年のアジア大会で、彼女はようやく国際大会の初のメダルを獲得した。銅メダルである。これも大きな自信となっているはずだが、東京オリンピックではどのような活躍を見せてくれるのか。
「東京オリンピックで金メダルを獲ることが最終目標です。そのためには今年、最初に言ったように、世界選手権で決勝の舞台に立つことを目標に置いています。
それと、海外への合宿にも多く行くようにしようと思っています。強い選手とやって経験を積んだり、技術を盗んでいきたいです。実戦から学べることは多いですからね。
さらに、技のバリエーションを増やしたり、相手との駆け引きを研究したりと、やることはたくさんありますね。あと1年半ほどですが、私にとってはすごく楽しい時間になると思っているんです」
こちらもチェック! 関連記事:
取材・文/鈴木一朗 撮影/下屋敷和文
(初出『Tarzan』No.763・2019年4月18日発売)